気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く43 その4  榛名公園へ

2024年11月26日 | ゆるキャン△

 榛名湖バス停から県立榛名公園までは上図の県道28号線、高崎東吾妻線が通じています。それに沿って湖畔遊歩道が設けられています。前日に雨が降ったのか、未舗装の遊歩道はドロドロのまま、あちこちに水溜まりが残っていました。こういうこともあろうかと、今回は撥水トレッキングシューズを履いてきたので泥道も平気でした。

 

 左手には榛名湖の湖面と榛名富士山の雄大な景色がありました。榛名富士山は、約3万1000年前の榛名山の4度目の火山活動によって形成された溶岩ドームの一種で、綺麗な円錐形をなして富士山のような山容を見せています。
 標高は1390.5メートル、榛名連山においては最高峰である掃部ヶ岳(かもんがたけ 標高1449メートル)、相馬山 (そうまやま 標高1411 メートル)に次いで三番目に高いです。

 

 遊歩道が日陰から日なたに出ました。10月なのにまだまだ暑さが感じられました。今年の夏も異様な暑さで残暑も長引いてるなあ、と思いつつ歩きました。

 

 榛名湖の南東辺にさしかかりました。湖畔の遊歩道がここで内陸側にカーブして湖岸と離れていきました。

 

 まもなく上図の芝生地に出ました。南に観光駐車場があるので、この芝生地も県立榛名公園の区域内になるのだろうな、と考えつつ、遊歩道からそれて芝生地をまっすぐ進み、上図の榛名富士山を目指しました。

 

 芝生地の横には漁協の施設がありましたので、回り込んで観光駐車場の脇から北へ進む車道に入ろうとしたら、まもなく左手に湖畔の上図の湿地帯とみられる葦の群生地が広がり、そのなかにも遊歩道が伸びていました。

 

 ですが、上図の看板を見て、湿地帯の遊歩道へ入るのを止めました。この辺りは沼ノ原湿原といい、かつての榛名湖が火山活動で埋め立てられた名残であるそうです。山野草の宝庫とされ、アケボノソウ、マツムシソウ、ユウスゲ、サギソウ、ウメバチソウ等などの分布が確認されています。

 

 北へ向かう車道に出ました。上図の車道の左側に黒い車が停まっている辺りから再び湖畔の遊歩道へ連絡していました。

 

 湖畔の遊歩道に入ってみました。この辺りが沼ノ原湿原の北端にあたるようで、南側では私の背丈ほどもあった葦の群生が、こちらでは殆どありませんでした。上図奥に見える遊歩道の屈折部まで、行ってみました。

 

 遊歩道の屈折部に着きました。このまままっすぐ進めば、先に見た立ち入り遠慮の看板のあった出入口に通じてるのだな、と察しました。上図右側に設けられた展望所まで行って榛名湖の景色を眺め、それから引き返しました。

 

 引き返しながら撮った景色です。どうやら、作中で各務原なでしこ達が歩いていた場所はこのあたりのようだな、と思いました。

 

 おそらく、このあたりの遊歩道の中央に、各務原なでしこが立ってスマホで榛名湖の景色を撮っていたのだろうと思います。

 

 このシーンですね。例によって広域ワイドの画ですので、私のデジカメでは撮れない左右の景色も描かれています。左奥に、遊歩道の途中に設けられた展望所も見えます。

 

 遊歩道から車道に戻って50メートルほど北へ進むと、右側に広い観光駐車場、左側に榛名公園の中心域とおぼしき広い芝生地がありました。芝生地の手前の松並木の下に、上図の公園標識が見えました。

 

 ああ、これですか。作中に出ている群馬県立榛名公園の標識は。

 

 このシーンですね。奥に榛名湖ボート乗り場のボートが並んでいるのが見えます。この地点で、榛名湖バス停から榛名山ロープウェーまでのルートの四分の三ぐらいを歩いてきたことになります。
 ここで時計を見ると10時12分でした。榛名湖バス停からの移動時間は11分でした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その3  榛名湖バス停にて

2024年11月25日 | ゆるキャン△

 高崎駅西口からのバスで終点の榛名湖に着きました。バス停は榛名湖の南岸に位置しますので、180度の視界に青々とした湖面が広がります。この広い湖が火口跡カルデラなのか、どれだけ凄い爆発を繰り返したんだろう、と驚かざるを得ませんでした。

 

 バス停および観光駐車場の向かいには、高崎駅から乗ってきたバスが降りてきた坂道があります。合流点の脇に榛名神社の看板が立ちますが、その通り、この坂道を登っていくと榛名神社のバス停へ行きます。現地の地図で見て、榛名神社が鎮座している山が榛名山であると知りました。

 

 高崎駅から乗ってきたバスが回送便となって、その坂道を戻ってゆきました。この状況で作中に登場しますので、狙い定めて撮影しました。

 

 左のシーンですね。作中では各務原なでしこ達が榛名湖バス停でバスに乗って高崎駅へと向かいましたから、今回の私のコースとは真逆でした。作中の頃と違ってバスがどこも減便となっている現在では、作中通りのルートを効率的に回って榛東村役場まで向かうのは至難の業です。それで前回も今回もエリアごとに分けて泊まりがけでゆっくり回っているわけでした。

 右のシーンのアングルも、バスが通ったタイミングで撮りました。

 

 このアングルです。バスの向きが違いましたが、ほぼ一致する景色でした。走り去ってゆくバスは伊香保温泉行きでした。

 

 再び榛名湖と榛名富士山を、各務原なでしこ達がアイスを食べながら眺めていた場所で見ました。柵の二ヶ所に看板がはってありますが、その中間あたりです。

 

 このシーンです。三人の後ろの駐車場は、実際にはバス停横のバス待機場になっていて、さっき乗ってきたバスの後ろに続いていた増便バスが、高崎駅行きとなって発車するまで待機していたので、上のシーンと同じアングルで撮ることが出来ませんでした。

 

 それで、作中に描かれる赤枠内の看板と、黄枠内のバリケードが実際にあるのかを探すことにしました。

 

 黄枠内のバリケードは、実際には2個ありました。左側のバリケードが作中に出ているもので、貼り付けてある案内標識も同じでした。

 

 そして赤枠内の看板の実物がこちらでした。作中では「上州バス」となっていますが実際は「群馬バス」でした。あとの表示文章は同じでした。バスの回転場所でもあるわけですね。

 

 以上で榛名湖バス停の聖地スポットを全て見て撮りましたので、次へ向かって歩き出しました。一度振り返ってバス停の全景を撮りました。

 

 次の目的地は、榛名湖の東岸に位置する群馬県立榛名公園でした。湖畔の車道沿いの遊歩道が通じており、歩いて10分から12分ぐらいか、と試算しつつ、上図の景色を左に見ながら歩きました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その2  高崎から榛名湖へ

2024年11月22日 | ゆるキャン△

 高崎駅西口のバスターミナル2番乗り場の上から高崎駅ビルを見ました。その壁面の時計が8時前でしたので、あれ?と自身の時計を見、タブレットの時刻表示を確かめました。いずれも8時13分でしたので、おいおい駅の時計が15分も遅れててどうするよ、と思いました。

 

 2番乗り場でも、列に並んでいた登山客らしき服装のペアが、私がやったのと同じように、駅の壁の時計と自身の時計とを見比べていました。バスの発車時刻が8時30分なので、あと15分だ、とか話していました。

 

 2番乗り場からは、箕郷や室田へも行けますが、箕郷や室田ってどこだろう・・・。

 

 2番乗り場の時刻表です。これから乗るバスは、左の「榛名神社・榛名湖」行きで、この日は日曜日でしたから、8時30分発が始発でした。8時20分の時点で既にバス待ちの行列は50人を超えていて、人気の観光地であることがうかがえました。

 

 8時25分、バスが入ってきて、皆が乗り始めました。群馬バスの車輛でした。

 

 席は全て埋まり、立っている方も30人ぐらいになって、さらに乗り込んでくるので車内が満員になりかけましたが、運転手さんが「今日はもう1便を出しますんで、後ろのバスになりますんで良かったらそちらへもどうぞ」と呼びかけたので、立っていた乗客の大部分がゾロゾロと降りて後ろのバスに乗り換えていました。

 観光シーズンの期間中はバスも臨時に増便するのだな、と思いました。同時に、これから行く聖地スポットはどこも観光客で混雑するのだろうか、撮影とか出来るんだろうか、と少し不安になりました。

 

