2022年9月下旬、陸上自衛隊が導入を検討中の新たな戦闘車両「共通戦術装輪車」2両が九州北部の港や東名高速の御殿場ICなどで確認されました。「共通戦術装輪車」とは陸上自衛隊が導入を計画している次世代の車両装備です。ベースとなる車両から様々な派生型を開発し、ファミリー化するため「共通戦術総輪車」という名はいわば総称で、今回確認されたのはそのなかの歩兵戦闘型と機動迫撃砲(自走迫撃砲)型でした。
ベースに用いられているのは、陸上自衛隊が導入を進めている、いわゆる「装輪戦車」と呼ばれる16式機動戦闘車。同車は三菱重工が開発・生産を請け負っており、その技術を応用して開発しているようです。
なお、2022年9月現在、陸上自衛隊には一般に歩兵戦闘車(IFV)と呼ばれる装備として「89式装甲戦闘車」、自走迫撃砲として「96式自走120mm迫撃砲」があります。前出の「共通戦術装輪車」の歩兵戦闘型と機動迫撃砲型はこれらの後継になると推察されます。
陸上自衛隊が2022年4月に出した「令和4年度役務等契約(技術援助)募集要項」によると、同年8月から9月の期間で「『共通戦術装輪車』(第2次試験)射撃試験に関する技術援助」が、さらに10月には「『共通戦術装輪車』(第3次試験)射撃試験に関する技術援助」の実施が盛り込まれていました。
時期的にはこれに合致することから、恐らく九州の演習場や富士山近傍の演習場などで各種試験を実施するために移動していたものと思われます。
5.荒川放水路開削工事による移転で大きく人生を変えた人々
1911(明治44)年内務省は土地収用事務所を千住に設置、用地買収は農地、住宅地、工業地、
商業地が対象で、東京府は17町村、埼玉2町村、面積約11km2
に上り、買収金額590万円にもなっ
た。土地収用対象個数は1300戸であったといわれ、用地買収・移転は1913年(大正2年)1月から
始まり、わずか3カ月で目標の85%が終了した。鉄道、神社、寺社などの公共的な土地は移転対象となったが、後に交渉することとされた。土地の買い上げ価格も、土地により差があり、通常1坪
(3.3m2
)1円であったが、水場はそれより安く買収された。
千住に住んでいた鈴木一族の当主は、立ち退かねばならない苦しみを漢文で感旧碑として残して
いる。碑石の横に、現代語訳があるが、主な内容は以下のとおりである。
「我が祖先因幡守貞宗は武田氏に仕えたが天正元年、孫信義がこの元宿を開墾し良田を得た。
当初は一族二十四戸。代々農家で天明の飢饉にも土地を固守、明治四十年、四十三年の洪水で
は何日も家を浸水し、田畑荒廃すれど村から離れず。大正元年八月、我が村荒川改修区域に属
す。去りがたいが祖先からの土地を国に渡し、一族は四散する。ああ、この地に住みて四百余
年、今ここに去るにあたり愛慕の情禁じ得ない。もって碑を建て不朽に伝えんとす。大正五歳
三月 貞宗遠孫鈴木輿吉建之」
同じ鈴木一族家には、先祖が立ち退く際に交わした買収協議書には、次のようなことが書かれて
いた。
「家田畑計六町一畝七歩九合六勺 金弐萬五千六百五拾五円 大正二年一月十日 内務省東
京土木出張所長近藤仙太郎」
用地買収で、金を得て移転した人々の生活は大きく変わり、人生もいろいろな方向に向かった。
絹田幸恵著『荒川放水路物語』では、人生が大きく変わった人を実名で取り上げているが、ここで
は、その著著をもとに、そのうちの数人の例を紹介したい。
江北村の水場に住むAさんは、土地は安くしか買って貰えず、墓地も掘り返して堤防内に越し
たが、同じ広さの土地は買えない値段であったと言う。生活も移転以前より厳しいものであった。
同じ広さの土地を得ようと終戦(第二次大戦)まで努力したが不可能であったそうだ。
1914年に千住に越してきたBさんは、綾瀬川近くで高級な着物包装紙をつくっていたが、土地
買収金をすべて千住銀行に預けていた。第一次世界大戦のあと、一時好景気であったが、その後不
況となり銀行は倒産し、あずけた金は返してもらえなかった。多くの人々に同じようなことがおき、泣き寝入りをした。世界大恐慌は、多くの銀行を潰し、預金者の財産を一瞬のうちに失わせた
が、移転者も例外ではなかったのであろう。
江戸川区の西一之江に移転した、老婆のCさんが述懐したことも書き残されている。「今思い出
しても身の縮まる思いがする。この先どうしたら良いか、 一家は夜も眠れない有様だった。買い上
