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伏見城の面影29 泉涌寺法音院書院

2024年10月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 泉涌寺総門をくぐって100メートルほど進むと、右手に上図の塔頭の門が見えました。左脇の寺号碑に「法音院」と刻まれています。U氏が「ここだな」と言って門前に立ち止まり、右脇の説明板に視線を移しました。

 

 説明板です。一読してU氏は「うむ」と満足げに呟き、再度読み始めました。御覧のように「寛文五年幕府及び本多正貫・同夫人の支援を得」とあり、「書院は伏見桃山城の遺構の一部である」と明記されています。

 本多豊前守正貫は、徳川家康の参謀であった本多正信の一族で、正信の弟の正重の養子となって下総舟戸藩を継いだ人です。その後に減封となって旗本に転じ、幕府の書院番頭を勤めています。書院番頭は将軍の親衛隊である馬廻衆の頭であり、幕府の最高格式の職制のひとつです。

 この法音院は、その本多氏の菩提寺でもあり、もとは応仁の乱で焼けて廃寺になっていたのを、江戸幕府の支援によって現在地に移転し再興された歴史を持ちます。その書院が伏見桃山城の遺構の一部であるとされるのも、何らかの記録なり根拠なりが存在するのでしょう。

 

 説明板の隣にはカラーの境内図がありました。泉涌寺塔頭のひとつとして参詣客が訪れているためか、境内の各施設を分かりやすく示していました。目的の建物も「客殿 大書院」とありました。

 

 門をくぐって中に入ると、正面に庫裏玄関と受付があり、その右側に七福神の堂がありました。庫裏玄関から急ぎ足で出てきた住職に挨拶すると、これからお勤めだとかで自転車にまたがって出ていかれました。伏見城から移した書院建築を・・、とU氏が問いかけたのにも、「ああ、あの裏の建物ですんで、外から見るだけになりますんで」と左手でその方向を指し、「では」とサーッと門を出てゆかれました。

「お勤めって何だろう」
「塔頭の住職なら、本寺での諸々の奉仕作業があるやろうな、時間的には午前の勤行か読経かのタイミングやしな」
「なるほど、忙しいみたいだな・・・」

 

 とりあえず、住職に示された方向へ回り込んで、上図の書院の建物を見ました。

「お、まわりの建物とちょっと違うな。外観の設えとか屋根の意匠とか、それに古めかしくみえるな」
「せやね」
「寛文五年、だったか、その頃には伏見城はもう無くなってるな。解体された建材が再利用のために保管されていた段階になるな。それで幕府の支援があって、檀乙は将軍家直属の書院番頭の名門の本多氏であるわけだ。その本多氏が菩提寺にしてるんだから、それ相応の格式の建物を寄進した可能性がある。伏見城の遺構が再利用されたとしてもおかしくはない」
「春に行った養源院と同じケースやな。幕府の要人が関わってて、幕府の支援がついてる」
「そういうことだな」

 

 これで決まりだな、と言いつつ屋根の妻飾りと鬼瓦を見上げるU氏でした。建物の各部に移築の跡がみられ、部材のそれぞれも相当の風食がみられました。解体後もかなり長い間放置されていたような雰囲気でした。左右分割で二枚の部品から構成される妻飾りに、合わせ目の隙間が出ているのも、そんな感じでした。

 伏見城が廃城となって城割りや建物の解体が始まったのが元和六年(1620)からで、三年後の元和九年には「先年破壊残りの殿閣にいささか修飾して御座となす」とあって本丸御殿の一部がまだ残されていたものの、それも解体され、城跡は元禄年間に開墾されて桃の木が植えられたといいます。

 法音院の再建が寛文五年(1665)でありますので、伏見城の建材を再利用して書院を建てたのであれば、その建材は元和六年(1620)の廃城解体開始からすでに40年余りを経ていたことになります。いまの建物の部材にやつれや風食が見られるのも当然かもしれません。

 

 上図では下半分が隠れていますが、鬼瓦にある家紋は「本」と見えました。つまりは本多氏の家紋で、この建物がもとは本多氏の所有であったことが分かります。
 伏見城の廃城後のある時期に、その建物を本多氏が貰い受けて一時期は使用していたことを伺わせます。それを寛文五年(1665)の法音寺の再建に際して寄進し、本多氏の菩提寺の一施設として再利用した、という流れではなかったか、と推測します。

 

 妻飾り部分を拡大して撮影しました。装飾の彫物の部分がかなり風化しており、中央の合わせ目に残る釘穴から、何らかの形状の釘隠しが打たれていた痕跡がうかがえます。一般的な花紋であったのか、家紋をあしらったものであったかは分かりません。

 

 建物の主屋部分の外観はかなり改造されていますが、戸口の上に透かし窓を配置する点に御殿建築の面影がしのばれます。

 

 建物の向こう側は庭園に面しているようで、半分ほどが建て直されてガラス戸が追加されたようで、新しい感じになっていました。

 

 ですが、主屋の頭貫にあたる横長の一材をよく見ると、各所にほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡が見られて、もとは別の建材を横に付け直して転用した状況がうかがえます。
 ほぞ穴の位置から、もとは他の建物と繋ぐ廊下のような部分が接していた可能性が考えられますが、いずれにしても単独で建っていた施設ではなかっただろうと思います。

 

 屋根庇の内側の様子も、垂木だけが妙に古めかしいのでした。野地板は新たに張り替えられているようで、白っぽく見えました。こちらの頭貫にはほぞ穴やダボ穴、切り込みの痕跡がみえないので、屋根の妻飾りと同じように当初の建材がそのまま再利用されているのかもしれません。

 

 隅部を区切る尾垂木の伸びもしっかりしていて気品があります。先端断面に釘穴が見えますので、もとは金具か装飾具を取り付けていたものと思われます。
 全体的にみると、書院建築の典型的なタイプであるのは間違いなく、伏見城の御殿の建築群の一部であったとしても違和感はありません。規模が小さいので、繋ぎの施設か付け書院のタイプであったかもしれません。

 

 かくして20分ほどで書院の外観の観察を終えました。由緒といい、建物の様相といい、まず伏見城からの移築遺構であるとみて良いでしょう。
 それでU氏は大変にご機嫌でしたが、私も似たような気分であったのは自然なことでした。二人で書院に向かって一礼し、境内をあとにして門を出たのでした。

 泉涌寺塔頭法音院の公式サイトはこちら。  (続く)

 


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