 高崎駅を出てから約1時間半、その殆どが榛名山の南裾の深い山林の中をくねくねと曲がりながら登ってゆく感じでした。途中で榛名神社の門前バス停に停まり、20人ほどが降りました。その全員が登山の服装でした。

 

 9時55分、終点の榛名湖バス停に着きました。高崎駅からの運賃は830円でした。上図手前が乗ってきたバス、その右後ろに停まっているのがこの日の増便バスでした。

 

 榛名湖バス停の時刻表です。乗ってきたバスはここで行先表示が回送となっていたので、どこかへ移動するようでした。それで、増便のバスのほうが、折り返して10時30分発の高崎駅行きになるのかな、と考えました。

 作中で各務原なでしこ達が乗ったのは、おそらく10時30分発か、その次の11時30分発の便だろうと思います。それで高崎駅に着いて、スーパーで買い物をして、長野原草津口駅行きの特急「草津・四万」に乗っていますが、それぞれの時間は、現時点のダイヤおよびバスの時刻とは異なっているようでした。

 

 バス乗り場の待機スペースに停まっていた、増便のバスの横に行きました。その行先表示は「榛名湖」のままでしたが、しばらくして「高崎駅」に変わりました。どうやらこのバスが、折り返して10時30分に発車する便であるようでした。

 そのバスの横の歩道の辺りが、作中で各務原なでしこ達がアイスを食べながら榛名富士山を眺めていた場所だろう、と考えました。

 

 同じ位置から眺めた、榛名湖と榛名富士山の姿です。各務原なでしこ達がアイスを食べながら眺めていた景色です。

 この榛名湖は、榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、周囲は約4.8キロメートル 、面積は約1.2平方キロメートル、最深部は約12メートルから15メートルを測ります。奈良時代の「万葉集」にて上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」と詠まれ知られています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く43 その1  伊勢崎から高崎へ

2024年11月21日 | ゆるキャン△

 2024年10月13日、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼の2日目の朝は快晴でした。6時20分に起床、6時半にバイキング方式の朝食をいただき、7時25分に出発しました。
 上図は宿の「東横イン伊勢崎駅前」です。高崎や前橋の宿が取れなくても、こちらは空いている場合が多いので、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地巡礼の宿の候補としてもおすすめです。

 

 歩いて5分でJR伊勢崎駅に入りました。7時34分発の高崎行きの普通列車に乗りました。伊勢崎から高崎までの運賃は420円でした。

 

 車窓に広がる朝の上州平野の景色。遠くに霞むのが赤城山の連山でした。田圃は黄金色に輝いていて、まだ青稲が多い近畿地方よりは稲作の時期が早いことを思わせました。

 

 途中の新前橋駅に停車中、向かいのホームにE257系5500番台の特急列車が入ってくるのが見えました。回送中らしく、列車名および行先表示が出ていませんでした。

 

 ですが、車体のカラーとデザインは間違いなく特急「草津・四万」のそれでした。作中で各務原なでしこ達が乗った車輛でした。

 

 高崎駅には8時6分に着きました。改札口を出てすぐに横の例の弁当屋跡のコンビニに入って弁当を買いました。作中に登場する3種類の駅弁はいずれも食べましたので、今回は別の弁当を買いました。これから行く榛名山エリアにはあまり食事処が無いと聞いていたからです。

 

 弁当を購入した後、駅の西口を出てペデストリアンデッキ上に進み、上図のバス乗り場案内図を見に行きました。

 

 高崎駅を中心とするバス路線図です。御覧のように、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉のいずれにもバスで行けます。これは大変に便利です。前回も今回も宿泊および巡礼スタート地点を高崎に設定した理由がこれでした。

 

 高崎駅のバスターミナルは東口、西口の両方にありますが、ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉へのバスは全て西口から出ています。

 

 高崎駅西口のバスターミナルの案内図です。乗り場は1番から9番まであります。

 

 その2番乗り場へ向かいました。

 

 2番乗り場からのバスの行き先は上図の通りです。ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地スポットである榛東村役場、榛名湖、伊香保温泉へは、すべて2番乗り場から出ています。大変に分かりやすいです。だから個人的には「高崎駅西口2番」と覚えています。

 

 ペデストリアンデッキから下の2番乗り場に降りる階段です。向かいに高崎オーパが見えます。下にバスが停まっているのが1番乗り場で、その手前が2番乗り場です。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その7  横川、高崎、伊勢崎

2024年11月17日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらからダッシュで横川駅に行きましたが、列車の発車時刻までまだ3分あったので、急いで駅横の上図の釜めし小屋に行きました。

 

 そして上図の「峠の釜めし」を1個買いました。この日の宿での夜食にするためでした。

 

 それから駅前の例のパネルと、その隣のEF63形電気機関車の3号機の動輪を記念に撮りました。
 
 前回の訪問時に、D51形のパネルの横にあるのでD51形の車輪だろうと思っていたのですが、碓氷峠鉄道文化むらの鉄道資料館の展示パネルで、EF63形3号機が解体されてその動輪だけを釜めしの荻野屋さんが記念に譲り受けて横川駅前にて保存展示している、という経緯を知りました。それで今回、ちゃんと撮っておいたわけです。

 

 横川駅の改札口を走って通り、上図の駅名標を撮りました。これは新しいほうの駅名標です。

 

 そして古いほうの駅名標も撮影。

 

 それからホームに待機していた16時発の高崎行き普通列車を撮りました。まもなく発車のベルが鳴り響きました。

 

 すぐに乗り込みました。席につくかつかないかのうちに列車が動き出しました。時計を見ると16時2分でしたので、あれっ、2分遅れで発車か、と気付きました。

 

 ですが、時刻表通りの16時32分に高崎駅に着きました。横川からの信越線はずっと下り坂でスピードも出ており、2分遅れても余裕でダイヤ通りに到着するもののようでした。

 高崎駅で両毛線に乗り換えるので、上図の電光案内板を見上げ、次の小山行きの普通列車が16時58分発であるのを確かめました。待ち時間は26分ある、ならば、高崎駅内の聖地スポットを見て撮っておこう、と考えました。

 

 それで、駅内連絡橋をわたって2番ホームへ移動し、その南側へ移動しました。ホームには普通列車が停まったままでした。その先頭車両の横のホーム屋根を見上げました。

 

 この構内信号機です。正式名称は「出発反応標識灯」だったかな、と思います。2番ホームに上越線と信越線の「出発反応標識灯」が並んでいます。これが作中にて描かれています。

 

 右のコマの上の赤枠内に見えます。よく見ないと気付かないかもしれませんが、私自身は鉄道ファンになっているので、普段こういった鉄道施設や信号や標識類にも目がいくようになっています。

 それで、作中に描かれる「出発反応標識灯」にも気がついていて、各務原なでしこ達が乗った特急「草津・四万」が高崎駅の2番ホームから発車したのだと知りました。特急「草津・四万」は渋川まで上越線を走りますから、その発車時にはおそらく「2上越」の「出発反応標識灯」が点いていたのでしょうが、作中ではそこまで描かれていません。さらに「2信越」のプレートが実際よりも上に位置しています。

 撮影後、元の6番ホームへ戻り、16時58分発の小山行きの普通列車に乗りました。

 

 17時25分、この日の最終目的地の伊勢崎駅に着きました。この日の宿はこの伊勢崎駅近くの東横インに予約したからです。計画では高崎駅近くの東横インに泊まる積りでしたが、この日は土曜日で満室で予約出来ず、次候補の前橋のほうも満室で取れず、結果的に第三候補だった伊勢崎のほうになりました。

 高崎から伊勢崎までは両毛線の普通列車で30分ぐらいです。明日の聖地巡礼コースが高崎駅前を8時30分に出るバスでスタートするので、朝に30分程度で高崎駅へ移動できる範囲内の宿であれば良かったのでした。東横インにこだわったのは、私自身が会員であってこの日がちょうど通算10泊目の無料サービス宿泊日にあたっていたためでした。

 

 JR伊勢崎駅前から見た、この日の宿の「東横イン伊勢崎駅前」です。駅前、といってもちょっと離れています。直線距離はそんなにありませんが、道路がやや迂回気味でしたので、歩いて6分かかりました。

 17時33分にチェックインし、入浴した後、嫁さんに定期の電話連絡をしました。それから横川駅で買ってきた「峠の釜めし」を食べつつ、この日の行動記録をまとめました。明日の聖地巡礼コースを確認し、利用するバスや鉄道の時刻を第三候補までおさえておきました。そして20時40分、早めに就寝しました。