げられる土地はたいてい700円から1000円くらいで、 とてもよその土地を買うには足りなかった。
ここで落ちつくようになったが、 一家五人が生活を照るのがやっとでした」。わずかな広さの農地
しか持っていなかった人々は、多くがこのような苦しみを味わった。
著者の身近な者にも、移転により、人生が大きく変わった者がいた。彼は、立ち退きで思わぬ大
金を手にし、そのことにより色街に通い詰め、ほとんどの金を使ってしまった。残った金で新しく
商売を始めたものの上手くいかず、結局廃業し、土地も失ってしまったことから農家にも戻れず、
一雇用者として人生を終えている。
一方、『荒川放水路物語』では、何とか生活の維持が出来たり、移転が新たな生活への転機に
なった人も紹介されている。 平井に住むDさんは、大正2年、2町2反8畝7歩の田畑を6589円70
銭で買収に応じた。農業を続けることができなくなったが、貸家にできる家を持っていたので、こ
れをもとに細々と生活を続けることができた。預金や投資をしなくて良かったと子どもたちによく
話したそうである。田畑を買収され、 お金の入った多くの人たちは、銀行の倒産や、事業に手を出
して金を失ったからである。
現在の小松川近くの五分一の14才のEさんは、農業を学ぶために最初三年間の見習い奉公に出
された。荒川放水路工事があるので、 父親は、次に息子を大工の見習いに出した。大正2年頃小松
川あたりは買収が始まり、Eさんの家も田畑は買収された。ところが父親が早くに亡くなったため、家長として、大工の見習いをしながら、本格的に工事が始まらない買収された土地で作物を
作った。その後一人前の大工なった。この間、買収された土地に対する税金を納めないで済んだそ
うである。Eさんは、工事事情をうまく利用できた例であろう。
『荒川下流史本編』では企業の移転について触れている。
明治18年に現在の東向島(南葛飾郡寺島村玉の井)に設立された、3600坪の東京でも有数な大
きさをもつ牧場も開削工事で移転した。60頭のホルスタインが飼われ、 牛舎と牛乳工場は玉の井
に、 牧場は現在の京成線四つ木近くにあった大倉乳業である。この大きな牧場が、 現在の西新井橋
を渡った土手に移転した。この会社の移転は大変で、60頭の乳牛はゆっくり歩くので日数もかか
り、酪農用具、作業道具、掃除道具などが多数あり、 大がかりなものであったそうである。これほ
ど苦労した畜産工場は、 牛乳など畜産製品の製造が難しくなり、千葉の明治乳業に買い取られた。
このように企業にも大きな変化がもたらされた。
足立の西新井から砂村には、普通の地価とは比べものにならい安価な買収金額にたいし、これは
生活もできないと再検討をして欲しいと裁判を起こした。しかし、土地収用法により大正6年6月
に24戸すべてが強制収用された。裁判は大正11年第一審の判決があり、保証金を倍額にする提案
があったが、満足せず、大正6年6月に土地収用がなされても裁判を続けた。最初の3倍の金額の
提示があったが、結審することはなかった。
約十年続いたこの裁判費用は、3倍の補償額もなくなってしまうほどであったと言われている。
その後和解が成立したようであるが詳細は不明である。
『荒川放水路変遷史』では寺社の移転について触れている。荒川放水路開削工事による移転は、
農民、一般市民だけでなく、寺社の移転が神社23軒・寺院13件もあり、移転代替地が荒川放水路
用地とは、別に土地買収が行われた。寺院は檀家など地元民と関わりが深く、学校等の公的な役割
を果たした。
現在、葛飾区四つ木にある古刹浄光寺、通称木下川薬師(きねがわやくし)の移転は、8年もの
時間を要し、 移転まで放水路工事予定地に取り残された。 寺には、多くの檀家、 墓地があり、境
内は約6反23歩(約6023m2
)の広さがあり、寺が古いこともあって、檀家との結びつきもつよく、
容易に移転できるものではなかったし、また、奈良時代に伝教大師が彫刻した仏像を祀った伽藍を
建てた寺とし、遠くから信者が参拝に来る寺でもあったからである。土地収用の連絡があったと
き、住職は消極的であったが、内務省役人の指導があり、寺と境内は水没により廃寺とし、改めて
中川の埋め立て地に与えられた土地に、木下川薬師を再興するということになった。その届けを、
内務省と天台宗の総務庁に提出する話し合いがつき、 大正8年に木下川薬師は移転することが決
