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ゆるキャン△の聖地を行く25 その8  奈良田の鍵屋カフェと奈良法王神社

2022年12月22日 | ゆるキャン△

 11時37分、奈良田の鍵屋カフェに入りました。ここで軽食および休憩をとっておこうと考えたからです。
 アニメ劇中でも、各務原桜と志摩リンがこのカフェに入り、上図奥の囲炉裏の席に座りました。この日は既に先客が居たので、奥のテーブル席に案内されました。

 

 各務原桜と志摩リンがカフェにて過ごすシーンです。実際の室内と同じです。

 

 店内は広く、奥にもテーブル席が幾つかありましたが、この日は使われていないようでした。

 

 この日のメニューでした。目当ては各務原桜と志摩リンが食べていたアレでした。右のデザートの一番上に書かれてありました。

 

 テーブル席のメニューではこのようになっていました。ゆるキャンに出たメニューですね、と確認すると店員さんは「ハイ、さようです」と慣れたように答えてきました。やっぱり皆さんこれを注文されますかね、と訊ねると「ハイ、そうなんですよ」と笑っておられました。ゆるキャン人気で一躍、人気ナンバーワン、売上トップになっているそうです。

 

 10分ほどして運ばれてきました。室内の薄暗い奥のテーブル席にて撮ったため、ちょっと暗い写真になってしまいました。が、まさしく各務原桜と志摩リンが食べていたアレでした。

 

 アニメではこのような描写です。ケーキの銀紙が見えませんが省略されたのでしょうか、それとも銀紙無しの時があるのでしょうか。ともあれ、美味しくいただきました。結果的にこの日は午後も忙しく動き回っていて夜まで何も食べませんでしたから、このケーキが昼食でした。

 

 11時50分にカフェを辞して、遊歩道にて隣下の奈良法王神社の境内地へ降りました。その途中で見かけた上図の建物は、歴史民俗資料館のようでしたが、この日は閉まっていました。施設の前には、今上陛下が皇太子時代に訪れた記念に建てられた石碑がありました。

 

 奈良法王神社の社殿です。神社の建築としてはかなり変わった形式で、寺院の堂宇のような姿です。江戸期の建物であるそうなので、当時の神仏混交の様相をそのまま反映しているのでしょうか。

 

 案内文です。孝謙天皇を祭神として天平時代からの由緒を伝えるとしていますが、実際には江戸期になんらかの理由で形成された貴人伝承から発したもののようで、奈良法王神社自体も江戸期までの奈良田の古文書類には出ていない事が明らかです。

 奈良田地区の神社に関する最も古い記録である、江戸期の宝永二年(1705)の「奈良田村諸邑明細帳」には「山神、ほこら壱ケ所塩鴫に御座候面当村氏神に御座候」とあり、この「山神」に関して「甲斐国志」神社部の記載では「山祗社、早川ノ西塩島ニ在リ」となっています。現在も同地に鎮座する奈良田八幡宮にあたりますが、当時の記載では「若宮八幡」とも見えています。宝永二年(1705)の時点で奈良田に所在する神社はこの「山神」こと奈良田八幡宮だけであり、土地の人々が氏神として祀っていたことが分かります。奈良法王神社の名も孝謙天皇の伝承も一切出てきません。

 そのほぼ100年後の文化三年(1806)の「奈良田村諸邑明細帳」では、「山神」の他に「こくうそうのほこら」および「小祠」の存在が記載され、奈良田の神社は三社に増えています。「こくうそうのほこら」は現在の虚空蔵神社で、奈良田のかつての焼畑農業の守り神であったといいます。そして「小祠」というのが、いまの奈良法王神社にあたるようです。

 これらによって、宝永二年(1705)から文化三年(1806)までの間に「小祠」が創建されたことが分かります。前掲の案内文にて奈良法王神社の社殿を寛政元年(1789)の再建としていますが、江戸期の神社建築の造替が平均して約50年毎であったことをふまえますと、その50年前ぐらいに「小祠」が創建された可能性が考えられます。
 これは、奈良田における貴人伝説の発生が十八世紀代と考えられているのと符合しますので、いまの奈良法王神社および孝謙天皇伝承が天平時代からのものであるという話も、単なる言い伝えの類に過ぎないのだろうと思います。

 

 そもそも、孝謙天皇が奈良田にやってきたのであれば、いくらお忍びで行ったとしても天皇の動向ですから正史に記載しないわけにはゆきません。日本の律令制下の文書主義は本家の隋唐王朝よりも徹底していましたから、天皇の生活や行動は逐一記録されていた筈です。
 それらの要覧である「続日本紀」は普段の天皇の日常は省いて重要な出来事や変わった出来事や珍しい事態などにおける天皇以下朝廷百官の動きを列挙したものですから、仮に甲斐国の山奥への行幸などという滅多に無い珍事があったならば、絶対に記載されます。記載が無いのであれば、実際には孝謙天皇は奈良田へは行っていない、ということです。

 そもそも、江戸期になぜ当地に孝謙天皇にかかわる貴人伝承が生まれたのか、そのあたりの事情がよく分かりませんでした。郷土史家の調査資料によれば、奈良田の惣寺院であった外良寺の歴代の住僧が、江戸期には湯治地として知られていた当地の観光宣伝を担って色々な縁起や伝承の冊子を発行し配布してきた流れと無関係ではないだろう、ということですが、まあそういうことだろうな、と思います。

 

 ともあれ、なかなかに面白い所でした。11時55分に上図の観光駐車場に戻ってレンタカーに乗り、もと来た道を引き返して身延町へと戻りました。約1時間のドライブでした。

 ここまでが、早川町エリアでのゆるキャン聖地巡礼の顛末になります。この日の午後は、別エリアでの聖地巡礼コースに移ってハードなスケジュールであちこち回りましたので、早川町エリアでの巡礼レポートはここで完了として早川編として括りたいと思います。次回からは項を改めて綴ります。  (了)

 


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