 以上、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルート聖地巡礼1日目のレポートを、高崎・横川編として括ります。次回からは項を改めて、2日目の榛名エリアの行程を綴ります。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その6  碓氷峠鉄道文化むらの車輌たち 下

2024年11月16日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらの続きです。上図はEF63形の1号機です。全部で25輌が製造されたなかの、最初の試作機にあたります。昭和三十七年(1962)に製造され、同時期に製造されたEF62形1号機とともに試験運転に投入され、EF63形の特徴や不備や内部機能などのチェックや初期データの構築に貢献、それらの成果をふまえての諸改良が行われ、量産型の2号機以降の1次車、14号機以降の2次車、22号機以降の3次車が製造されています。

 この1号機も、唯一無二の試作車タイプですから、Nゲージ化されていません。ですが、私のレイアウトでは同じぶどう色車体の19号機を1号機とみなして走らせて楽しんでいます。

 

 EF63-1の隣にはEF53-2が並びます。EF53形は、国鉄の前身である鉄道省が昭和七年(1932)から製造した直流用電気機関車で、計19輌が製造されました。その後、昭和三十八年(1963)に全車が改造されてEF59形に改番されています。上図の展示機は、EF59-11に改造改番されていたEF53-2を改造前の状態に復元したものです。

 

 EF53-2の南隣には上図のEF58-172があります。EF58形は、国鉄の前身である運輸省鉄道総局が製造した旅客用直流電気機関車です。太平洋戦争終戦後に激増した旅客輸送需要に対応する機関車として昭和二十一年(1946)に登場、昭和三十三年(1958)までに改良型も含めて172両が製造されました。

 上図の172号機は、昭和五十七年(1982)5月21日に栃木県で開催された植樹祭に、昭和天皇皇后両陛下が来臨された際のお召し列車を牽引した名誉ある車体です。現在はかなりボロボロですが、装備および塗色はお召し列車牽引時の状態を再現しています。

 

 EF58-172の南隣に並ぶEF30-20です。このEF30形は、国鉄が製造した世界最初の交直流電気機関車です。関門トンネルを挟む山陽本線の下関 - 門司間における交流電化に伴う専用機として開発され、22輌が製造されました。

 このEF30形は、他の電気機関車と異なって車体が銀色に見えますが、これはステンレス板を車体外板としているためです。これは関門トンネルの覆工より滲み出す海水による錆(塩害)を防ぐための外板です。その外板の下半分が波板状になっているのは強度維持のためで、コルゲーションと呼ばれるプレス加工処理が施された状態です。

 

 このEF30-20と、先に紹介したEF58-172が並んで作中にも登場しています。右のシーンです。ナンバーは描かれていませんが、展示状況は実際と同じです。斉藤恵那が両車の間に進んでいますので、その後は今回の私と同じように奥の階段を登って、奥にある車輌を見ていったのでしょう。

 

 EF58-172の後ろには10系客車のオハネ12-29が続きます。10系客車は、国鉄が昭和30年(1955)年に開発し量産した軽量構造の客車です。上図のオハネ12形は、三等寝台車のナハネ11形を冷房改造した型式です。

 この10系客車は、ここ碓氷峠鉄道文化むらにて初めて実物を見ました。これまではこういうタイプの客車は、大井川鐡道の12系と14系しか見た事がなかったのでした。

 

 オハネ12-29の斜め隣には上図のEF70-1001があります。御覧の通りのボロボロ状態で、前面窓の応急補修テープが痛々しい感じです。左右を他の車輛に囲まれていて外からはほとんど見えない位置にあるため、メンテナンス作業も後回しになっているのでしょうか。

 このEF70形は、国鉄が昭和三十六年(1961)に開発、製造した交流用電気機関車です。81輌が製造されていますが、上図の保存機は1001番になっているので調べてみたところ、22号機から28号機までの7輌を昭和四十三年(1968)に改造して1000番台に改番したうちのトップナンバーであったことを知りました。もとは22号機であったわけです。そしてこのEF70-1001が、現存唯一の車体であるらしいです。

 

 EF70-1001の横には「お座敷列車」と名付けられた2輌の12系客車があります。スロフ12-822の車番を見て、これは大井川鐡道に無い型式だな、と気付きました。

 周知のように、大井川鐡道にはかつて「SLやまぐち号」列車に使用された12系客車6輌が譲渡され、いまも新金谷駅の側線に留め置かれています。オハ12の3輌、スハフ12、オハフ13、マイテ49の組み合わせです。
 対してこちらのスロフ12-822は、連結しているオロ12 841とともに、国鉄が昭和五十八年(1983)に登場させた「ジョイフルトレイン」と呼ばれる車両の一種で、12系客車を改造して車内を畳敷きにした6輌からなる「くつろぎ」の1編成をなしていたものです。そのうちの2輌がここに移されて保存され、内部を公開しています。

 

 こちらの車体もボロボロです。園路からも見えますので、補修するべきだとは思うのですが、予算不足にしても、もう少し何とかならなかったのでしょうか。

 

 車内はわりと綺麗に保たれており、外側のボロボロ状態とは対照的でした。畳敷きに座卓も並んでいますので、休憩所としても使えそうな感じでした。

 

 一周して、上図のD51-96の前まで戻ってきました。前回見られなかった車輛も全て見る事が出来ましたので、満足感と安堵感とに包まれました。そのまま、近くの東屋に寄って休憩し、高崎駅で買ってきた「30品目バランス弁当」を食べました。

 

 屋外展示場から鉄道資料館に移動する際に見た、旧検修車庫の西側外観です。手前の一段低い建物が、ED42-1やTMC200Bを収容展示している所にあたります。

 

 鉄道資料館では、前回時間がなくて見られなかった模型ジオラマとレイアウトを見ました。このコーナーにだけ、親子連れや子供たちがいっぱい入っていました。あとは、上図のイメージキャラクターのパネルを撮っただけで済みました。

 この三人のうち、両側の「横川結(ゆい)」と「横川夢」の姉妹はここ碓氷峠鉄道文化むらの三代目イメージキャラクターとして知られており、同じパネルが横川駅にもありましたので知っていましたが、中央の「浅間夏綺(あさま なつき)」は初めて見ました。新たに追加されたイメージキャラクターなのでしょうか。

 

 バイバーイ。横川鉄道博物館はいつ行っても最高だねぃ(各務原なでしこ風に)。

 ということでゲートを出たのですが、時計を見ると16時前でした。あっ、確か16時の横川駅発の列車があったっけ、と思い出して100メートル先の横川駅までダッシュしました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その5  碓氷峠鉄道文化むらの車輌たち 上

2024年11月15日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらの続きです。鉄道展示室の奥の西室に行きましたが、ED42-1の展示位置の照明がなぜか消えていて、上図の軌道モーターカーTMC200Bだけに照明があたっていました。ぐるりと回って一通り見て、このTMC200Bのようなマイナーな車輌でもちゃんとNゲージで出ていることを思い出しました。

 TMC200BのNゲージは、ワールド工芸から出ています。が、2万円ぐらいする高額商品なので手が出せません。でも、ED42形機関車のほうは手元にありますから、いつか経済的に余裕のある時にTMC200Bを買おうと思います。

 

 外に出て、屋外展示場へ行く途中で、信越線新線跡のトロッコライン上を上図のEF63形がゆっくりと走っているのを見かけました。既に数人の見学客が線路わきでカメラやスマホをかまえていたので、この日が例の運転体験および実技講習日にあたっていることを思い出しました。

 

 しかも2輌を繋いだ重連の状態でした。かつての信越線碓氷峠越えの推進機関車の勇姿をみるようでした。低いブーンという、腹に響いてくるような音が、EF63形のモーターの独特のそれであるようでした。

 

 屋外展示場に入りました。前回じっくり見られなかった車輛を見よう、と車輛配置図を見ながら園路を西に進み、上図のDD51-1の横の階段を登って後ろの車輛へ近づきました。

 

 DD51-1の後ろにあるキハ58-1です。これを前回見ていなかったんだ、これを今回はしっかりと見ておこう、と思いつつ近寄りました。なにしろ1号機です。いま日本各地に保存車が10輌あるかないか、ぐらいの希少車にあたりますから、その1号機というのは大変に貴重で価値があります。