まった。そして、本堂、客殿はこれまでの建物を引き継いだ。本堂の天井には、大正八年八月十三
日上棟式と書かれている。
『足立史談』と『荒川放水路物語』には理性院の移転が取り上げられている。葛飾柳原村北東部
の理性院も、工事により、放水路の西側の柳原に移転した。この寺の移動は大変なもので、本堂と
庫裏を2㎞も離れたところへ、 コロを用いて引いていった。この寺の住職は、 子どもの頃、工事中の放水路と新しい川を渡り、綾瀬川の中の橋を渡って南綾瀬小学校に通わねばならなかったと述懐
している。この寺は、この地域に小学校がなかったため、 本堂が低学年のための仮分教場となっ
た。後に、通学の難しさをなくすために、理性院の隣に柳原分教場がつくられ、 さらに独立校と
なった。また、春、秋の納税期には、特設の税務署となった。警察の警備は、葛飾区にあったにも
かかわらず、足立区の千住警察が担当していた。このように、柳原地域は地理的に葛飾とつながり
が薄く、 交通や生活、さらに葛飾の役所のバックアップも十分でなかった。昭和9年柳原地区は足
立区に編入、小学校も足立区立柳原小学校となった。
『ごぶいち・人・生活・文化』では、街道の移転について触れている。江戸時代から明治にかけ
て道路があった重要な交通要所も荒川放水路に没した。図5は旧千葉街道と旧行徳道が交差する四
股橋の図である。ここは、東京と千葉をつなぐ2本の街道が交差するところで、現江戸川区の小松
川橋の近くにあった。行徳道は平井と今井を結び、今井から渡しを使って行徳へ、平井から渡しを
使って浅草方面と通じていた。千葉街道(佐倉街道)は、西小松川村からから小岩を結び、小岩か
ら市川の渡しを使えば市川へ、新町から逆井の渡しを使えば本所・両国方面へ行けた。両国へ一
里、市川へ一里、行徳へ一里、浅草へ一里の四つの街道を交差するする四つ筋は四股と呼ばれた。
小松川橋近くは、 荒川放水路と中川放水路が並行して開削されていたが、四股は荒川放水路側に
あった。四股には、 松川尋常小学校があり、校庭には征露記念碑が建てられていた。また、皇族が
行徳の御狩り場へ行く道になっていたため、時折、皇族の姿が見られた。都心と国府台を結ぶ千葉街道には、朝晩兵隊が軍靴の音を響かせていた。
このような交通の要所も、荒川、中川両方水路の開削により、四股付近にあった街道沿いの建物
全て、すなわち、役場、松川尋常小学校、諏訪神社はじめ半数近くの人家が川底に没した。その面
積は西小松川村の約3分の1にもなった。
放水路開削工事のために、移転を余儀なくされ、 人生が暗転した人々が非常に多かった中で、 そ
れを機に新しい充実した人生をつくり出した人もいた。その基礎には、 本人のたゆまざる努力が
あったことを認識する必要がある。
開削工事予定地にかかり、 移転した後、厳しい家族環境に負けずに、土建業「野口組」を興し、
下流工事事務所の仕事を多数請け負い、 事業を拡大、成功させた人物に野口辰五郎がいる。江戸川
区東小松川あたりに移り住んだ時、「買収費は、田が坪五拾銭、 畑八拾銭、宅地一円。いよいよ先
祖伝来の田畑と別れ、家や墓地の移転となって戦争のような騒ぎであった」と手記に残している
(『荒川新発見』所収)。大正2年開削工事が始まり、掘削機で土を掘り、土一杯になった土削運車
を機関車が土を運び、次第に堤防が造られて行くのを見て、 弱冠20歳の青年は、この仕事に自分
の一生をかけようと、工事を請け負う仕事を始めたのである。彼の働きぶりについては、「私は土
木工事が大好きで、人一倍働いた。定保(基本給)は土運車11回分で、それ以上は1回につき、日
給の一割が支給された。家には弟妹がいたので一銭でも多く稼がなければならない。夜食を終える
と、また現場へ行って段取りを」と、たいへんな努力をした。職位については、「自分は半年で準
工夫になり、徴兵検査前には定工夫に上がり、異例の出世だと、役人や同僚から祝福されたもんで
す」準工夫は100人中1人か2人がやっと昇進できる地位で、賃金も60銭であった。その後、 四つ
木橋架橋等数々の工事を請け、ますます実力をつけて立派な会社に発展させた。人望も厚かったこともあって1930(昭和5))には小松川町議に当選、その後、府議・都議を努めた。
6.終わりに
国家の東京下町地域の洪水被害を解消するという絶対的な国家プロジェクトとして実施された荒
