親戚のtakuちゃんが兄さんの所に行っていた黒い背表紙の母のノートを返しに来てくれました。 昭和55年2月25日から書き始めた日記の中に、過去の出来事を思い出すままに、所々入れているのです。 大正2年2月浅草で生まれ、のちに下谷区中根岸(今の上野辺り)で子供時代を過ごしたの母の遠い記憶。 大正、昭和、平成と生きた母。
久し振りにこのノートを読みかえしてみました。
拙いけれど、俳句や短歌もあります。親戚のtakuちゃんや私の生まれた日の前後も綴っています。
takuちゃんが生まれてその翌年亡くなったお母さんの話しも。
takuちゃんの兄さんやtakuちゃん、私にとってセピア色の懐かしい思い出。
内容としては私たちへの昔語りの遺言でもあるようです。
その中には今を生きる喜びと、老いることへの不安、悲しみも詰まっていました。
母のノートの中から
◇ 昔の思い出 (この中には母の記憶違いも有るかも)
9月といえば大正12年、11歳の時の(関東)大震災を思い出す。
安政の大地震から60年目だそうだ。60年後には死んだ方がいいと子供心に思った。
15歳の時、しょう紅熱で駒込病院に入院している時、大正天皇が亡くなられ昭和となった。
19歳の時、5月15日根岸のお祭りの夜。
提灯を持った巡査がたくさん出て、車やら色々の人をしらべていた。
それが515事件。犬養首相が殺された時だった。
父は私の22歳の12月に癌で死んだ。 天涯孤独となった。
空を仰ぎ星をみつめて、この広い世の中に私と同じ血が流れているものはいないのだと思うと涙が流れて泣いたこともあった。
24歳の時、育ての母(生みの母はすぐに亡くなって父が再婚した相手)と二人で淀橋に引っ越して来た。
その2月、よく雪が降った。
30センチ位積もっていた。26日。
226事件です。 ラジオから流れるニュース。
三宅坂方面に砲声が聞こえますと。
淀橋の変電所の廻りには憲兵が剣付鉄砲を持って2~3人づつ立っていた。
浜口首相が殺され渡辺教育総官も殺された。
そして満州事変が始まった。
昭和11年5月25日。
育ててくれた母を連れて本所のS(父のところ)へ嫁に来た。
その年の9月、その母が脳溢血で亡くなった。
昭和14年9月○日の朝早く、七郎さんが
「ああ、ぐんかんだ。ぐんかんだ。」
私たちが寝ている時に大きな声が階下で聞こえます。
「ぐんかんて何?」と聞いたら
「女の子が生まれたのだろう。」と主人が言いました。 それがtakuちゃんです。
(ちなみに私はその1ヶ月後に生まれました)
昭和19年夏、鬼怒川へと疎開した。 その時kako5歳でした。
毎日絵本を読まされたので、今でも忘れずに口ずさめます。
題はおたまじゃくし。(ぽっくりの挿絵があったそうです)
流れてきた下駄赤い下駄
大きな舟だよ さあのろう
のりたいけれどものられない
おたまじゃくしに 足がない
雨が上がった陽がさした
でんでん虫だよ おでかけだ
角をふりふり おでかけだ
(あとは忘れました。と書いてある。私の耳には今でもリズムを
つけて歌うように読んでくれた母の声が聞こえて来ます。)
◇ 日記から
63年5月
歳を取るほど愛情にささえられていく。たとへ小さな一言でも愛があれば
生きるよろこびを感じる。
もし(父が亡くなって母が)一人になった時、を心配してくれるお父さんだが、
なる様にしかならない。 今から考えても無駄です。
月日が流れるように人の世も考えも変わるものです。
その時は私がえらんだ道をゆくしかない。
そして楽しかった旅の思い出を懐かしく夢にみる事でしょう。
(この年、母75歳、父89歳)
63年10月
kakoの誕生日だけど、いるかしらと思って電話したがいなかった。
今年は特に雨が多くて寂しい日が続く。
窓からなつかしいにほいが流れてくる。
外を通れば姿は見えないがいいにほいがする。
秋だなあと思うこのにほい。金木犀の香りです。
この香りをなつかしいと思うのは市川の家にあったので、その頃が思いだされるから。
kakoが4歳くらいで、katuは市川の家で生まれた。若かったなあと思う。
それから荒川の工場に引越し、戦争が激しくなり、工場が全焼し、そして終わり、物がなくて困った時代があった。