 私が中学生の時、父に勧められて一人旅を始めた頃、国鉄の各線で走っていた気動車といえばこのキハ58形が殆どでありました。緊張しつつもワクワクしながら一人で時刻表を調べ、運賃を調べて切符を買い、母が作ってくれたボリュームたっぷりの弁当と大きすぎるぐらいの水筒、その他の持ち物をリュックに詰め、駅で列車に乗る際に記念に写真を撮っていたのですが、今アルバムでこれらの写真を見ると、たいていはキハ58系でした。キハ58か同系列のキハ28、キハ57でありました。

 周知のようにキハ58系は、製造数が1823輌にも及び、日本国産のディーゼル動車としては史上最多を誇っています。一時期は国鉄に在籍する気動車総数の3割を占めたこともあり、父の勤務先の日本車輛も多数を製造していましたから、父の遺品の鉄道関連資料や図面類にもキハ58系のそれが相当数含まれています。DMH17Hディーゼルエンジンや液体変速機の組み合わせの細かい図面などをみた記憶があります。

 

 キハ58-1を見た後、車輌群の中をすり抜けて西側に出ました。西の高台に上図のEF63形と189系が並んでいました。EF63形の2輌は動態保存機としてトロッコラインでも走っている11号機、12号機、24号機、25号機の4輌のうちの11号機、12号機でした。さきに見かけた、徐行運転している重連が3次車の24号機、25号機でしたので、つまりは上図の2輌は1次車であるわけです。

 それで、Nゲージのほうではこの1次車のタイプが中古品市場でもなかなか入手出来ない事を思い出しました。嫁さんがヤフオクで一週間探し続けても、全然出品例が無いほどです。古い時期の製品でリニューアルもされておらず、新品ではもう買えませんから中古品を探すしかないのですが、希少品であるためか、未だに見つけられていません。

 

 こちらはEF62形の1号機です。全部で54輌が製造されたなかの、最初の試作機にあたります。昭和三十七年(1962)に製造され、同時期に製造されたEF63形1号機とともに試験運転に投入され、EF63形の特徴や不備や内部機能などのチェックや初期データの構築に貢献、それらの成果をふまえての諸改良が行われ、量産型の2号機以降の1次車、25号機以降の2次車が製造されています。
 外見をパッと見ると、前面窓上に水切りが無いのが分かります。量産型の1次、2次車との分かりやすい識別点の一つです。

 この1号機も、唯一無二の試作車タイプですから、Nゲージ化されていません。と言うか、基本的に試作機というのはNゲージ化されないと聞いています。

 

 そのEF62-1の続きに10系客車のナハフ11-1、その向こうにEF63-1が見えました。両方ともまだ見ていませんので、後でじっくり見よう、と考えて次に移動しました。

 

 向かいのEF65形の520号機は車体の塗り直し修復中でした。その後ろの上図の電気機関車もまだじっくり見ていなかったな・・・、ええと、EF60形の501号機か・・・。

 

 そのEF60形の501号機です。前回は流し見たにとどまりましたので、今回はじっくりと見ました。Nゲージで買おうかなと検討中の1輌がこのEF60形であるからです。

 ゆるキャンに登場する鉄道車両をNゲージで揃える事を始めてから、ここ「横川鉄道博物館」の展示車輌についても作中に出ているのを3車種ほど揃えようと考え、EF62、EF63、ED42の3車種を嫁さんに頼んでヤフオクで落札して貰いました。

 それらとは別に、川本氏が「日本の鉄道技術史においても重要な存在やった車輛が幾つかあるんで、そのうちの1、2輌ぐれえは揃えといたほうがええんと違うか」とけしかけてくるので、ならば、嫁さんの「山陰線ジオラマ計画」にて集められている車輌を別にして、まだ我々の手元に無いのを1輌ぐらいは入れることにしました。
 最初はEF65形を考えたのですが、既に嫁さんの「山陰線ジオラマ計画」の車輌として購入済みでしたので、次の候補としてEF60形はどうかなあ、と考えたのでした。

 

 向かいのEF59-1です。これは前回じっくり見たので、次へ移るべく、横目でサーッと見ました。

 

 EF59-1の後ろのEF80-63です。これも前回じっくり見ましたが、待てよ、と気付いて立ち止まりました。これは確か国鉄でもJRでも常磐線や水戸線の電化区間の専用機だった筈、西日本での運用は無かった筈、と思い出しました。したがって嫁さんの「山陰線ジオラマ計画」の車輌にも含まれていません。

 しかもこの63号機が、63輌が製造されたEF80形のラストナンバーで、現存唯一の保存機です。これは歴史的かつ産業技術史的にも価値が高い、と思いました。さきにNゲージの購入候補にEF60形を考えましたが、こっちのEF80形のほうが良いかもしれないなあ、と思い始めました。

 なぜならば、私の手元にも嫁さんの「山陰線ジオラマ計画」の車輌群にも、赤い車体の電気機関車は全く無いからです。1輌ぐらいは有った方がレイアウトの景色も見栄えがするかもな、と思いました。  (続く)      

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その4  再び碓氷峠鉄道文化むらへ

2024年11月13日 | ゆるキャン△

 横川駅から移動して15時5分に碓氷峠鉄道文化むらに入りました。この再訪に約2時間をあてて今回も閉館時刻までゆっくりと滞在する予定でしたが、前回見られなかった一部の車輛や展示を中心に見てゆくので、おそらくは1時間ぐらいで回れるんじゃないかな、早く回れたら回れたで、あとは成り行きに任せよう、と考えました。

 

 最初に、ずっと気になっていた上図の時計台のてっぺんの橋梁のオブジェを見上げて確認しました。作中ではその上に列車の模型らしいのが乗っているように描かれているからです。でも実際には列車の模型らしいのはありませんでした。ただ、線路が見えますので、以前は列車の模型も乗っていたのだろうと思います。何らかの事情で撤去されたのでしょう。

 

 入口の広場の脇の189系のクハ189-506です。前回は右側面の塗り直し修復中でしたが、今回は御覧のとおり、綺麗に仕上がった姿でした。

 

 やっぱり昭和生まれにはこの昭和の国鉄カラーがしっくりきます。グッときます。

 

 今回は189系の車内に入れました。現役の列車と変わらない雰囲気で、中央あたりの窓際の席にちょっと座ってみましたが、発車のアナウンスがそのうちに流れてきそうな錯覚に陥りました。もはや私もテツになってしまったようです。

 

 ついにやってきましたよ。約束通り。

 

 EF63-10、峠のシェルパの勇姿は静態保存の今でもカッコいいです。前回と同じく「能登」のヘッドマークを付けていました。「能登」は、2010年ごろまで上野駅からここ信越線を通って金沢駅まで運行されていた夜行の急行列車でした。上図のEF63形のほか、189系で編成された列車もあったと聞きます。

 

 これのNゲージは未だに買えていません。碓氷峠越えのシンボルであったこのEF63形電気機関車は、全部で25輌が製造されてここ横川の車両区に配属されていましたが、製造時期によって試作機、1次車、2次車、3次車の4つのタイプに分かれます。上図の10号機は三菱が製造した1次車に属します。

 Nゲージではトミックスとカトーがそれぞれに1次車、2次車、3次車のタイプを出していますが、人気があって市場在庫も多いのは2次車、3次車で、1次車は古い製品であるためか、中古市場でもあまり見かけません。
 上図の10号機をズバリ再現出来るのはトミックスの品のみですが、そのトミックスの品が全然入手出来ていないままです。いずれリニューアルされて出る新製品を待たないといけないかな、と思います。

 

 EF63-10の後ろにあるEF62-54です。作中にて瑞浪絵真が「フグっぽい」と評した機関車ですが、こちらはNゲージでトミックスの品を買いました。選択式のプレートにはズバリの54号機のナンバーも含まれます。

 このときは向かって右側の前照灯が点いていました。これは片方だけを点けているのか、本来は両方点灯すべきところを片方が故障して点かなくなっていたのか、どちらかは分かりませんでした。
 また、向かって右端に白い棒が付いていますが、おなじパーツがNゲージにも入っていて、取り付け指示が入っています。正式名称をコーリニアアレイアンテナ、略してCアンテナと呼びます。無線通信用高利得アンテナの一種であるそうです。

 

 こちらは前回撮り忘れた、シュミレーターになっているほうのEF63-18です。向こう側の運転席がシュミレーターボックスに覆われて、ボックス内部のスクリーンに走行時の動画が映し出される仕組みになっています。反対側のこちらは外観がそのまま見られます。

