京都でも屈指の建築面積をもつ鹿苑寺庫裏には、上図のように正面左手に車寄(くるまよせ)と呼ばれる玄関が付けられます。いわゆる式台で、扉を開けて中へ進むと式台の間、左に使者の間がありますが、これは前身の庫裏とは異なった内部構成です。第十世住持の北澗承学(ほっかんしょうがく)による天保期の再建事業で建てられたこの庫裏が前身庫裏よりも規模を拡げているのは、こうした内部空間の変更および拡張が理由の一つであったのでしょう。
禅寺の建築における玄関は、方丈に付く土間廊形式が一般的で、例えば大徳寺の塔頭寺院のそれぞれの玄関が挙げられます。中世戦国期から江戸前期まではその形式が主流でしたが、江戸後期になると方丈の玄関とは別に、もうひとつの玄関を方丈と庫裏を繋ぐ廊下に付けたり、あるいは庫裏に付けたりして、土間廊から式台付きの畳敷きに代わる事例が多くなります。
その式台玄関に使者の間を付けて繋ぐのは、門跡寺院において用いられる構成でありましたから、いまの鹿苑寺庫裏がその構成を示すのは、天保の再建時に鹿苑寺が門跡寺院への昇格を企図していたからではないかと思われます。北澗承学の思惑がそこにあったかどうかは分かりませんが、当時の鹿苑寺に門跡寺院への志向性があったのであれば、それに相応しい庫裏に建て直すということで、前身庫裏よりも規模を大きくしたのかもしれません。
江戸後期からの禅寺建築においては玄関が方丈と庫裏の両方に付けられる事例が見られ、方丈に付くのを大玄関、庫裏などに付くのを小玄関と呼び分けています。鹿苑寺の場合は庫裏の式台が小玄関にあたるので、方丈への玄関廊につく上図の唐門が大玄関にあたります。
この唐門も、第十世住持の北澗承学(ほっかんしょうがく)による天保期からの再建事業で建て直されたものですが、興味深い事に、以前の大玄関は「折玄関」つまり通常の玄関廊であったことが「北山鹿苑寺絵図」でも確かめられます。庫裏を拡大したのと同じ頃に、玄関を唐門形式に変更しているわけですが、大玄関を唐門形式にするのは本寺の相国寺の方丈玄関と同じです。相国寺の大玄関の唐門は文政年間(1818~1830)の造営なので、天保期からの再建事業で嘉永年間(1848~1854)に完成した鹿苑寺の唐門は、おそらく本寺の唐門形式に倣ったものかと思われます。この唐門と玄関廊の組み合わせは、鎌倉建長寺や室町期天龍寺などの中世戦国期までの古い禅寺に一般的に見られる姿ですから、江戸後期の鹿苑寺唐門は、古式を再現していることになります。これも北澗承学(ほっかんしょうがく)のオリジナルプランであったのでしょうか。
ですが、北澗承学(ほっかんしょうがく)は、嘉永二年(1849年)10月29日に示寂されていますから、この唐門の完成を見届ける事は出来なかったかもしれません。気になるのは、北澗承学(ほっかんしょうがく)の没後、次の第十一世住持の憲道周顥(けんどうしゅうけい)の慶応二年(1866年)8月の就任まで十七年もの間、鹿苑寺住持が空席であったことです。本寺の相国寺に人材が居なかったのか、それとも何らかの特殊な事情があったのか、今となっては分かりません。
唐門の木組や彫刻意匠を見ました。江戸後期の造営にしてはどこか古風な、安土桃山期ふうの繊細優美な彫りのタッチが印象的でした。唐門に変更した事自体が古式の再現ですから、細部意匠もそれに合わせて古式に戻しているのでしょうが、江戸後期にこうした復古的建築をデザインした理由とは、いったい何だったのでしょうか。
とにかく歴史的に面白くて謎が多く見応えも充分な建築なのに、大多数の観光客や京都ファンは見向きもしないという、鹿苑寺の庫裏、式台玄関、唐門です。これらの内部は普段は非公開になっていて、メインの方丈でさえ春秋の特別公開でも滅多に開かれませんから、鹿苑寺には舎利殿(金閣)しかないというイメージが定着してしまっているのも、仕方の無い事かもしれません。
