関東暮らし

関西人から見た関東暮らしの出来事を記す

亀嵩・奥出雲

2017年01月10日 | 日記

かつてこの場所で死んだ馬を弔う墓(亀嵩・谷奥)

8月11日(木)は1年ぶりに亀嵩へ帰省。


(玉峰山)

K葉嬢が同行してくれた。現地でA兄夫妻と合流。
翌日は墓掃除。



(崖の上にある墓所への道が改修され、安全に登れるようになった)


その後、阿井の親戚をたずね、西宮へ帰還。


(玉峰山荘に飾られている書:古井玉峰書)


(岡山・蒜山から見る大山)

2017年01月10日 | 日記


8月10日(水) 西宮へ帰宅し、樟葉へ移動、
初めてK樹と対面した。
誕生して10日あまり、あまりにも小さく、それだけで可愛い孫だ。

原発被害に完全賠償を 熊本地震被災に厚い支援を

2016年10月16日 | 日記

(目白の空 8月1日)


(目白の空 8月2日)

8月4日(木)
午後から国会内で行われた「福島原発事故の営業損害賠償問題での交渉に参加した。
福島から被害者のみなさんが参加し、
資源エネルギー庁、東京電力本店の担当者と1時間半にわたる話し合い。
しかし、答弁に前進は見られず、原発賠償打ち切りの姿勢だけが浮き彫りになり、
更なる怒りが広がっている。


(ビル越しに熊本城)

8月6日(土)
事務所当番をN山さんに代わってもらい、午後の飛行機で熊本へ向かった。
羽田から福岡へ行き、そこでレンタカーを借りて、陸路熊本市へと向かった。
折からの大雨だったが、筑紫野から鳥栖をへて、
肥後の国への道のりを体験しながらの移動であった。


(ビル越しに熊本城・夜)

翌8月7日(日)
営業再建への補助金獲得にむけた学習会に参加。
先の東日本大震災時の経験を、岩手・一関民商の事務局長から学んだ。
その日の内に帰京。


浅草六区のJAZZバー、熱海へも

2016年10月16日 | 日記

(新橋駅前で)

7月19日(火)定例の胃カメラ検診。夜は都知事選挙の決起集会に参加。
浅草公会堂に初めて行った。
 終了後、K分さんに連れられて浅草六区にあるJAZZバーへ。
7月21日(木)は国民大運動実行委員会による経済産業省(中小企業庁)交渉に参加。
今まで通り若い係長達だったが、今年は7人中4人が女性だった。
7月22日(金)金融問題の学習会(国会内)に参加。その後、新橋駅前で宣伝行動
7月23日(土)中野民商に活動応援
7月25日(月)消費税廃止各界連絡会の宣伝行動で新宿駅東口
7月26日(火)から3日間、全国事務局員交流会で事務所のほぼ全員が出張。
私は留守番として、事務所に出勤
7月27日(水)日比谷野外音楽堂の集会に参加。その後、国会議員訪問


(7月29日 目白の空)

7月30日(土)日本国民救援会の大会が熱海で行われ、そこに出席した。
倉敷民商の3人の事務局員が不当に逮捕・起訴された事件についても、
国民救援会として支援がされており、
その夜に開かれた「倉敷裁判交流会」で発言し、更なる支援を訴えた。
会場には兵庫からの参加者など懐かしい方々とも会うことができた。
京都・山科のT中さんとも会えた。

また、大会には「袴田事件」や「東住吉事件」
「名張毒ぶどう酒事件」「布川事件」などの冤罪事件の
当事者のみなさんの訴えを直接聞くことができた。
警察権力の恐ろしさと厳しいたたかいを乗り越えた運動の力を改めて感じた。

この日の夜、「無事に生まれた」との連絡有。これで私もおじいさんになった。

義父・叔母の訃報、参議院選挙、電源・・・

2016年09月19日 | 日記

(滋賀・菩提寺PA)

7月7日(木)西宮に帰宅したところへ、高崎に住む義父の訃報が飛び込んだ。
2日に倒れ意識不明で入院したままであった。
90歳の大往生だった。
前日にF子が日帰りで見舞いに行き、声をかけれたのが幸いだった。

7月8日(金)は、事務所に休暇をもらい、F子・N哉と3人で高崎へ車移動。
翌9日の葬儀に出席、10日には再び西宮へ帰り、
そのまま新幹線で上京するという強行軍の3日間となった。

7月10日(日)参院選投開票日
 予想を超える自公・お維新等という
 「改憲派」の3分の2の議席占有の事実にしばし唖然。
 一方で「野党共闘」11の1人区勝利に救いが見えた。
 しかし「野党共闘ができていなかったら」と考えるとなお慄然。
 要求にもとづく共同の市民運動と政策の一致を追求するしかない。
 長い間考えてきた統一戦線の実現は、これから紆余曲折を経ながら具体的過程に入る。

7月15日(金)は再び倉敷民商弾圧事件での最高裁要請
7月16日(土)午前中は事務所周りの草刈作業。その後新幹線で帰宅

7月17日(日)は、S穂嬢と食事。
ますます腹が大きくなった。いよいよだ。

午後、京都・西京の桂坂へ、
 7月3日亡くなり、5日に葬儀があった叔母の家に線香をあげに訪問。
 思えば50年以上前、おそらく1960年ごろだろう。
 私は4歳だったか? 私の母の弟にあたる叔父の祝言が、
 奥出雲の阿井・内谷で行われた。その時の写真があるはずだ。
 山間を縫うように走るバスに乗って母に連れられて行ったが、
 その時の花嫁がまさに亡くなった叔母である。
 打掛と角隠しだった。A兄もそこにいた。

7月18日(月)は休日(海の日)だったので自宅の
近所をN哉君といっしょにウォーキング。
 その後上京したのだが、東京のアパートに帰ってみると、
 TVが点いていた。間違いなく消して出たはずである。
 この間3回目の出来事。
 前2回は、「いよいよ儂もボケたな」と考えたが、そうではなかった。
 その後、何度か実験してみてわかった。
 TV受像機そのものがこわれ、
 電源がつながっていると勝手にスイッチが入るようになっていたのだ。
 購入7年も経つのだから耐用年数超過と言えば仕方がない。
 アパートを出るときには電源を抜くことにした。