 これのNゲージも手元にあります。この18号機は2次車に該当し、トミックスの碓氷峠セットシリーズの2次車コレクターズボックスにこの18号機と、同型の19号機が入っています。車体色もおなじぶどう色です。これもCアンテナが付いていますが、私のNゲージのパーツはまだ取り付けていませんね・・・。

 

 鉄道展示室の奧、かつての検修車庫にて使われていた様々な工作機械類を見ました。前回は時間が無くてサーッと流してみたので、今回は一基一基をじっくりと見ました。

 

 上図は大型旋盤であるようです。駆動部のカバーに「DAINICHI」とあります。旋盤をはじめとする各種生産設備のメーカーである大日金属工業株式会社のロゴです。

 

 これは何でしょう、カッターぽいですね。スーパーでパンや肉をスライスしているカッター機械の巨大版だろうと思います。鋼板とかワイヤーとか導線などをカットするのに使っていたのでしょうか。

 こういう工作機械類を見ますと、なぜかワクワクしてしまいます。一度触って、動かしてみたくなります。嫁さんに言わせれば、「男の人ってそういうのが好きなんでしょ」となりますが、それは正しいです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その3  高崎駅前のスーパーから横川駅へ

2024年11月12日 | ゆるキャン△

 高崎駅西口のペデストリアンデッキから下に降りて、上図のアングルを撮りました。ほぼ同じ構図で作中に登場するからです。

 

 上のシーンですね。作中にて、榛名湖からのバスで高崎駅に戻ってきた各務原なでしこ達は、高崎駅から長野原草津口駅までの特急「草津・四万」に乗る事になりますが、下のコマにて各務原なでしこが「でも電車に乗る前に」と言いつつ、駅前のスーパーへ食材の買い出しに行きます。

 

 向かったのは、高崎駅西口に隣接する上図の「高崎オーパ」でした。御覧のように西口のペデストリアンデッキからそのまま繋がっていますので、下に降りなくても入れます。しかし、各務原なでしこ達が上図に見えるエスカレーターでわざわざ下に降りたのには理由がありました。

 各務原なでしこ達が向かったスーパーは、「高崎オーパ」の一階にテナントとして入っており、その食品売り場へはペデストリアンデッキからだとやや回り道になって建物内の北寄りにあるエスカレーターへ迂回するからです。そこまで回り道しなくても、下に降りれば、駅前ターミナルに隣接するスーパーの東口からすぐに入れます。その東口は、上図の右下の車道で車が並んで停められている所の奥にあります。

 

 ですが、作中ではどういうわけか、反対側の西口、スーパー側では裏口にあたる上図の西側の建物外観が描かれています。実際にはスーパーとは「イオンスタイル高崎駅前店」のことで、御覧のように「高崎オーパ」の一階にテナントとして入っており、高崎駅西口に面した東口をメインエントランス、こちらの西口を裏口として位置づけているようです。

 

 右のシーンです。建物の外観はそのままですが、「イオンスタイル」のロゴは省かれています。なので、このシーンの場所の特定には手間取りました。

 旅行前の事前調査にて、高崎駅周辺に所在するスーパーはこの「イオンスタイル高崎駅前店」しかないことが分かっていたのですが、駅から見た建物の外観が作中のと合わなかったため、数分ほど建物の周りをうろついて景色を探すはめになりました。

 

 外観の景色が特定出来たので撮影し、そのまま上図の西口から入りました。「イオンスタイル高崎駅前店」には東西南北に一ヶ所ずつ出入口があり、東口と西口のほかに、駅前ロータリーに面した南口、北の高島屋方向に連絡する北口があります。

 作中では、各務原なでしこ達がスーパーのどの出入口から入ったのかは描かれていませんが、可能性としては上図の西口かな、と思いました。

 

 なぜかというと、各務原なでしこ達が食材のおでんの品々を購入したコーナーが上図の1番の「豆腐・納豆 かまぼこ・こんにゃく」の位置で、西口を入ってすぐ左手にあるからです。

 

 左のシーンですね。瑞浪絵真の頭上のコーナー表示板がそのまま描かれています。1番の数字も同じです。

 この「イオンスタイル高崎駅前店」は、食料品専門に特化したスーパーの一種で、普通の食品スーパーよりは広く、扱っている商品も豊富です。地元高崎の特産品コーナーやスタバ、薬局もあるので、なかなか便利です。高崎の宿に二泊した今回の旅では四回も買い物に行って弁当や飲み物、夜のおやつや食材、ドリンクなどを買いました。駅前1分の至近にあってバスターミナルの横にありますから、バス待ちの合間にちょっと立ち寄ることも可能で、大変に便利です。

 今回の聖地巡礼のコース上においては他にスーパーが無かったので、この「イオンスタイル高崎駅前店」はとにかく重宝しました。同時に、各務原なでしこ達が野反湖キャンプでの食材をここで調達していた理由もよく分かりました。伊香保温泉や長野原草津口駅エリアにはスーパーが無いからです。

 

 買い物を済ませて14時20分に高崎駅に戻り、中央改札口をくぐりました。上図の電光案内板で次に乗る列車の乗り場が5番であることを確認し、5番ホームへと急ぎました。既に待機していた14時23分発の横川行き普通列車に乗り込みました。

 

 15時3分に横川駅に着きました。乗った列車はおなじみの211系でした。今回の聖地巡礼中では吾妻線や両毛線にも乗りましたが、車輌はすべてこの211系でした。既に鉄道模型Nゲージでも買って時々走らせていますので、すっかりお馴染みの車両のひとつになっています。

 

 この日の横川駅は、かなりの数の乗降客で賑わっていました。共に下車した乗客は50人ほど、入れ替わりに乗車していった上図の登山客や観光客の団体が80人ぐらい居ました。悪天候や雨天がずっと続いた後の、数日間の晴天日でしたから、碓氷峠ルートや「アプトの道」へのハイキングには絶好のタイミングだったでしょう。

 

 下車した乗客の大半は、駅前のバス停から上図の軽井沢行きのJR特急バスに乗り換えていました。なるほど、軽井沢方面へのバスが連絡していたのか、と気付くとともに、これに乗ったら約40分で長野県へ行けるのだなあ、と思いました。

 この連絡バスは、指定期間中の土日祝に信越線旧線沿いの旧道ルートを走って熊ノ平やめがね橋などのバス停に停まります。前回の巡礼時に利用しようと考えたのですが、平日に出かけたために利用する機会がありませんでした。

 今後の巡礼計画では、作中で各務原なでしこ達がたどった、甲府から小淵沢経由で軽井沢まで行って「アプトの道」まで移動したルートをなぞる予定がありますので、その際にこの連絡バスを利用出来たらな、と思います。

 

 バス停の横の「アプトの道」の発着点です。前回の巡礼時に熊ノ平からスタートしてここでゴールしたのでした。あれからもう5か月が経ったか、と思いました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その2  高崎駅内の弁当屋跡と弁当3種

2024年11月09日 | ゆるキャン△

 特急「草津・四万」に乗って上野駅を発車した直後、座席の快適さのために寝てしまい、気付いたら上図の車両基地か貨物列車基地のようなところを通過中でした。寝ぼけつつもタブレットの地図で現在地を検索し、籠原駅近くの旧籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所であることを知りました。

 

 長い車輛基地の複数の側線上に沢山の電気およびディーゼルの機関車が停まっていて、おおっ、と目が覚めましてそれぞれの機関車を見ていきましたが、撮影を忘れていて、慌ててなんとか撮れたのは上図の青い車体のEH200形だけでした。現在では在籍する24輌の全機が高崎機関区に配置されているそうです。

 なので、このEH200形電気機関車は、後で高崎駅や前橋駅などでも見かけました。

 

 高崎駅へ着く直前に撮った、最後尾の運転室です。乗ったのが1号車でしたから、上野駅発の下り列車においては最後尾になるわけです。それで車掌さんが乗っているかなと思いましたが、検札なのか、姿が見当たりませんでした。
 それで運転室をしばらく見ていましたが、御覧のように室内のデザインもシンプルで、運転席が一段高く設けられていて視界が良さそうな感じでした。

 

 13時33分、目的地の高崎駅に着きました。下車して上図の1号車前面のアングルを撮り、続いて側面を撮ろうとしましたが、発車して走り去ってしまいましたので、うまく撮れないままに終わってしまいました。

 