終戦の翌年生まれたmotoがもう41歳になる。
40年を過ぎた今は、物は出回り人はぜいたくざんまいに暮らす時代で、戦争を
味わった人々には一寸考えられないほど、次々に買っては捨ててゆく。
私はケチなのかしら。 でも物を上げることは好きだけれど、捨てることは中々しない古い人間だと思う。
◇ 母の俳句と和歌
あじさいの ぬれて色ます 散歩道
明日へわく 希望の如く 積乱雲
ころころと ころぶ枯れ葉に 衿ただす
寒がらす アホウと言われ ふりかえり
(高幡不動へ初詣に行って2句)
息白し 足ふみ踏まれ 初不動
何気なく よそほいて見る 初鏡
山の湯と 紅葉にひたり 二人旅
木犀の 香りにつられ 路えらび
立ちどまり 春告げ鳥の 声をきき
紅梅に 夢をたくして 結び文
今は亡き 父を思へば なつかしい
根岸の里の 江戸の気風が
ノートの記述は平成元年、父が脳梗塞で亡くなった日の27日前で終わっていました。
その後母は13年間生きたけれど、続きは書かなかったようです。
ただ、俳句や和歌は詠み続けました。
◇ 父が脳梗塞で入院中の母の歌
行く末を案じる如く夫の目が
じっとみつめて閉じるむなしさ
再びはかへれぬ夫と思えども
にぎりかへせしぬくもりの手よ
◇ 父が亡くなってから
ひとすじの涙の糸の冷たさを
ふくこともなく遺影みつめる
声出して言わねどいつか二人して
花咲く路を歩く日もあり
山百合の楚々たる姿みるにつけ
夫と歩きしあの山のみち
そばにいてほしきと思うその人は
遠い旅路のうしろ姿よ
余韻引く鈴に心があるならば
伝えてほしいこの淋しさを
◇ 少し立ち直ってから
老いたりと いえど鏡の 顔は春
久し振りにこのノートを読みかえしてみました。
拙いけれど、俳句や短歌もあります。親戚のtakuちゃんや私の生まれた日の前後も綴っています。
takuちゃんが生まれてその翌年亡くなったお母さんの話しも。
takuちゃんの兄さんやtakuちゃん、私にとってセピア色の懐かしい思い出。
内容としては私たちへの昔語りの遺言でもあるようです。
その中には今を生きる喜びと、老いることへの不安、悲しみも詰まっていました。
母のノートの中から
◇ 昔の思い出 (この中には母の記憶違いも有るかも)
9月といえば大正12年、11歳の時の(関東)大震災を思い出す。
安政の大地震から60年目だそうだ。60年後には死んだ方がいいと子供心に思った。
15歳の時、しょう紅熱で駒込病院に入院している時、大正天皇が亡くなられ昭和となった。
19歳の時、5月15日根岸のお祭りの夜。
提灯を持った巡査がたくさん出て、車やら色々の人をしらべていた。
それが515事件。犬養首相が殺された時だった。
父は私の22歳の12月に癌で死んだ。 天涯孤独となった。
空を仰ぎ星をみつめて、この広い世の中に私と同じ血が流れているものはいないのだと思うと涙が流れて泣いたこともあった。
24歳の時、育ての母(生みの母はすぐに亡くなって父が再婚した相手)と二人で淀橋に引っ越して来た。
その2月、よく雪が降った。
30センチ位積もっていた。26日。
226事件です。 ラジオから流れるニュース。
三宅坂方面に砲声が聞こえますと。
淀橋の変電所の廻りには憲兵が剣付鉄砲を持って2~3人づつ立っていた。
浜口首相が殺され渡辺教育総官も殺された。
そして満州事変が始まった。
昭和11年5月25日。
育ててくれた母を連れて本所のS(父のところ)へ嫁に来た。
その年の9月、その母が脳溢血で亡くなった。
昭和14年9月○日の朝早く、七郎さんが
「ああ、ぐんかんだ。ぐんかんだ。」
私たちが寝ている時に大きな声が階下で聞こえます。
「ぐんかんて何?」と聞いたら
「女の子が生まれたのだろう。」と主人が言いました。 それがtakuちゃんです。
(ちなみに私はその1ヶ月後に生まれました)
昭和19年夏、鬼怒川へと疎開した。 その時kako5歳でした。
毎日絵本を読まされたので、今でも忘れずに口ずさめます。
題はおたまじゃくし。(ぽっくりの挿絵があったそうです)
流れてきた下駄赤い下駄
大きな舟だよ さあのろう
のりたいけれどものられない
おたまじゃくしに 足がない
雨が上がった陽がさした
