3月23日双葉郡楢葉町に足を延ばしました。昨年8月「避難指示解除準備区域」となり、宿泊はできませんが自由に出入りができるようになったのですが、地震、津波で被災した痛々しい姿が広がっていました。北端にある福島第二原発すぐ手前の海岸集落は、ご覧の通り、壊滅していました。黙祷。
さらに海岸に車を走らせると、白い真新しい壁が太平洋を遮断していました。「放射性物質の仮置き場」でした。唖然。
3月25日には、富岡町にも入れるようになりました。「戻れる」のではなくて。
※下記に、斎藤貢一さんの追悼詩を掲載します。
2011年、3月11日。
東日本大震災。
あの日の、悲しみと苦しみを
わたしたちは決して忘れません。
太平洋の美しい松林に、大津波が押し寄せて、
集落を、駅舎を、国道を、鉄路を
無残に、浚っていきました。
たくさんの尊いいのちが奪われました。
そして、原子力発電所の事故。
見えない放射線によって
わたしたちは、故郷を追われました。
今に至っても
警戒区域は、まだ残されたままで
未だに帰還できない方々も大勢います。
戻りたいという想いと
戻れないだろうという諦めとが
わたしたちの心を苦しめ、
わたしたちの心を引き裂きます。
懐かしい、故郷の風景が
ひとつ、またひとつと
心に浮かんできます。
東日本大震災。
あの日の、悲しみと苦しみを
わたしたちは決して忘れません。
太平洋の美しい松林に、大津波が押し寄せて、
集落を、駅舎を、国道を、鉄路を
無残に、浚っていきました。
たくさんの尊いいのちが奪われました。
そして、原子力発電所の事故。
見えない放射線によって
わたしたちは、故郷を追われました。
今に至っても
警戒区域は、まだ残されたままで
未だに帰還できない方々も大勢います。
戻りたいという想いと
戻れないだろうという諦めとが
わたしたちの心を苦しめ、
わたしたちの心を引き裂きます。
懐かしい、故郷の風景が
ひとつ、またひとつと
心に浮かんできます。
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