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京都鉄道博物館9 梅小路機関車庫のSLたち 上

2025年03月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 梅小路機関車庫の引込線内の約1キロを往復する、上図の体験展示「SLスチーム号」がホームに停まっていました。嫁さんに「どうする?乗る?」と聞きましたが、「見てるだけでいいです。あれって、客車が窓無しの開放タイプでしょう、蒸気機関車の煙とか煤とかが飛んできて、服についたりするの、あかんですので・・・」と少し残念そうに答えました。

 

 C56形160号機です。160輌が製造されたC56形のラストナンバー機で、1939年に川崎車輌兵庫工場にて製造されました。戦前は津山機関区、戦後は鹿児島機関区や横浜機関区を経て、1964年から上諏訪機関区に移り、小海線や飯山線や七尾線などで運用されました。
 ここ梅小路運転区へ移ったのは1972年で、以後は動態保存機となり、SL北びわこ号やSLやまぐち号の牽引機関車として活躍しましたが、2018年に本線運転を終了し、現在に至っています。

 

 正面観です。嫁さんが「この形式が、大井川鐡道千頭駅のジェームスですよね?」と言いました。その通り、大井川鐡道では同じC56形の44号機が動態保存機となっていますが、不具合のために長らく運用されておらず、千頭駅のトーマスコーナーにて赤い車体のジェームスに扮しています。

 それとは別に、大井川鐡道ではもう1輌、135号機が兵庫県の播磨中央公園から移されて現在は動態復元工事を受けているそうです。その復元工事は大井川鐡道の「創立100周年記念チャレンジプロジェクト」の一環として、費用がクラウドファンディングによって集められました。
 私と嫁さんも、ささやかながらそのクラウドファンディングに参加しましたので、135号機が大井川鐡道本線を走る日を楽しみにしています。

 

 さらに嫁さんは「これ、カトー・・・」と呟きました。その通り、カトーが販売しているNゲージ製品がこの160号機を忠実にモデル化しています。マイクロエースからも出ていますが、我が家では大井川鐡道のジオラマ用として、44号機や135号機と同じ初期型タイプのほうをマイクロエースの製品で購入しています。

 上図の160号機は後期型で、大井川鐡道の44号機や135号機の初期型との相違点は、デフレクターの点検窓がある、テンダー後部のヘッドライトが高い位置にある、等が挙げられます。

 

 梅小路機関車庫の保存機の見学に移りました。一番右端の待機線には上図のB20形10号機がありました。嫁さんが「Bってことは動輪が2つですねー、小っちゃい機関車ですねー」と言いました。

 B20形は、日本国有鉄道の前身である運輸通信省(のちに運輸省に改組)が第二次大戦の末期から終戦直後にかけて製造した入換作業用の小型タンク式蒸気機関車です。戦時中に規格生産されたため、徹底した資材節約と工数削減化がはかられて生産性重視の省力構造とされ、製造数も15輌と必要最低限にとどめられています。現存するのはトップナンバーの1号機とこちらの10号機のみで、こちらは動態保存となっていて、いまでも時折機関車の入換作業に使われています。

「これって、山陰線でも運用されてたんですかね?」
「どうやろうな、戦時中の製造やから材質も工作精度も悪かったやろうし、おおかたは終戦後に整理されちゃったと聞いてるし・・・。残ってても機関区内での入換作業にしか使わなかったみたいやから、鉄道マニアの方が撮る機会も稀やったろうし、蒸気機関車の昭和の写真集とかは沢山あるけど、B20形の写真図版ってのは見たことないなあ・・・。山陰線にも配置されてたか、てのは分からんね・・・」
「お義父様の鉄道関係の資料とかにも無いんですか?」
「無いと思う。B20形は完全な国策による統制規格型の機関車やから、製造は当時の鉄道省が全部やってて、民間の工場は立山工業(現在の大谷製鉄)が終戦後にタッチしたぐらいか」
「じゃあ、これ、この10号機は鉄道省の?」
「いや、戦時中に鉄道省が造ったんは5輌やから、あとは終戦後に立山工業が10輌を追加製造してるんで、この10号機も立山工業製やろうな」

 

 B20形の隣から扇形車庫内の展示機の並びになりました。その最初は上図のC59形でした。
 C59形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車の一種です。1941年から1947年までに173輌が製造され、東海道線や山陽本線などの主要路線で特急列車を牽引、お召列車にも充てられるなど、C62形の登場まで国鉄特急の花形として活躍しました。いま現存するのは、この164号機を含めて3輌です。

 