 高崎駅の駅名標です。また高崎にやって来たんだなあ、と実感がこみ上げてきました。ですが、いつまでも感慨にひたってはいられませんでした。この日の聖地巡礼は半日以下しかないため、とにかく時間が貴重でした。

 

 駅構内の人の多さにびっくりし、中央改札口の内外の混雑ぶりに驚き、なんでこんなに人が多いんだ、前回とまるきり違うぞ、と思いつつ、改札口を出て西側の上図のコンビニの一区画を見まして、撮影しました。人通りが多すぎて、上図の一枚を撮るまでに5分ぐらいかかってしまいました。

 この区画に、作中で各務原なでしこ達が駅弁を購入した「弁当屋」のモデル店舗である「駅弁屋」がテナントとして入っていたのですが、昨年秋に閉鎖撤去されてしまい、隣のコンビニがフロアを広げていまの状態に至っています。

 

 作中では、かつての「弁当屋」が中央改札口の西側に描かれています。元モデル店の正式名称は「駅弁屋上州1号店」で、高崎駅構内にはさらに2号店と3号店があり、2号店は中央改札口内の東側、3号店は新幹線の改札口内にあります。同系列の店が駅内に三つもあったわけで、効率化のために1号店を閉鎖した、ということのようです。

 

 ですが、駅弁の販売はそのコンビニで引き継いで行われていましたので、各務原なでしこ達と同じように駅弁を買うことは可能でした。上図は、瑞浪絵真が買っていた「峠の釜めし」で、御覧のように豊富に並べてありました。地元の名産物だけのことはあります。

 

 作中では、各務原なでしこが買った「33品目バランス弁当」と斉藤恵那が買った「とりめし弁当」も出ています。おそらく両方とも実際のモデル弁当が存在するのでしょう。

 

 駅弁コーナーは二つありまして、もう一つのコーナーに色々な駅弁が並んでいました。それらのPOPのなかに上図の「鶏めし弁当」1300円のPOPがありました。

 

 これが斉藤恵那が買った「とりめし弁当」のモデル品でしょう。箱のサイズやパッケージのデザインがよく似ていますし、他に似たような弁当が見当たらなかったからです。

 

 続いて上図のPOPを見つけました。「30品目バランス弁当」1000円、これは大変に分かりやすいです。各務原なでしこが買った「33品目バランス弁当」のモデル品は間違いなくこれですね。

 

 パッケージデザインもほとんどそっくりでした。紐を隅に斜めにかける点も同じでした。よしコレにしよう、と1個を取り出してレジへ向かいました。昼飯がまだだったので、この30品目バランス弁当を、後で再訪する横川の碓氷峠鉄道文化むらでゆっくり食べよう、と考えました。

 

 それから次の聖地スポットへ向かうべく、高崎駅の西口を出ました。時刻は13時48分でした。次に乗る予定の横川行き列車が14時28分なので、持ち時間は40分しかありませんでした。今回も忙しいなあ、と思いつつ、駅のペデストリアンデッキから階下のバスターミナルの横へ階段を急いで降りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く42 その1  再び高崎へ

2024年11月08日 | ゆるキャン△

 2024年10月12日、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルートの聖地巡礼に、四泊五日の行程を組んで出かけました。この二日目ルートとは、各務原なでしこ、斉藤恵那、瑞浪絵真の3人が榛東村のキャンプ場から出発して次のキャンプ地である野反湖湖畔のキャンプ場へ行くまでのルートを指します。

 周知のように、作中では最初に伊香保温泉に行き、バスで榛名山エリアに移動して榛名富士山に登り、榛名公園を経て榛名湖からバスで高崎に移動、高崎駅前のスーパーで食材の買い出しをしています。その後、高崎駅から吾妻線の特急「草津・四万」で終点の長野原草津口駅まで行き、バスに乗り換えて野反湖に到達しています。

 この広範囲かつ長距離のルートを、私なりに公共交通機関を利用してゆっくりと回り、観光も楽しみながら全部辿ってみよう、というのが今回の計画でありました。一日目は京都から高崎への移動と高崎および横川エリアの巡礼にあてることにして、朝8時半過ぎに家を出て、地下鉄で京都駅まで移動しました。

 

 京都駅で朝食を食べ、9時16分発の新幹線のぞみ316号東京行きに乗りました。京都から高崎まで三時間余りかかるため、この日の聖地巡礼には半日しかあてられませんので、対象地域を気軽に回れる高崎、横川のエリアに決めました。

 

 東京駅には11時27分に着きました。高崎へは北陸新幹線に乗り換えて行くのが早いですが、この日はゆるキャン聖地巡礼ですから別の方法で行く予定でした。新幹線の改札口を出て、在来線への乗り換え連絡路に進みました。

 

 在来線の7番ホームに降りて、上図の電光案内板を見上げて次に乗る列車を確かめました。11時39分発の高崎行きの普通列車でした。高崎行きですからこれに乗っても目的地へ行けますが、この日は時間が貴重でしたし、何よりもゆるキャン聖地巡礼ならばでの、乗るべき列車に乗らないといけませんでした。

 

 それで11時44分、上野駅で下車しました。上野駅に来ると、たまに迷うことがありますので、事前に構内図を見てしっかりと乗り換え順路を覚えておいて、迷路のような駅構内を急ぎ足で移動しました。

 

 向かったのは、下車した5番線ホームよりずっと南の一段下にある、14番線ホームでした。宇都宮、高崎方面への特急列車の発着ホームです。

 

 この14番線から、12時10分に発車する特急「草津・四万」3号に乗る予定でした。作中では、各務原なでしこ達が昼過ぎに高崎駅でこの特急に乗り、長野原草津口駅まで移動していますが、私の計画では野反湖へは日帰りで往復することにしていたため、同じように高崎駅から長野原草津口駅まで移動することがダイヤの関係で出来ませんでした。

 その代わり、高崎までの移動区間を乗って雰囲気を楽しもうと考え、発着駅の上野駅から乗る事にしました。今回の四泊五日の行程もギッシリのハードスケジュールになったため、特急「草津・四万」を利用出来るタイミングが、一日目の高崎への移動しかなかったのですが、それでも同じ特急列車に乗れるのですから良し、としました。

 

 上野駅14番線は、御覧のように特急「草津・四万」およぴ「あかぎ」の発着専用ホームであるようで、案内表示も時刻表もこの二つの特急のそれしかありません。前日に往復分をまとめて購入しておいた切符の指定席券は1号車でしたので、上図の1号車の乗り降り指定位置に並びました。

 

 12時3分、12時10分発車の特急「草津・四万」3号が14番線ホームに入ってきました。作中と同じE257系でした。おおー、とテンションが一気に上がりました。

 なにしろ、このE257系5500番台の特急「草津・四万」5輌編成セットの鉄道模型NゲージがKatoから出ていて、8月下旬に嫁さんからのプレゼントで貰いました(当時のポストはこちら)ので、何度かレイアウト上で走らせていました。外観や雰囲気もそのままですから、目線をNゲージの高さに合わせればバッチリでした。

 

 その同じ列車がゆるキャン作中にも登場しています。その運行路線は、京都から高崎までの移動ルート上にありますから、上野で乗り換えれば、いつでもこの特急列車に乗れるわけです。
 なので、今回の聖地巡礼中に一度は乗るぞ、と決めていました。

 

 ですが、ボディカラーの色とデザインが違っていました。車番を見ると2500番台でしたので、本来は「あかぎ」用の車輌であるのを「草津・四万」用にあてているのか、と気付きました。同じE257系ですから、乗っている分には同じで雰囲気も変わりません。5500番台のほうも、高崎線のどこかで見られれば良い、と思いました。

 

 と言うより、乗ってしまうと列車の外観を撮れませんから、出来れば外から別の5500番台の特急「草津・四万」のいずれかの便を見て、撮りたいな、と思ったのでした。

 特急「草津・四万」は、上野駅と長野原草津口駅との間を一日3往復で運行されています。3往復しかないので、そのぶん、乗るタイミングが限られています。私が今回上野駅から乗った12時10分発の3号は、第3便でつまりは最終便でした。

 特急「草津・四万」の令和6年3月16日からの時刻表はこちら

 