川放水路開削工事は、20年という長期年月をかけて完成した。しかし、その後も大きな台風など
で、流域の人々の生活は氾濫する川に翻弄された。昭和の後半になって、新たに、強固で大量な降
雨でも、 決壊しない、 高い堤防が築堤されて、その後は、大洪水が発生していない。普段、ゆった
りと流れる荒川からは、放水路開削工事にともない川底に沈んだ1300戸の住民たちの、厳しい人
生があったことは知られていない。
荒川は、いつもそこに流れている、洪水はほとんど起きない川、という程度の認識しかない。
しかし、川の堤防は、いつまでも洪水から我々を守ってはくれない。年数を経れば、堤防も劣化
し決壊する可能性があることを忘れてはならない、我々は、川には、川そのものの歴史はもとよ
り、その流域に生活している人々の多くの生活や人生があることを認識すべきである。川の存在が
市民の意識から遊離しているのは、国や自治体が、川の存在を当たり前のこととし、積極的に話題
として取り上げてこないのが一因であろう。生活面はもとより、産業面でも河川の利用法やあり方
について、今後も考えていく必要があろう。
参考・引用文献
1. 荒川放水路変遷誌編集委員会編『荒川放水路変遷誌』国土交通省関東地方整備局荒川下流事務所発行
(2011)
2. 東京新聞荒川取材班、井出孫六『荒川新発見』東京新聞出版局(2002)
3. 江戸川区史編纂委員会編『江戸川区史第1巻、第2巻』江戸川区(1976)
4. 絹田幸恵『荒川放水路物語』新草出版(1992)
5. 荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 本編・資料編』(財)リバーフロント整備センター発行(2005)
6. 土屋信行『首都水没』文藝春秋社(2014)
7. 伊佐九三郎『大河紀行 荒川』白山書房(2012)
8. 教育百年史執筆委員会編『江戸川教育百年史(上巻)』江戸川区教育委員会発行(1978)
9. 足立区教育委員会編『足立史談』
10.『新聞太平年代記』喜幻堂(1868)
11.五分一士談会編集発行『ごぶいち 人・生活・文化』(2006)
図3 計画流量配分図
1907年(明治40年)に推定された流量に基づき岩淵地点の推定流量から
3340m3
/sを荒川放水路に流下させ、隅田川には堤防がなくても洪水が氾濫
しない830m3
/s流下させる計画であった。
「荒川放水路変遷史」(2011)より
荒川放水路開削事業の工事規模概要
名称 数量 備考
総工費 31,446,000円 当時の大学卒の初任給35円
延長 22km
浚渫土量 910万㎥ 堀削土量
堀削土量 12270万㎥ 2180万㎥=東京ドーム約18杯分
築堤土量 1204万㎥
鉄道橋 4橋 総武線・常磐線・東武線・京成押上線
道路橋 13橋(1鉄橋、12木橋
閘門 3ヶ所、水門7ヶ所
土地買収 1098町歩 約11㎢=東京都北区の面積の半分
移転戸数 1300戸
写真2 荒川放水路開削工事を伝える当時の写真
荒川下流誌編纂委員会編『荒川下流誌 資料編』より
荒川放水路変遷誌編集委員会『荒川放水路変遷史』国土
交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所(2011)
明治・大正・昭和期に行われた荒川放水路開削工事と
市民の生活
平戸 ルリ子*・村上 和雄**
〔東京家政大学博物館紀要 第 22 集 p.123 〜 135, 2017〕
1.はじめに
明治維新政府は帝都建設を目標に、隅田川周辺の官有地を民間に払い下げ、 そこに多くの工場を
建設させ、 それに関連する企業も設立させた。帝都の一角として発展させた理由は、工場に必要な
物資を隅田川、小名木川の水路網を生かして運搬させた立地条件にもあった。その結果、工場労働
者がこの地域に流入し、工場や住宅等土地の利用法が大きく変わったが、深刻な問題もあった。そ
れは洪水である。明治元年から43年まで、床上浸水が10回以上あり、特に1910(明治43)年の洪
水の被害は甚大なもので、これを契機として荒川の洪水対応能力の向上がのぞまれ、岩淵水門を起
点に放水路を造り、荒川の水を東京湾へ放流するという壮大な放水路開削事業計画が立てられた。
1911(明治44)年荒川放水路開削事業は着手され、 用地買収と移転の協議に入った。1913(大正2)
