「高杉晋作が目撃した支那」
前回に続き、「支那人の卑史 朝鮮人の痴史」より、 P79~82より抜粋
著書 黒木頼景(くろきよりかげ) 成甲書房
徳川家による文治政策の下で暮らしていた武士は、『禮記(らいき)』や
『春秋左氏傳(じんじゅうさしでん)』、『資治通鑑(しじつうがん)』などの夥しい
漢籍を読んでいたが、生身の支那人と交流することがなかったため、
支那人の本性について実感がなかった。
そんな武士も幕末の動乱で海外渡航をするようになり、骨と肉を持つ実際の
支那人と接触することができた。
支那人と邂逅した日本人として有名なのは、停滞する清朝支那に赴いた
高杉晋作たちだろう。文久ニ(1862)年、高杉は幕府が募集した上海視察団に
萩藩代表として参加し、薩摩藩士の五代友厚らとともに清国へ旅立った。
視察団一行が訪れた上海の市街地は思いのほか汚く、清潔を旨とする日本人だと
言葉が出ない。道端の至るところに塵や糞が堆積し、足の踏み場もないのに、
誰もこれを掃除しようとはしなかった。炎天下に曝された糞尿は異臭を放ち、
隣国の事情を偵察に来た日本人には、清国の政治がいかに乱れているかが
分かったという。
2013年には、上海の黄浦江で豚の死骸が六千頭も漂流しているのが
発見されたという。これは支那の畜産業者が疫病で死んだ豚を川に投棄した
ことによるものだ。
悠久の歴史を偲ばせる揚子江(長江)は、昔から鼻が曲がるほど臭くて汚かった。
高杉たちの一行は、どこを見ても飽きなかった。黄浦江の濁流は印象的で、
犬、馬、豚、羊なもとより人間の遺体まで河に投げ込まれていたから、
腐乱死体が浮いていたという。その当時の上海では、コレラが流行していて、
支那人たちは治療を受けられなかった。難民の中には飢餓に堪えきれす
死に至る者までいたという。
コレラに罹って死亡する者があまりにも多すぎて、遺体を埋葬することも
出来ないから、死体を次々と河に投げ捨てたそうだ。
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日本人の一行は旅館でこのような水を飲んだせいで、病気に成ってしまい、
炎天下の中で、碩太郎、伝助、紋蔵の三名が死亡したという。
支那語を喋ることが不得意な日本人でも、漢字だけは一通り習得していたから、
支那の知識人とは筆談ができた。
視察団の武士が上海に滞在中、施渭南(しいなん)という支那人がやって来たので、
記念のため扇子に漢詩を書いてもらったそうだ。
この支那人は詩の中で「貢納(こうのう)」とか「蠻王(ばんおう)」云々と言う文字を
挟んでいた。すると、それを読んだ会津藩士の林三郎が烈火のごとく怒り、
その扇を投げ棄てるや、
「我が神国の天皇は万古一系で革命が無く万邦に比類無きものなり。
汝等の北虜王の類いではない。この腐った儒者め、無礼であるぞ!」
と怒鳴りつけた。
これに戦(おのの)いた施渭南は、釈明する間もなくひれ伏し、ひたすら謝罪をして、
その失礼な句を削り取ることにした。後日、視察団の誰かが彼の素性を調べたところ、
この施渭南は、北京の学校に勤めている有名な教師であったという。
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この視察団、その会津藩士の林三郎の言動は立派であります。
武士として言うべきことはハッキリ言うという精神。日本人としてのフライド、
今こそこの大和魂を取り戻さねばならないと思います。