 車内はこんな感じで、一般的なJR特急の車内よりは高級感があって快適性も優れていました。座席もゆったりしていて気持ちよく、すぐに眠くなってしまうほどでした。

 E257系は、国鉄時代からから引き継いだ183系、189系や、165系などの置き換えのためにJRが2001年度より投入した「新世代の特急形電車」です。その開発コンセプトは「シンプルさの中のくつろぎ」で、特急列車としての速達性の向上よりは基本的な快適性の向上に主眼が置かれたといいます。
 JRが独自に設計、製造した特急形車両としては初めて製造輌数が200両を越え、製造総数は249輌に達しています。現在でも約230輌が在籍し、JRグループの特急型車両における単独系列としては最大数を誇っています。  (続く)  

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その29  横川駅

2024年11月03日 | ゆるキャン△

 碓氷峠鉄道文化むらの閉館時刻の17時を過ぎました。閉館メロディに押されるようにしてレンガ橋梁のゲートをくぐり、上図の新幹線用軌道確認車GA-100の横を通りました。

 

 さようならー、また来ますよー。

 

 敷地の外へ伸びて横川駅構内の横のヤード跡まで続く線路。

 

 外へ出て、トロッコラインの駅から続く、まだ生きている唯一の線路をたどりました。なんでも安中市はこのトロッコラインを横川駅にも繋いで、横川駅からのトロッコラインを全通させる計画をもっているそうです。

 それとは別に、この線路は碓氷峠鉄道文化むらへ展示車輌などを搬入する際や、同館保有のEF63形電気機関車が車輪削正などのために甲種輸送される際などに使われているそうです。それで横川駅構内で信越線とも繋がっていると聞きました。

 それで、その引き込み線がどう続いていて、どこで現信越線に繋がっているのかを見るべく辿ってみようかと考えました。

 

 しかし、時計を見ると17時12分、帰りの電車の時刻17時21分までまで9分しかありませんでした。それで上図のヤード跡と引き込み線の見学は次の機会に回しました。

 

 17時14分、横川駅に戻りました。

 

 横川駅前の聖地スポットの撮影をしました。上図のデゴイチの顔出しパネルです。各務原なでしこと斉藤恵那がここで顔出しして遊んでいたのです。

 

 右のシーンです。原作コミック第16巻130ページ2コマ目です。作中では二人が並んで顔出ししていましたが、実際にはパネルの窓は片方しか開いていませんので、顔出し出来るのは一人までです。朝に駅前に着いてこのパネルの裏を見て「あれ?」と思ったのは、その点に気付いたからでした。

 

 横川駅の1番線ホームに入りました。ここにも、聖地スポットがあります。上図のアングルです。

 

 17時16分、列車の到着を告げるアナウンスが流れました。さあ、いよいよだ、とデジカメを構えて待ちました。

 

 で、ホームに入ってきた列車を撮影しました。今回の聖地巡礼での最後の聖地スポット撮影は成功に終わりました。

 

 このシーンを実際に撮ったわけでした。原作コミック第16巻130ページ4コマ目です。

 その列車が折り返して17時21分発の帰りの列車となりました。予定通りに乗り込んで、17時53分に高崎駅に着き、18時1分発の北陸新幹線あさま628号に乗り換えました。18時52分に東京駅に着いて19時発の東海道新幹線のぞみ253号に乗り換え、京都には21時15分に着きました。

 高崎から京都まで新幹線で3時間15分なのだ、と実感した途端、それまでは遠い土地だった群馬県が急に身近に感じられました。次の聖地巡礼も群馬方面で計画していたので、二回目はもっと気楽に行けそうだな、と思いました。
 以上で、安中市エリアのアプトの道および横川鉄道博物館編を括りまして、ゆるキャン群馬キャンプ編一日目ルートの聖地巡礼レポートを終わります。

 次回からは、ゆるキャン群馬キャンプ編二日目ルートの聖地巡礼を高崎・横川、榛名公園、野反湖、伊香保温泉の四つのエリアに分けてレポートします。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その28  碓氷峠鉄道文化むら 閉館時間まで

2024年11月02日 | ゆるキャン△

 ゆるキャンの横川鉄道博物館こと碓氷峠鉄道文化むらの続きです。16時55分に鉄道資料館を出て外の広場に戻りました。既に閉館時刻のお知らせメロディが流れていて、見学客の大半はもう退出していたようでしたが、まだ十数人が広い園内にちらほら見えました。

 

 とりあえず、まだ撮っていなかった上図の189系の反対側の側面を撮りにいきました。御覧のように前照灯が点いたままでした。開館中は点いているそうです。

 

 この図で撮りました。こちらは塗り直し修復が済んでいました。来た時に一度撮ろうとしたのですが、西日がもろに降り注いで逆光状態であったため、後回しにしたのでした。

 

 さようなら、また来るよ、と心で呼びかけて撮りました。

 

 このアングルもあったな、と思い出して撮りました。

 

 原作コミック第16巻116ページ3コマ目です。「碓氷峠鉄道文化むら」が「横川鉄道博物館」になっています。

 

 あと、この線路も撮っとかないと、と急いで撮りました。これは鉄道展示室の西展示室の車庫に収められているED42形1号機が、この線路の続きに載っているので、年に一、二度、イベントなどで軌道モーターカーTMC200Bに推進されて外へ動いて出てくる模擬走行展示を行うのだそうです。機会があれば見たいものです。

 

 189系の手前にあった手動の転轍機。これもイベントなどで実際に動かす体験が出来ると聞きました。

 

 転轍器のレバーを反対側に倒すと、分岐のレールが反対側のレールにくっついて固定されるわけです。

 

 近くにあったアプト式の展示軌条の案内説明板。これの図が、碓氷峠越えなるものを理解するには一番分かりやすいので、しばらく見ました。

 

 御覧のように、軽井沢駅と矢ヶ崎信号所の間ぐらいに碓氷峠のピークがあるそうで、そこから横川まで急こう配の下り坂になります。高さ252メートルを下って熊ノ平駅跡に至ります。今回はこの熊ノ平駅跡からの「アプトの道」を横川駅まで下っていったわけです。

 

 そして熊ノ平駅跡から、さらに高さ302メートルを下って横川駅に至るわけです。ずっと下り坂ですので、これを横川駅からたどると、ずっと登り坂で疲れます。だから作中で各務原なでしこ達も、実際に私も、熊ノ平駅跡からスタートして降りていくコースを選んだわけです。

 

 とうとう17時になりました。閉館時刻の挨拶のアナウンスに押されるようにしてゲートを出ました。右の189系や旧検修車庫内のEF63形の前照灯が、見ていたら17時3分に相次いでフッと消えました。

 碓氷峠鉄道文化むら、予想以上に素晴らしいスポットでした。最高に楽しい場所です。鉄道に興味が出てきた身には、展示車輌のひとつひとつが面白く、見飽きなく、撮影も二、三枚では足りませんでした。

 もともと文化財学、美術史学の研究者なので、対象物は真剣に時間をかけて見て、考察し検証するのが癖になっています。仏像ならば最低でも30分は見て学びます。鉄道車輌ならば、10分ぐらいは欲しいところですが、ここの41輌の展示車輌を全て見ようとすると410分、半日はゆうにかかります。5分ずつに縮めても3時間25分かかりますから、今回の約2時間半ではとても足りませんでした。
 なので、まだ見ていない車輛が10輌ぐらいははあったと思います。鉄道資料館のほうでも、展示コーナーの全てを見られないままになりました。

 したがって、必ず再訪する、と決めました。秋に予定している群馬キャンプ編二日目のルートの聖地巡礼で、ここにまた来よう、最低でも三時間はとって、今回見られなかった展示をゆっくり見よう、と考えました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その27  碓氷峠鉄道文化むら 鉄道資料館にて

2024年11月01日 | ゆるキャン△

 ゆるキャンの横川鉄道博物館こと碓氷峠鉄道文化むらの続きです。閉館時刻の17時までもう45分ぐらいになったため、屋外展示場の車輌群の見物を切り上げて、急いで上図の鉄道資料館に行きました。

 

 この建物は原作コミック第16巻127ページ1コマ目にも出ています。2コマ目は一階の販売コーナーで、入口を入ってすぐの正面にあります。碓氷峠鉄道文化むらのオリジナルグッズや鉄道関連のグッズ類が豊富に揃っています。

 

 一階の販売コーナーにて土産に購入したのが上図のEF63形のオリジナルTシャツ。これは嫁さんの分も合わせて買いました。普通は鉄道ファンしか買わない品だろうと思いますが、私も嫁さんも最近は鉄道模型Nゲージに熱中していて、EF63形碓氷峠セットもしっかりと確保して走らせていますから、このTシャツは部屋着にいいだろう、と考えました。