年、人力による高水敷の堀削工事が始められた。この開削工事は、工事費、工事規模、開削土量な
ど、すべてが桁外れのビックプロジェクトで、安価な労働力を使い、 機械、船を駆使して行われ
た。放水路完成は、度重なる風水害により遅れ、さらに大正12年には関東大震災があり、壊滅的
な被害を受けた。開削中の荒川放水路河川敷は約15万人の避難場所になったといわれ、 工事は大
幅に遅れた。そして、1924(大正13)年10月岩淵水門が完成し、上流から下流まで繋がり、それ
ぞれの地域の浚渫作業、水門工事を終え、1930(昭和5)年、20年にわたる大規模治水工事が終わ
り、荒川放水路が完成した。
本稿では、荒川放水路開削工事に関してではなく、大プロジェクトの陰で、 先祖から受け継いで
きた土地を収用された人々の人生や、寺社の移転、川の底に沈んだ街道などに焦点をあて、述べて
いくことにする
平戸 ルリ子・村上 和雄
— 124 —
2.現在の荒川と中川
明治・大正・昭和の約20年にわたる荒川放水路開削工事で、岩淵水門により、上流からの荒川
の水は、80%が開削されて荒川放水路に流され、それまで通称隅田川と呼ばれていた荒川に、残り
の20%分を流し、河川名を正式に隅田川と改めることとした。また川越の伊佐沼を水源として荒
川と合流していた新河岸川は、大正~昭和の改修工事を経て、岩淵水門付近で隅田川に合流された。そして、1965(昭和40)年の新河川法により、荒川放水路は正式に荒川という名称になった。
現在、荒川と並行して流れている中川は、元々現在の流れの場所にあったが、荒川放水路の開削工
事で荒川が隣に来て、並んで流れるようになった。しかし、東京湾河口部で、2つの川を仕切って
いた中土手の埋め立て工事が行われたため、荒川と中川は最終的には一つの川になっている。図1
には、現在の岩淵水門から東京湾河口に至るまでの荒川を示した。写真1には、最近の岩淵水門
(荒川開削工事で建設された門)を示した。
3.江戸時代から荒川放水路開削までの荒川の歴史
家康が江戸入府の頃(1590年)、当時の荒川は、利根川と合流、東京湾へと注いでいた。雨が降
り続くと、 埼玉東部低地から江戸東部まで、しばしば洪水に見舞われた。1594(文禄3)年、川俣
から加須を東に流れる会の川を川俣でしめ切り、利根川の流れを東に変えた。しかし、下流では荒
川と利根川は合流して東京湾に流れていたので、埼玉東部低地から江戸東部までの洪水は解消され
なかった。荒川の名は、よく氾濫を起こす「荒ぶる川」からついた名であった。
1629(寛永6)年家康は、伊奈忠次に荒川流路の付け替えを命じ、忠治、忠克の三代にわたって
付け替え工事が進められた。利根川の流れを鬼怒川に繋いで、銚子から海へ注ぐ、 現在のような川
にした。さらに、伊奈氏は、荒川の流路の付け替えを進めた。
現在の元荒川筋の流れを「久下」地点でしめ切り、 和田吉野川へ落とし込み、 入間川に流して、
荒川の水を現在の隅田川を経て東京湾に注がせた。久下は、荒川で起こる「洪水の通り道」と言わ
れた場所だが、周辺に中山道があり、堤防上を街道が通っていたので、久下の長土手と呼ばれてい
た。荒川の付け替えは、中山道の整備、防備に大いに寄与した。また、水が調節されたことで、元
荒川流域では新田が開かれ、 米の収穫も増えた。
しかし、付け替えによっても洪水をなくすことはできず、 夏から秋にかけて毎年のように洪水が
起き、江戸市民にとって洪水がなくなることが、長年の願いであった
洪水に関する江戸市中の様子を記した、「太平年代記」には次のようにある。
「寛保二年の水、とりわけ本所中の郷、北わり下水の近所、かめと、うなぎ澤、さる江、羅
漢寺のあたり、出水つよふして、民家の二かいまでつく。よってこの辺やねの上へのぼり、あ
るいは二階なきは、屋根をいえのうちよりこわし出るといへども東西一面の大水にて、 あしよ
はき老人またはわらべのたぐひ、流れ死せんとす」
また、このとき、「将軍吉宗が鯨船による水災者の救助を命じた」ともある。
1742(寛保2)年の夏は、7月28日から降り出した雨が、暴風雨、降雨と続き、幕府は8月6日に
飢民の救助、減水対策を行い、8月24日にやっと水が引いたという。この洪水は特別であったが、
市民たちは洪水に備え、船を用意していたという。
江戸時代、 江戸市街地が栄えるに従い、人口が増えたが、荒川上流地域の農村では、頻繁に洪水