 次はC53形の45号機でした。C53形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を参考にして国産化したテンダー式蒸気機関車の一種です。1928年から1930年までに97輌が製造され、各地の主要幹線での急行列車牽引機関車として活躍しました。現存するのは、この45号機のみです。

 

 次はD52形468号機でした。マンモス機関車の俗称の通り、大きくてがっしりした武骨な姿が印象的です。
 D52形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦時中に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。戦時輸送のために導入された大型貨物用蒸気機関車であり、資材不足に対応した戦時設計となって1943年から1946年までに285輌が製造されました。
 しかし、戦時中の粗製乱造などがたたって粗雑な製造個体が多かったため、戦後に相当数が性能悪化で廃車となり、また改造されてC62形やD62形へと転じたため、1962年時点で在籍していたのは154輌であったそうです。全国各地の主要路線で貨物列車牽引の主力として活躍し、いまはこの468号機を含めて7輌が保存されています。

 

 次はD50形の140号機でした。
 D50形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が戦前に設計した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。開発当初は9900形と呼ばれましたが、1928年からD50形に形式変更されました。1923年から1931年までに380輌が製造され、9600形に代わる強力な機関車として置き換えられて全国各地の主要路線で活躍しました。信頼性の高さから、後継機のD51形が登場した後でも併用して運行され、さらに78輌がD60形に改造されて延命されました。現存するのはここの140号機を含めて2輌のみです。

 

 次は嫁さんがお気に入りのC58形の1号機でした。山陰線でも活躍していたからです。
 C58形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省、運輸通信省、運輸省が開発した、貨物用テンダー式蒸気機関車の一種です。ローカル線用の客貨兼用として設計され、 1938年から1947年までに431輌が製造されました。性能も良く、貨客両用の万能機として重宝され、任務も列車輸送のほか本線入換や支線運用など多岐にわたり、全国各地のローカル線や都市部の入換用として使用され、千葉、和歌山、四国全域では主力機関車として活躍しました。
 山陰線においては、浜田、福知山、豊岡、西舞鶴の各機関区にあわせて10輌前後が配置され、嵯峨野線での運用もみられて昭和期の京都駅までの旅客および貨物列車を牽引する姿が多数の写真集などに残されます。
 各地で活躍して親しまれたため、現存数も多く、ここのトップナンバー機をはじめ全国各地に40輌余りの静態保存機と2輌の動態保存機があります。

 

 次のC55形もトップナンバー機でした。
 C55形は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が設計した、亜幹線旅客列車用の中型テンダー式蒸気機関車の一種です。1935年から1937年までに62輌が製造され、本州や九州や北海道の幹線および亜幹線へ配置されて活躍しました。強化型であるC57形がすぐに登場して大量製造されたため、その陰にあって目立たない存在でした。が、性能や使い勝手が良好であったことにより、北海道や九州においてはC57形よりも長く運用されていたそうです。
 ただ、本州では比較的早期に廃車となったため、現存機もここの1号機を含めて4輌しかありません。

 

 次は、梅小路機関車庫の顔とも言うべきC62形の、これもトップナンバー機です。
 C62形は、日本国有鉄道が運用した最後の旅客用テンダー式蒸気機関車です。D52形からの改造という名義で、1948年から1949年にかけてで49輌が製造され、輸送量を要求される東海道本線、呉線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用されました。C59形の後継機として特急列車の花形となり、1950年より特急「つばめ」および「はと」を牽引、寝台特急の「あさかぜ」「みずほ」「はやぶさ」等の牽引車としても活躍、日本の蒸気機関車の歴史の最後の華として輝かしい実績を残しました。
 現存するのは5輌で、うち1号機を含めた3輌がここ京都鉄道博物館の展示機です。2号機は車籍もあって動態保存となっていますが、2024年の1月に操作ミスによる脱輪事故を起こし、このときは庫内での修理作業の最中でした。

 

 その隣には客車が後尾を前にした状態で置いてありました。マイテ49形の2号車です。先月10月の14日の「鉄道の日」に準鉄道記念物に指定されたということで、それを記念して特別に公開されていたものでした。

 マイテ49形は、日本国有鉄道が製造した展望車の一種で、もとは日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年から製造した20メートル級鋼製客車の形式である国鉄スハ32系客車の一種でした。当初はスイテ37040形と呼ばれましたが、戦後の形式変更によりマイテ49形となり、1960年に廃車となりました。

 その後は大阪の交通科学博物館に保存されていましたが、1987年に車籍復活させてJR西日本が引き継ぎ、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車や団体臨時列車で運用しました。2022年に日本の鉄道開業150周年記念の一環として京都鉄道博物館への収蔵が決まり、現在に至っています。  (続く)

 


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