でんでん虫だよ おでかけだ
角をふりふり おでかけだ
(あとは忘れました。と書いてある。私の耳には今でもリズムを
つけて歌うように読んでくれた母の声が聞こえて来ます。)
◇ 日記から
63年5月
歳を取るほど愛情にささえられていく。たとへ小さな一言でも愛があれば
生きるよろこびを感じる。
もし(父が亡くなって母が)一人になった時、を心配してくれるお父さんだが、
なる様にしかならない。 今から考えても無駄です。
月日が流れるように人の世も考えも変わるものです。
その時は私がえらんだ道をゆくしかない。
そして楽しかった旅の思い出を懐かしく夢にみる事でしょう。
(この年、母75歳、父89歳)
63年10月
kakoの誕生日だけど、いるかしらと思って電話したがいなかった。
今年は特に雨が多くて寂しい日が続く。
窓からなつかしいにほいが流れてくる。
外を通れば姿は見えないがいいにほいがする。
秋だなあと思うこのにほい。金木犀の香りです。
この香りをなつかしいと思うのは市川の家にあったので、その頃が思いだされるから。
kakoが4歳くらいで、katuは市川の家で生まれた。若かったなあと思う。
それから荒川の工場に引越し、戦争が激しくなり、工場が全焼し、そして終わり、物がなくて困った時代があった。
終戦の翌年生まれたmotoがもう41歳になる。
40年を過ぎた今は、物は出回り人はぜいたくざんまいに暮らす時代で、戦争を
味わった人々には一寸考えられないほど、次々に買っては捨ててゆく。
私はケチなのかしら。 でも物を上げることは好きだけれど、捨てることは中々しない古い人間だと思う。
◇ 母の俳句と和歌
あじさいの ぬれて色ます 散歩道
明日へわく 希望の如く 積乱雲
ころころと ころぶ枯れ葉に 衿ただす
寒がらす アホウと言われ ふりかえり
(高幡不動へ初詣に行って2句)
息白し 足ふみ踏まれ 初不動
何気なく よそほいて見る 初鏡
山の湯と 紅葉にひたり 二人旅
木犀の 香りにつられ 路えらび
立ちどまり 春告げ鳥の 声をきき
紅梅に 夢をたくして 結び文
今は亡き 父を思へば なつかしい
根岸の里の 江戸の気風が
ノートの記述は平成元年、父が脳梗塞で亡くなった日の27日前で終わっていました。
その後母は13年間生きたけれど、続きは書かなかったようです。
ただ、俳句や和歌は詠み続けました。
◇ 父が脳梗塞で入院中の母の歌
行く末を案じる如く夫の目が
じっとみつめて閉じるむなしさ
再びはかへれぬ夫と思えども
にぎりかへせしぬくもりの手よ
◇ 父が亡くなってから
ひとすじの涙の糸の冷たさを
ふくこともなく遺影みつめる
声出して言わねどいつか二人して
花咲く路を歩く日もあり
山百合の楚々たる姿みるにつけ
夫と歩きしあの山のみち
そばにいてほしきと思うその人は
遠い旅路のうしろ姿よ
余韻引く鈴に心があるならば
伝えてほしいこの淋しさを
◇ 少し立ち直ってから
老いたりと いえど鏡の 顔は春
自分の行く道のわからない今、これからやって来る現実をどのように感じ見つめながら老いていくのでしょう?私は随分前から、老いていく自分を考えています。(娘を持たない寂しさから)でも今貴女のお母様の日記・俳句を読ませて頂き、いつの時代も、老いる寂しさは同じなのだと思いながら、申し訳なさと誰もがその年にならないと分からない事への辛さを感じています。でも貴女が今このように思い出しながら書き綴った事、天国のお母様喜んでいらっしゃる事でしょう。お蔭様で私も母の事思い出してます。ありがとう。でもやっぱり寂しいです。
自分がいかに鈍感で軽薄な娘だったかと、母のノートを見るにつけ、申し訳なさで一杯になります。でも、多分母が生きていたら、未だに分からなかったのではないかとも思います。亡くなって初めて父と母の両方の思いを受け取ることが出来たような気がします。
近過ぎる身内であるが故に、(見たくない、知りたくない、知ったら重過ぎて辛すぎる)という我儘が壁をこしらえていたのでしょう。今になってやっとストレートに近づけるようになりました。老いてゆく自分に対する冷え冷えとした恐怖と、次の日の楽天的な自分と、どう折り合いつけて暮らしていくことになるのでしょうね。