に襲われ、農村地帯は洪水と長い間、対峙しなければならなかった。
幕府は、江戸市街地を洪水から守るために、日本堤や隅田堤を築堤した。1693(元禄6)年隅田
川と上野台地を結ぶ微高地を480間(860m)延長して、高さ10尺(約3m)、 幅4間(7.2m)の堤
防をつくり、この日本堤は、浅草聖天町から三ノ輪を結び、遊郭・吉原への通い路となった。築堤
の詳細な資料はないが、隅田堤は、綾瀬川の合流点から小梅町に創られた(綾瀬川合流点上流は掃
部堤宿堤と呼ばれた)。この二つの堤が接近するところは、堤防が漏斗状に狭窄部となっているの
で、日本堤の上流側を氾濫地帯として下流に流れる水量を調節して、洪水の抑制をしていたとみら
れる。他に、熊谷あたりで築かれ、延長されていった熊谷堤があり、荒川左岸に沿って遊水池をと
りながら堤が連続してつくられた。左岸につくられた理由は、左岸は平野が開け、右岸は高台に繋
がっていたためであろう。右岸の流域の人たちも洪水に備えて路面から1.5~2m位の高さに土盛
りをして、家を建てていった。北区志茂、足立区新田には水塚の上に家が建てられていた。 次の
表は1629年から1999年までの主な江戸・東京地域の洪水被害年表である
4.荒川放水路開削のきっかけ
荒川洪水の歴史を表1に示したが、江戸時代にたびたび洪水に襲われたが、さらに明治時代に
なっても頻繁に起きたことがわかる。明治元年から40年の間に、床上浸水は10回以上もあり、被
害が大きかった明治40年の洪水は大変なもので、この年、8月に3つの台風が関東地域を襲い、大
量の降水があり、荒川、利根川、多摩川で洪水が起き、特に多摩川は40年来の出水、荒川もそれ
までにない水位の洪水に襲われ、東京地域は甚大な被害を受けた。様々な堤防の決壊、越水がおき
た。岩淵では、普段の水位より2丈2尺(6.7m)も増水し、右岸の王子・三河島から三ノ輪町・根
岸・橋場・今戸の地域が浸水した。埼玉川口町付近では、水が家の屋根まで達し、人々は屋根上へ
と逃れ、赤羽工兵隊に救助された。南千住、千住の橋戸青果市場では、3千戸が床上5尺(1.5m)
の浸水の被害を受けた。この洪水による全東京府の被害は、行方不明者1人、負傷者14人 、家屋
破壊2,111戸、浸水戸数46,585戸、道路破損149カ所、橋梁の流失1カ所、破損8カ所に達し、救助
された人々79,654人にも達するものであった。
明治・大正・昭和期に行われた荒川放水路開削工事と市民の生活
— 127 —
表1 江戸・東京地域の洪水被害年表
西暦 年号 洪水・被害
1742
1791
1824
1846
1859
1870
1884
1907
1910
1911
1914
1917
1923
1928
1947
1949
1958
1966
1999
寛保 2
寛政 3
文政 7
弘化 3
安政 6
明治 3
17
40
43
明治44
大正 3
6
12
昭和 3
22
24
33
41
平成11
8月、江戸第一の洪水、新大橋・永代橋破損、白鬚神社南寺島堤、葛西古谷野綾瀬、千住の堤
防決壊、小菅から本所、深川が浸水、浅草、下谷から江東一帯泥海と化す
8月、関東一円大風雨、高潮、隅田川増水、新大橋・大川橋破損
9月、大暴風雨、高潮、深川から霊岸島、築地、芝浦など海岸地域で被災
8月、風雨、隅田川洪水、本所・深川浸水深さ三尺、永代橋破損
6~7月、大雨、荒川洪水、亀戸・亀有・柳島浸水深さ床上三尺、浅草床上四~五尺 中川・
荒川洪水が小菅で合流、江戸期の大水害の一つ
7月、風雨、小高潮、荒川洪水、深川・葛西被災
7月、風雨・小高潮,荒川洪水、深川・葛西被災
9月、風雨,隅田川洪水、永代橋・新大橋破損
9月、大暴風、高潮、本所入江・亀戸・南葛飾被災、堅川・大横川・横川・十間川溢水荒川、
隅田川洪水
8月、台風、荒川、綾瀬川洪水、隅田川洪水、言問堤破堤・溢水、東京市内流出58棟、浸水
142,271戸
9月、台風、内水氾濫、小石川・下谷・浅草・深川被災、荒川出水、利根川出水を合わ せ、
北辺、江東方面、北豊島、南足立、南葛飾など浸水
8月、荒川堤防ほとんど全部浸水し、堤防決壊数十カ所に及ぶ、岩淵町より志村にかけて出水、
1丈7尺(または2丈7尺)、荒川、利根川の出水により南足立の全部、北葛飾の北半分、南葛
飾の西半分が浸水
