2024年10月5日、水戸の友人U氏と4月に続いて四度目の旧伏見城移築建築巡りを楽しみました。いつものように前の晩に京都入りして祇園四条のカプセルホテルに泊まったU氏と祇園で待ち合わせ、市バス202系統に乗って上図の「泉涌寺道」バス停で降りました。
バス停の横の辻から東に進むと泉涌寺への参道であった緩やかな登り坂に入りました。
「この辺に来るのも久しぶりのことだな」とU氏が懐かしそうに景色を見回しつつ言いました。私も頷きました。
平成10年から13年までの三年間、この通りの北側の街中のアパートに住んでいた時期があったからです。U氏も三度ほど遊びに来て、泊まり込んでは京都社寺巡りを楽しんでいたものです。
しかし、二人とも、近くの名刹である泉涌寺には、一度しか行ったことがありませんでした。いつでも行ける距離にあったため、次に行こう、次の機会に寄ろう、と延ばし延ばしにしているうちに私が奈良市に戻ってしまい、それ以来20年ずっと泉涌寺界隈には寄る機会がありませんでした。
ですが、上図の泉涌寺総門と左脇の即成院の表門のたたずまいは、20年前のままでした。
ですが、U氏も私も、この泉涌寺総門から中へ入ったことは無いのでした。20年前も何度も前を通っていたのに、です。U氏はともかく、約100メートルほどの至近に住んでいた私ですら、不思議なことにこの門をくぐっていません。
泉涌寺には一度だけ行った、というのは正確には泉涌寺塔頭のひとつである上図の即成院(そくじょういん)に行ったことを指します。その即成院にも20年ぶりに入ることにしました。
「あー、あれも昔のままだなあ、門の上に鳳凰が載ってるって、京都広しと言えどもここだけだな」
「せやな」
門をくぐって右に曲がり、細長い境内地を進んで上図の本堂に向かいました。そのたたずまいも20年前と変わっていませんでした。
20年前にここを訪れたのは、本堂内陣の聖衆来迎像つまり木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像を拝観するためでした。藤原彫刻を学んでいた私としては、ここに現存する藤原期の十一躯の菩薩坐像を一度は実見しておく必要があったからです。
この藤原期の十一躯の菩薩坐像は、即成院を創建した橘俊綱が病を得て出家し、ほどなくして没した嘉保元年(1094年)頃の制作と推定され、橘俊綱が摂関家の藤原頼通の三男であったことと合わせ、当時の一流の仏師つまりは定朝一門の系譜に連なる仏師の作とされています。定朝様式を長く研究していた私にとっては重要な基準作例のひとつでした。
昔も今も、本堂内陣の仏像群は撮影禁止なので、外陣に貼ってあった上図のパネル写真だけを撮っておきました。
しかし、隣の上図のアニメシーンのパネルは初めて見ました。U氏が「何かのアニメになってるらしいが、知ってるか」と私を振り返りました。私も知らなかったので「さあ?」と返すにとどまりました。本堂の入口部分が影絵のようになっているだけで、外は架空の都会の景色になっています。
同じアングルで撮ってみました。毎年10月に催されるお練り供養行事の舞台廊下が設置されていました。U氏が「奈良の當麻寺を思い出すなあ」と言い、「その當麻寺のお練り供養の菩薩に扮するアルバイトを一度やったことがあるよ」と私が応じると、「それは最高の体験と違うかね」と言いました。
思い起こせば、最高どころか、不安と恐怖に包まれた供養行事でした。菩薩の衣装とお面を付けて左右に移動しつつ両手で持ち物を支えて回り歩くのでしたが、お面の目玉部分の小さな穴からしか外が見えず、視界が限られて周囲や足元の様子もよく見えないまま、高くて細い舞台廊下の上を進むのでした。怖いことこの上なしでしたから、次の年もバイトに来ないかと誘われて即座に辞退した記憶があります。
右手の建物は、たぶん本坊か庫裏だろうと思います。その奥の白い建物が地蔵堂だったかと思います。お練り供養の菩薩の行列は地蔵堂から発して本堂に至るものか、またはその逆かもしれませんが、とにかく舞台廊下は本堂から地蔵堂へと続いています。
即成院を辞して、隣の泉涌寺総門をくぐりました。くぐりながらU氏が「伏見城からの移築伝承の建物が泉涌寺にもあると聞いてびっくりしたんだが、何か謂れがあるのかね?」と訊いてきました。
私もその件は去年に知ったばかりで詳細を知らなかったので、「謂れがあるんやろうけど、とにかく現地へ行って関係者に話とか伺えたらええんやけどな・・・」と返しました。U氏は「なるほど」と言って頷きつつ、門内参道を歩き出しました。 (続く)