 後日、二人揃ってこのTシャツを着て京都鉄道博物館に行き、一部の人に「ええやん、それ」とか「それ(京都鉄道博物館)で売ってるんですか」と訊かれたりしました。

 

 このEF63形のオリジナルTシャツを買ったのは、作中にも登場しているからです。原作コミック第16巻127ページ3コマ目です。作中で各務原なでしこがEF63形のオリジナルTシャツを嬉しそうに見ています。

 

 実際にはこんな感じで販売されていました。紺と白の二種のカラーがあり、EF63形のほかにED42形もありました。ED42形のほうは側面観がプリントされていました。

 ところで、各務原なでしこはこのTシャツを買ったのでしょうか。そのような描写は無く、その後の榛東村のキャンプ場ではいつの間にかローマン・アプトおじさんのTシャツを着ていました。
 それでローマン・アプトおじさんのTシャツも実際に売っているのかと探しましたが、見当たりませんでした。念のため係の方に問い合わせましたが、製品化すらしていないそうでした。つまりはゆるキャンの架空商品でした。

 

 このお方がローマン・アプトおじさんです。御覧のように、アプト式鉄道の生みの親として知られています。各務原なでしこが着ていたTシャツにはこの肖像画がプリントされています。

 この画像は、鉄道資料館2階のアプト式鉄道の展示資料のなかにパネルで展示されています。鉄道資料館内部は撮影オーケーでしたので、見学だけでなく撮影にも大忙しでした。

 

 こちらはかつての横川駅と横川車両区の航空写真です。御覧のように横川駅からずっと複数の線路が繋がっています。現在の状況とは全然違います。左下に見える白い屋根の細長い建物が検修車庫で、現在の碓氷峠鉄道文化むらの鉄道展示室にあたります。そしてその左の広い更地がいまの屋外展示場にあたります。

 

 1996年10月25日の撮影、とありますので、平成九年(1997)10月1日の北陸新幹線の高崎駅~長野駅間の開通にともなって信越線が廃止される一年前の状況であることが分かります。

 

 アプト式鉄道の資料展示室です。興味深い展示物が多く、とても45分では足りませんでした。全部を見る事が出来ませんでしたので、いずれ再訪して、そのときに続きを見よう、と決めました。

 ゆるキャン群馬キャンプ編の聖地巡礼は、今回は一日目のルートを対象にしていましたから、いずれ二日目の榛名山・伊香保温泉および野反湖へのルートに行くことになります。その時もおそらくは宿泊地を高崎に定めると思いますので、高崎から20分ぐらいで行ける横川の碓氷峠鉄道文化むらへも、また行けるだろう、と考えていました。今回見られなかった展示や車両は、その二回目の聖地巡礼の時に見に行こう、と決めました。

 

 アプト式ラックレールの模型です。

 

 こちらはラックレールの実物展示です。屋外にも同じものが展示されていましたが、こちらのレールは摩耗して歯がすり減ったのを交換した部品の見本展示品です。

 

 鉄道資料館には、他にも色々な展示があり、子供たち向けの鉄道模型やNゲージのジオラマ展示もありましたが、今回は時間の関係で早足で通り見るだけにとどめました。外へ出たのは16時55分でした。
 上図の玄関口も作中に描かれています。

 

 原作コミック第16巻127ページ4コマ目です。鉄道資料館の文字もそのままです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く41 その26  碓氷峠鉄道文化むら 数々の展示車輌 下

2024年10月29日 | ゆるキャン△

 ゆるキャンの横川鉄道博物館こと碓氷峠鉄道文化むらの続きです。上図は西側の車列の北端に位置する、気動車のキハ20形です。

 キハ20形は、日本国有鉄道(国鉄)が昭和三十二年(1957)に開発した一般形気動車の一種で、昭和四十一年(1966)までに同系列の車輌があわせて1126輌製造され、日本各地で広く使用されました。
 ゆるキャン聖地の範囲内では天竜浜名湖鉄道でかつて走っており、現在も天竜二俣駅の隣の公園内に1輌が静態保存されています。

 

 こちらはキハ35形です。キハ35形は日本国有鉄道(国鉄)が昭和三十六年(1961)から製造した、大都市近郊の非電化通勤路線向け気動車の一種で、昭和四十一年(1966)にかけて同系列の車輌があわせて413輌製造されました。

 このキハ35形は、動いているのを見た記憶はありませんが、兵庫県に住んでいた頃に西脇市や多可町の鍛冶屋線の廃線跡の駅舎などで静態保存されている2輌を見ました。西脇市にあった1輌はラッピング車輌のようになっていましたが、多可町で見た1輌は現役当時のカラーであるブルーに白帯の姿でした。
 なので、こちらの赤い車体には珍しささえ感じましたが、本当はこちらのカラーが本来の大都市近郊の路線でのカラーであったそうです。鉄道模型Nゲージでもキハ35形はだいたい赤色で、首都圏色と呼ばれます。

 

 キハ20形の後ろにあるスニ30形と、その右隣のEF59形電気機関車です。スニ30形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が昭和二年(1927)から導入した、初の鋼製車体をもつ客車オハ31系客車の形式群の一種で、荷物車として昭和六年(1931)までに84輌が製造されました。

 

 EF59形は、日本国有鉄道(国鉄)が昭和三十八年(1963)から運用した電気機関車の一種です。山陽本線の瀬野と八本松の間にある「瀬野八」と呼ばれる22.6パーミルの連続する勾配区間の補助機関車として、EF53形とEF56形から改造された24輌が運用されていました。信越線の碓氷峠越えのための補助機関車であったEF63形と同じ立ち位置の車輌です。

 

 EF59形の手前、キハ20形の隣にあったEF60形電気機関車です。EF60形は、日本国有鉄道(国鉄)が昭和三十五年(1960)に開発した、平坦路線向けの電気機関車の一種で、昭和三十九年(1964)までに143輌が製造されました。東海道線や山陽本線などの主要路線の特急列車、臨時列車、貨物列車を牽引して活躍しました。

 

 見学路を引き返して、スニ30形の横を通りまして・・・。

 

 その東側にあるマイネ40形客車とEF80形電気機関車を見ました。EF80形は日本国有鉄道(国鉄)が昭和三十七年(1962)から製造した電気機関車の一種で、昭和四十二年(1967)までに63輌が製造されました。常磐線や水戸線の電化区間の専用機として活躍しました。現存するのはこの63号機のみです。

 

 EF80形の向かいのマイネ40形客車は、日本国有鉄道の前身である運輸省鉄道総局が運用した寝台車両の一形式で、もともとは進駐軍専用車輌として進駐軍の指示により新製されたマロネ40形客車がキャンセルとなったため、運輸省鉄道総局が購入して特急および急行列車に使用し、また改造してマイネ40形客車となりました。

 上図の保存車は新造当時の塗装色に復元されており、クリーム色の帯には当時の運輸省の英語表記である「Japanese Government Railways」の略語「J・G・R」のロゴがあります。この「J・G・R」はサンフランシスコ講和条約締結後に廃止され、昭和二十四年(1949)からは日本国有鉄道「Japanese National Railways」の略語「JNR」に変更されました。

 

 マイネ40形客車の北側へ回ると、さきに見かけて気になっていた、上図の大型の車輌がありました。ふと時計を見て、16時3分であるのに驚きました。
 入場したのが14時48分でしたから、すでに1時間15分が経過したわけでした。もうそんなに経ったのか、閉館時間の17時までもう45分しかないのか、あと鉄道資料館も見ていきたいし、この屋外展示場の車輌群の見物はこの大型の車輌でしまいにしよう、と考えました。

 

 この大型の車輌はソ300形貨車といいます。、日本国有鉄道(国鉄)が昭和四十一年(1966)に製造した、橋桁架設専用の事業用貨車です。エンジンを持っていて自走出来ますが、分類上は貨車となっています。2輌が製造され、現在はここの保存車が唯一となっています。

 

 架橋用の作業車だったのか・・・。車輪が16もある・・・。4軸ボギー台車を前後2群に配置しており、ずらっと並んだ車輪が独特の迫力を示しています。ガルパンにも出ていたカール自走臼砲みたいな重量感が感じられます。

 このソ300形は、Nゲージでも製品化されていたそうです。サンメックというメーカーが出していたそうですが、いまでは絶版となってどこにも無いそうです。

 

 時間が無いので、ソ300形の東側のDD53形ディーゼル機関車は、横目で眺めただけで通り過ぎました。  (続く)

 

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