6月、台風、内水氾濫 7月、台風・高潮 洲崎堤破堤 8月、台風、内水氾濫
荒川放水路の開削工事事業始まる
8月、大暴風雨、荒川、利根川氾濫で赤羽、尾久、千住、江東地帯から葛飾方面迄浸水
10月、暴風雨、津波、隅田川の増水わずか、しかし東京湾沿岸では,大被害、月島で歩道路上
125cm,東中通り9丁目堤防付近で165cm浸水
9月、関東大震災、横曽根以下の無堤部を除き,熊谷までの荒川堤防被害52カ所、荒川本流全
川にわたる護岸被害34カ所、工事中の荒川放水路堤防も被害
7月、明治43年洪水に次ぐ出水、放水路に洪水が流下、東京市内の被害なし
9月、カスリーン台風、荒川本流2カ所で決壊、入間川筋でも各地で越水破堤、堤防欠損は合
計24カ所、約1800m,被害は利根川の氾濫と合わせ2市226町村
キティ台風、新荒川大橋2400㎥/秒,岩淵水門上水位A・P+5.16m
9月、台風22号(狩野川台風)
6月、台風4号
8月、熱低豪雨で出水、岩淵水門で水位6.30m
(荒川下流工事事務所『七十五年史』を参考に筆者作成)
さらに大規模な洪水被害は、1912(明治43)年にもあった。8月11日、台風は房総半島をかすめ
太平洋上にぬけた。関東から東北各地に集中豪雨が降り続き、日本列島の半分に大きな被害がもた
らされた。荒川源流の甲武信ケ岳付近の山間部には900から1200mmの雨が降った。利根川の栗橋
で、6.5m、荒川の川越では、8.5m、江戸川の宝珠花では、6.4m、北区の岩淵では8.5mも水面が上
昇した。埼玉県の堤防は13カ所が決壊して、その水が流れ出し、流域一帯、荒川水系の元荒川や
綾瀬川、中川が増水し氾濫、利根川、江戸川、荒川流域の低地はほとんどが水浸しになった
全国の被害は、死者行方不明者1357人、全壊流出家屋約6600戸、床上、床下浸水51万8000戸、
堤防破壊7063カ所、被害者150万人、被害総額1億2000万円で、国民総所得の4.2%にも達した。
東京下町一帯は冠水し、王子、岩淵、西新井、浅草、本所、向島、亀戸などは軒を浸し、棟を没す
るところさえあり、下町に甚大な被害をもたらした。浅草浅草寺には救護所が設けられた。交通や
通信網も遮断され、鉄道は7~10日間不通。東京では泥海と化したところを舟で行き来し、ようや
く水が引いて地面が見えるようになったのは、12月を迎える頃だったそうである。
この甚大な被害をきっかけに、明治政府は臨時治水調査会を設置し、大規模河川の改修を急ぐこ
ととした。そして荒川の洪水対応能力を向上させ、下町を水害から守る荒川放水路建設計画が検討
された。
荒川放水路開削事業は北区の岩淵に水門を造り、荒川(現在の隅田川)本流を仕切り、岩淵から
東京湾河口まで延長22km、幅500mの放水路を掘削という大規模なものであった。すなわち、洪
水時に岩淵水門を閉めて本流の荒川(隅田川)の増水を抑え、大部分を川幅の広い荒川放水路を経
て、海に流してしまおうとする計画だった。
工事計画には、現代の見方からすると問題があった。この工事は最初から地域により格差のある
工事計画で、都心部側を守るため、右岸堤防は高くかつ厚く建設され、一方、放水路の左岸(東地
域)の水田と蓮田が連なる農村地帯は、都心部側より低く、薄く造られた。この東京湾まで放水路
の建設地域や堤防の強度に差をつけて建設することが当然の方針であった〔土屋信行『首都沈没』
文春新書(2014)〕。そのため、後の時代になって、足立区、葛飾区、江戸川区の住人たちは、繰り
返し洪水の被害を被った。1911(明治44)年から用地買収と移転が始まり、1930(昭和5)年に竣
工した。概要を表2に示す。
荒川放水路開削事業も1924(大正13)年岩淵水門が完成、上流から下流まで繋がり、通水が行
われ、その後の小名木川閘門、船堀閘門建設を最後に事業は終了した。この開削工事に携わった主
な技術者は、計画立案をした原田貞介、工事を指揮した青山 士(あきら)で、彼は日本人で唯一パナマ運河建設工事に参加した技術者で、岩淵水門の設計・施工に尽力した。青山と共に工事に尽
力した宮本武之輔は、小名木川閘門の設計・施工にも携わった。本開削工事は、工事費、工事規
模、開削土量などすべてがビックプロジェクトであったが、安価な労働力を使い、機械、船を駆使
して行われた。
荒川放水路計画
荒川放水路ができるより以前は、今の隅田川が荒川でした。
