7年目の3月11日。今年も晴天。
14時30分を過ぎると、一瞬、あの日に戻るかのような心地になる。
それまでは晴天で穏やかな日だった。
あの日、最初の異変は音だった。
近くに大型重機でも来たのかと思って、部屋から硝子戸越しに外を見た。
変わりない、いつも通りの風景だった。
と、今度は背後から音がし、振り返った。
台所付近に並べてあった、瓶の触れ合う音だと気付いた。
はっとして部屋の中央に戻り、床に座った。
直ぐにズシンと鳴って、家中が動いた。
まるで、乗り物の中のようだった。
(近所の長町病院付属クリニック。震災の揺れと度重なる余震で建物に多数の亀裂。:撮影は2011年3月19日)
その日、連れ合いは仕事で名取にいた。
閖上方向の道に出ると、逆走してくる車に出会って驚く。
その先が通行止めになっていることに気が付き、引き返したという。
津波が閖上を襲った後だった。
こちらでは、非常時の生活準備をしながら、連れ合いは帰ってこられないかもしれないと思っていた。
ところが、予想外にも夕刻に帰ってきたではないか。
帰るなり、急いで厠へ。
何しろ渋滞で、普通は車で30分のところを、3時間以上かかったという。
夕餉は昼の残り飯を使い、手早く、体の温まるものをと作った雑炊。
ロウソクを灯してラジオを聴き、「大変なことが起こった、明日はどうなるか」という思いで過ごした夜。
春の陽気の午前中とは一転して、午後から小雪の舞う寒さ。
重ね着して布団に包まるが、家で横になれる私らは幸いだと思っていた。
もっと大変な思いをしている人がいるはずだから。
同じころ、沿岸部では津波の恐ろしさを目の当たりにし、水に濡れた冷えや、野外の寒さに耐える人々が大勢いた。
(震災後の名取市沿岸部:撮影は2011年4月14日)
今日の午後2時46分、各地で黙祷。
自分も、手をあわせて祈った。
涙がこぼれる。
毎年、3月11日の我が家の夕餉は雑炊だ。
あの日を思いながら食べる雑炊。
切に願う。
津波に飲まれた人は、どんなに怖かったろう苦しかったろう。
こんな思いは、もうたくさんだ。
どうか世の人々よ、命を守る災害への備えをしておくれ。
(キリンビール仙台工場の時計。地震で落ち、発生時刻で止まったまま。撮影は2012年12月12日)