気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く43 その10  伊香保温泉石段街めぐり

2024年12月13日 | ゆるキャン△

 伊香保温泉に着いて上図の石段街下のエリアに入り、上図右端にある休憩所へ寄ってお茶を飲み、携帯電話を取り出しました。かけた先は、大学時代の友人の番号でした。

 平成八年(1996)の夏、その友人に誘われて、彼の地元である碓氷郡松井田町へ行き、彼の実家が氏子になっている妙義神社に参拝し、横川駅、坂本宿の街並み、碓氷関所跡を回り、帰りに「峠の釜めし」も食べました。当時の彼の実家はJR信越線の西松井田駅の近くにあり、江戸期は安中藩の藩士だった歴史をもつ立派な古民家でした。

 その数年後に彼は結婚し、奥様の地元である渋川市に移住し、そのまま現在に至っています。私がゆるキャン群馬キャンプ編聖地巡礼を計画した際に、群馬県の公共交通事情について色々教えて貰おうと電話をかけたことで21年ぶりに交流が再開、前回の榛東村エリアおよびアプトの道への聖地巡礼、今回の榛名エリア、野反湖、そして伊香保温泉への聖地巡礼に関して色々なアドバイスをいただきました。あまり知らない群馬県の各地への旅がスムーズにいったのも、彼の数多くの教示によるところが大きかったです。古い友人は大切にしなければならない、とよく言われますが、本当にその通りだと改めて思います。

 その彼が電話に出たので、伊香保温泉に着いた旨を報告したら「うん、今日は下見だったっけ、泊まるのは明後日だったな」と応じてきました。今回の聖地巡礼で伊香保温泉にも行くことを伝えた際に「そんなら、伊香保に一泊していけよ、家内が伊東園ホテルに勤めてるんだ」と勧められたのでした。それで四泊五日の行程の四泊目を伊香保温泉にした次第でした。

「うん、予約はもうしてあるぞ、場所はな・・・いま石段街口のバス停に居るんだろ、そこから東の斜め向かいだ」
「ホテルの建物は、バス停から見えるのかね?」
「うん、バス停に向かって右側、橋から100メートルもいかない、そのへんで一番高い白いビルだ」

 それで上図の中央に見える白いビルが、明後日泊まる伊東園ホテル「とどろき」であることを確かめました。

 

「それで今日はどうするんだ、伊香保の街歩きかね」
「いや、街歩きは明後日にやるんで、今日は下見や。それと、伊香保神社にお参りしておこうかな、と」
「うん、聖地巡礼とやらの道中安全祈願だな」
「まあ、そういうとこやな」
「あと、歴史関係で見て欲しいのは関所跡だ、関所跡ぐらいは見ておけよ」
「関所?伊香保温泉に関所があったのか、なんで・・・」
「行けば分かるよ。バス停から石段登っていってすぐ右にある。当時の建物はもう無いけどさ、復元された番所がある」
「分かった」

 

 電話を終えて石段を登り始めました。一度振り返ってバス停の方向を見ました。上図の範囲は「石段アルウィン公園」および「だんだん広場」と呼ばれていて、石段の西側に簡易ステージのような施設があります。

 

 石段に関する説明板です。要約すれば、石段が設けられたのは戦国期の天正四年(1576)頃とされ、武田勝頼が長篠合戦の負傷者の治療のために伊香保の源泉を各浴舎に引湯する目的で配下の真田氏に造らせたものと言われます。

 真田氏に命じられた地元伊香保の郷士の木暮氏、千明氏、岸氏、大島氏、島田氏、望月(永井)氏、後閑氏の七氏が湯元から現在地に集落を移して石段街を作りました。湯元から温泉を引き、石段を作り、中央に湯桶を伏せて左右に流し、区画された屋敷に湯を分けるシステムを構築したのです。これが、日本で最初の温泉リゾート計画であったといいます。

 

 石段を登っていくとまもなく右手に上図の「伊香保口留番所」の門が見えました。ああ、Mが言ってた関所跡とはこれか、と気付きました。口留番所(くちどめばんしょ)とは、小規模な関所のことを言います。

 