1910(明治43)年8月の大洪水により、東京の下町が水浸しになり、荒川放水路の建設が必要となります。
荒川放水路の建設工事は1911(明治44)年に始まり、1930(昭和5)年に完成しました。北区の岩淵から中
川河口までの約22kmに、幅500mの人工の川を掘るという大規模な工事でした。洪水のときは岩淵の水門を閉め
きって、放水路に水を流すようにしたのです。以来、隅田川からは水が溢れたことは一度もありません。
1910(明治43)年洪水による東京の被害
ム 荒川放水路の機械掘削、機械浚渫 ラ コ
放水路の開削工事では、主に低水路の高水敷高以下3.7mまでの部分は機
械掘削、機械掘削面よりも低い部分の土砂は機械浚渫で取り除かれました。
機械掘削は、蒸気掘削機と呼ばれる機械式の掘削機と機関車を1組とし
て行われました。掘削により発生した土砂は、3㎥積みのトロッコを連結
した機関車によって運ばれ、堤防を新たに作る材料に利用されました。
機械浚渫で掘削した土砂は、曳舟や人力により運搬されたり、土揚機、
土運車等の機械や、土揚船などで運搬されました。浚渫された土砂は、旧
川の埋立等に利用されたほか、高水敷を均すためにも用いられました。更
に余った土砂は、放水路周辺に広がる低湿地に運び、堤防の安定性向上に
用いられました。
向嶋三囲神社の被害の様子
(現在の墨田区向島2丁目周辺)
1910(明治43)年8月の洪水は、荒川、利根川をはじめ関東から東北地
方にかけての多くの河川が決壊・氾濫し、大災害となりました。荒川本川で
も、熊谷堤や綾瀬川合流点より下流の堤防をことごとく越流する状態で氾濫
しました。その下流の隅田堤では言問地先で決壊し、本所地区が浸水しまし
た。また、隅田川(当時の荒川)の堤防が盛り土されていない地区では洪水
があふれ、深川・本所地区へ流入しました。人々は泥海と化したところを舟
で行き来し、ようやく水が引いて地面が見えるようになったのは12月を迎
える頃だったそうです。
荒川放水路の機械掘削、機械浚渫
放水路の開削工事では、主に低水路の高水敷高以下3.7mまでの部分は機
械掘削、機械掘削面よりも低い部分の土砂は機械浚渫で取り除かれました。
機械掘削は、蒸気掘削機と呼ばれる機械式の掘削機と機関車を1組とし
て行われました。掘削により発生した土砂は、3㎥積みのトロッコを連結
した機関車によって運ばれ、堤防を新たに作る材料に利用されました。
機械浚渫で掘削した土砂は、曳舟や人力により運搬されたり、土揚機、
土運車等の機械や、土揚船などで運搬されました。浚渫された土砂は、旧
川の埋立等に利用されたほか、高水敷を均すためにも用いられました。更
に余った土砂は、放水路周辺に広がる低湿地に運び、堤防の安定性向上に
用いられました
名称 数量 備考
総工事費 31,446,000円 ※当時大学卒の初任給 35円
延 長 22㎞
浚渫土量 910万㎥ 掘削土量
掘削土量 1,270万㎥ 2,180万㎥=東京ドーム約18杯分
築堤土量 1,204万㎥
鉄道橋 4橋 総武線・常磐線・東武線・京成押上線
道路橋 13橋(1鉄橋、12木橋)
閘門及び水門 閘門3ヶ所、水門7ヶ所
土地買収 1,098町歩 約11㎢=東京都北区の面積約半分
移転戸数 1,300戸
工事規模の概要
旧岩淵水門(赤水門)
荒下支給願いたい
地図:国土地理院 平28情
アクセス
旧岩淵水門(赤水門)
交通:南北線「赤羽岩淵駅」(3番出口)下車、徒歩約15分
南北線「志茂駅」(2番出口)下車、徒歩約15分
JR「赤羽駅」(東口)下車、徒歩約20分
JR「赤羽駅」(東口)下車、徒歩約1分、都バス王57「豊
島5丁目団地」行からバスで「岩淵町」または「志茂2丁目」
下車、徒歩約10分
住所:東京都北区志茂5-41-21先
名称 数量 備考
総工事費 31,446,000円 ※当時大学卒の初任給 35円
延 長 22㎞
浚渫土量 910万㎥ 掘削土量
掘削土量 1,270万㎥ 2,180万㎥=東京ドーム約18杯分
築堤土量 1,204万㎥
鉄道橋 4橋 総武線・常磐線・東武線・京成押上線
道路橋 13橋(1鉄橋、12木橋)
閘門及び水門 閘門3ヶ所、水門7ヶ所
土地買収 1,098町歩 約11㎢=東京都北区の面積約半分
移転戸数 1,300戸
工事規模の概要
旧岩淵水門(赤水門)
荒下支給願いたい
地図:国土地理院 平28情