ですが、私自身は、前に行って考察を巡らせた慈照寺と同じように、いやそれ以上に、ここ鹿苑寺も大変に面白い歴史的考察が楽しめる場所だ、と認識しています。京都に数多ある魅力的な古社寺のなかでも、ここ鹿苑寺ほどにミステリアスな場所というのはそうそう無いのではないか、とひそかに思っています。
その謎多き鹿苑寺の歴史的変遷を考えさせる新たなスポットが、この秋から一般公開がスタートして見学順路が回されている、上図の南池跡です。現在の鏡湖池とは堤一本で隔てられていますが、2016年から2018年までの発掘調査で初めて全容が明らかとなり、遺構や遺物からみて足利義満が北山殿を築いた時期に造成されたものの、義満の死去によって未完のままに終わったものと推定されるに至っています。
現在は御覧のように綺麗に修景工事が完了して池の汀線や景石らしき石の点在が見られる状態になっていますが、もともと水が張られたことが無かったようで、北の鏡湖池の池底にみられる粘土と栗石を重ねた三層構造の防水処置も存在しなかったそうです。また、池の北東辺で検出された東西5.4メートル、南北6メートルの小型建物跡についても、どんな施設であったのかは不明です。
ですが、個人的には足利義満の没後に時々問題になったという、大量の庭石の堆積の件を興味深く思い出してしまいます。従来はこの南池の護岸石組に使われていたのを抜き取って集めたもの、という解釈がなされていたようです。しかし、今回の発掘調査成果にてらせば、未完の南池に使われる予定の庭石であった可能性が高いことになります。
「満済准后日記」の正長二年(1429)二月四日条によれば、六代将軍になったばかりの足利義教が鹿苑寺を訪れ、「徒二被積置」てあった大量の庭石を自身の御所である三条殿に移そうとして、幕府の護持僧にして後見人であった醍醐寺座主の満済に「凡父祖御執心之所ハ、木石以下不可被荒之條・・・」と諌められています。父祖(義満以来の歴代)が愛でた庭園を荒廃させてはならない、という意味であったようですが、同時にこの大量の庭石が本来使われるべき用途が認識されていたことをも伺わせます。
このことは、義満の跡をついだ四代将軍の足利義持が、北山殿縮小および鹿苑寺創建の件に関して庭園の南池はいずれ完成させるという認識にて満済と合意していた可能性が指摘されることとも関連がありそうです。
さらに応仁の乱の後の文明十六年(1484)に八代将軍の足利義政が鹿苑寺を訪れて金閣に登り、相国寺鹿苑院内の蔭涼軒主の亀泉集証(きせん しゅうしょう)の接待を受けた際に庭園の池や樹木に関して質疑応答を行なっていますが、その際にも南池をどうするかを話し合ったに違いありません。
結果的に、南池は現在まで未完のまま残されていますから、足利義政も先祖義満以来の池庭を維持するという基本認識を受け継いだことが伺えます。維持するだけで未完の南池を完成させるには至らなかったのは、義政が東山に御所を置いて新たに池庭(後の慈照寺庭園)を造営していた経緯によっても知られます。
なので、この南池跡は、足利義満の北山殿の純然たる遺構の一つとして重要な価値を持つものと分かります。未完のまま、足利歴代将軍がいずれも手を付けていなかったのですから、応仁文明の乱(1467~1477)の時期に西軍の陣場となって若干の防御用工事があったとはいえ、池本体はまったくの手つかずであったことになります。その当時の外観をいま見られるように修景復元しているのですから、金閣と同じぐらいの必見の価値があると思います。
南池跡と北の鏡湖池を隔てる一本の堤を見ました。北山殿の当時からこのようであったらしいのですが、足利義満が長く生きて南池も完成させたならば、この堤も除かれて北の池と繋がったのに違いありません。
そうなれば、いまの鏡湖池の景色よりももっと広い水面の拡がりのうえに、舎利殿金閣や天鏡閣などの建物が映りはえた見事な景観が出現していたのでしょう。現在の規模でさえ美しい景色として洛中第一の人気を集めている鹿苑寺庭園ですから、足利義満の企図した池庭の素晴らしさがそれ以上のものであったことだけは、容易に理解出来ます。 (続く)