 江戸時代、徳川幕府は江戸に繋がる各地の主要街道筋における軍事および警察上の必要から関所を設置し、主要政策としていわゆる「入鉄砲出女(いりてっぽうにでおんな)」を定めましたが、それとは別に諸藩でも同様に私的に口留番所を設けて「入鉄砲出女」のほか交通監視や犯罪防止、関税徴収を行なっていました。

 そしてここ伊香保の口留番所は、上図の復元建物の戸口に懸かる幔幕の徳川葵が示すように、幕府が設置した公的施設で、その目的は、幕府直轄の佐渡金山の金鉱石を運搬した三国街道の脇往還であった伊香保道の監視および警護でした。設置は寛永八年(1631)といい、明治二年の関所廃止令までの238年間にわたって「入鉄砲出女」も厳しく執り行いました。

 「入鉄砲出女(いりてっぽうにでおんな)」の「入鉄炮」とは「江戸に持ち込まれる鉄炮」、「出女」とは「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が江戸を脱出する」の意で、この二つを取り締まって江戸の治安維持を図ることを指しました。
 もし「入鉄炮」を許せば、江戸にて騒乱や戦争が起きかねません。「出女」を許せば、その大名家には謀反の疑い有り、ということになって下手すればこれも一大事になりかねません。とくに伊香保温泉は、江戸期には「子宝の湯」と喧伝(けんでん)されて有名で、女性の湯治客も多かったため、「出女」については特に厳重に取り締まったそうです。

 

 復元建物の横を通って反対側へ回ると、そこが西側の門の跡で、上図の説明板が立っていました。石段に面した門は、方角からみて東門、裏門にあたるようでした。

 

 当時の西門の礎石だけが、江戸期の口留番所の唯一の遺物として残されています。

 

 なので、上図の西門および番所の建物は近年に復元されたものです。江戸期の建物は間口五間、奥行三間の約15坪の藁葺屋根の建物であったそうですが、いまの復元建物はそれを忠実には表していないようで、屋根は板葺きになっています。保存維持上の観点からそうなったのでしょう。

 

 口留番所跡から石段に戻り、少し登ると右手に上図の祠が見えました。すぐ上の敷地に外湯施設のひとつ「石段の湯」があるので、おそらくはその「湯の神様」なのだろうと思いますが、地図でも現地でも「アヒル神社」と呼ばれます。

 ですが、なぜ「アヒル神社」と呼ばれるのかは不明であるようです。祠の屋根の上下に沢山のアヒルの人形が奉納というか、並べてあり、それに因む俗称なのかと思いましたが、ではなぜアヒルの人形が並べてあるのか、いつからアヒルの人形を並べるようになったのか、が分かりませんので、結局は何も分からない、ということになります。

 

 試しに扉の上半分に並ぶ丸い穴に目を近づけて中をのぞいてみましたが、何かを祀ってあるような感じはなく、真っ暗で何があるのかは分かりませんでした。ただ、その真下辺りで水の流れる音が響いていたので、おそらくは送湯施設があるのかもしれず、それに関連した祠形式の管理用扉であるのかもしれません。

 

 そして、しばらく見ていて気付いたのですが、屋根の破風の形の部分が、なんとなくアヒルの口に見えてくるのでした。それで「アヒル神社」の通称が付けられて広まったのかもしれないな、と思いました。

 この「アヒル神社」もゆるキャンの作中に登場しています。作中ではアヒルの人形がガアガア鳴いていますが、実際には鳴いていません。

 

 「アヒル神社」がある石垣の壇上には、上図の温泉施設「石段の湯」があります。伊香保温泉に二ヶ所ある外湯つまり共同浴場のひとつです。

 この「石段の湯」もゆるキャンの作中に「石畳の湯」の名で登場し、各務原なでしこ達が入浴しています。3人が榛東村のキャンプ場から伊香保温泉に立ち寄ったのも、この温泉に入るためであったようで、石段街の散策も一部にとどめて次の榛名山へ移動しています。

 

 玄関口横の利用案内板です。明後日の伊香保温泉街歩きの際に入浴する予定でしたので、料金と時間を見て、明後日が定休日にあたっていないことを確かめました。  (続く)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖護院2 聖護院門跡の宸殿か... | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ゆるキャン△」カテゴリの最新記事