関東暮らし

関西人から見た関東暮らしの出来事を記す

「民主主義ってなんだ」・・・「これだ」

2015年10月17日 | 日記

〈国会正門前を埋めつくす参加者9・14〉

9月14日(月)は午後から国会正門前での行動の司会を受け持つことになった。
15:00からと16:30からの2回の司会をつとめた。
次々に膨れ上がる参加者を前に、
若干の緊張をしながら駆けつける国会議員や各団体の連帯あいさつを紹介。
「ただちに廃案」などのコールの紹介などをおこなった。

〈集会に参加した大江健三郎氏…若者の行動に未来への希望を〉


そのまま、夜の集会まで参加し、
8時をまわってのシールズの行動にも参加。
若い人たちの「アベは、やめろ」や
「民主主義ってなんだ」「これだ」といったコールをたっぷり聞き、
一緒に声を上げ、帰りは10時を回っていた。
8月30日につづき、この日も正門前の道路はいつのまにか柵が決壊し、
警察の機動車両で固めたにもかかわらず人波でうずまった。
参加は5万人以上だった。

〈兵馬俑のように市民を監視する警察〉


〈決壊した鉄柵と議事堂〉


9月15日(火)は、静岡から神奈川を回ってきた宣伝カーが帰り、
池袋の駅前でキャラバン行動の最後の宣伝が行われ参加した。
夜は国会の図書館前に集合し、この日も10:00頃までであった。
国会情勢はいよいよ緊迫しているが、野党の結束は強まっているようだ。
これだけ多くの人々が毎日国会の周りに集まって
監視しているという状況がそうさせているのだろう。

9月16日(水)は早朝から国会へ出向き、
事務所へ帰ってその報告をしたのち、
再び国会前昼休み行動に参加。
その後院内で行われた「共通番号(マイナンバー)制度に反対する集会」に参加し、
夜まで行動した。

9月17日(木)午後から国会正門前行動に参加。
この日は警察の機動車両の並びが厳しくなり
、人が入れる隙間がなくなった。
特別委員会強行「採決」。

9月18日(金)本会議採決に反対する
「総がかり行動実行委員会」の夜集会には
またしても5万人以上が参加。

9月19日(土)未明(2:00過ぎ)参議院本会議での採決が強行された。
昼には憲法を守る共同センター主催の新宿駅西口での抗議の宣伝に参加し、
宣伝カーの上から訴えた。
その後西宮へ。

宣伝キャラバンで美濃から駿河へ

2015年10月17日 | 日記

〈岐阜・金華山〉

9月10日(木)も朝から国会。
署名提出集会には全国から多くの人が参加した。
9月12日(土)は宣伝キャラバン行動で岐阜へ。
名古屋で新幹線から乗り換えJR大垣駅には1時ころ到着した。


大垣駅前で宣伝カーと合流し、岐阜市内でも宣伝。
地元の人たちが集まって「戦争法」反対を訴えた。
その日は名古屋の金山で泊


〈大須観音〉

9月13日(日)は、午前中に名古屋市内で二か所の宣伝行動。
大須観音前での宣伝では、外国客がバスから降りてきて、
商店街の買い物に流れていくなど、
にぎやかなところでの宣伝となった。


〈大須商店街〉

「やっぱり戦争はイカン」と話しかけてきたおじさんや
「日本も武器つくったら儲かる。でも戦争になったらアカン」
という人も近づいてきた。
沢山の人が「戦争法案」の行方に関心を高め、
自分なりの考えを表明したいという世情になってきたのだ。

大須という地名は「1952年の『大須事件』の知識と
全国でもめずらしい商店街再生が成功した地域」ということへの関心で、
前から興味があったが、現地に行くことができたのは幸いだった。
宣伝は、婦人部の皆さんが大奮闘で、
それぞれ自分の言葉で「平和の大切さ」と「戦争法廃案」を訴えていた。


名古屋からは伊勢湾道・東名高速を乗り継ぎ、
午後4時半からの静岡市内での宣伝に移動した。
静岡インターで降りてから、
登呂遺跡前を通り静岡城址をぐるりとめぐってから、
呉服町の繁華街で地元の方々と合流。


約30人ほどの参加で宣伝。
その後、私は車を降りて新幹線で上京した。
こうした活動が、
戦争法に反対する世論をさらに高めてくれればよいのだが・・・。

「戦争法案」反対の日々、その2。商工交流会、訃報も

2015年10月17日 | 日記

〈日弁連・学者の会集会:日比谷野外音楽堂9・26〉

8月24日(月)新宿駅西口での街頭宣伝。
8月25日(火)は、「戦争法反対総がかり行動」の宣伝
を新宿駅東口で行い、司会を承った。その後、江古田へ
8月26日(水)「マイナンバー制度反対」の連絡会結成総会に参加・発言。
その後、日比谷野音で行われた日本弁護士連合会主催の集会に参加。
この日は各地で生まれている
「安保法制に反対する学者の会」の国会行動とも合流し、
弁護士が掲げる「正義」と
学者が探究する「真理」の立場からも
戦争法は許せないという集会となった。

〈国会への請願行動〉

学者の会で上京していたI川教授と一杯の夜となった。
8月27日(木)も国会内集会、夜は国会前行動に参加。

8月30日(日)は、戦争法に反対する運動の最大の行動となった。
「国会10万人包囲、全国100万人行動」に参加した。
立錐の余地なしとはこのことだった。
次から次に詰めかける市民の波は、国会を取り囲み、
正門前は正面も南側も車道に人があふれ、
さらに官庁街である霞が関方面も
日比谷公園から付近の歩道すべてが人波で埋まった。
主催者発表は12万人。
全国では1300か所以上で行動や集会が行われたと発表された。
警察発表は35000人だったが、
これは途中でカウントを止めたものでしかなく、
しかも正門前の人波みだけが対象であったということであり、
事実を捻じ曲げる「報道」でしかなかった。
図書館前でN間さんのご両親に遭遇。18年ぶりだった。

9月2日(水)この日も朝から国会へ。
いったん事務所に帰り事務局会議で情勢報告をしたのち、
再度国会前で国民大運動の昼休み集会に参加し、
この日は司会を承った。
その後院内で中央社会保障推進協議会の会議に参加。
マイナンバー問題についてのミニ報告をすることとなった。

9月4日(金)2年に一度の
中小商工業全国交流・研究集会(商工交流会)が
神戸で行われるため、朝から神戸へ移動し、
新神戸駅前にある神戸芸術劇場で、前日の準備作業。
その夜は神戸駅前のチサンホテルに宿泊。
9月5日(土)正午開会で第19回商工交流会がはじまった。
翌6日(日)は分科会。会場を兵庫県立大学に移し、
15の分科会で交流。
私は「異業種交流とニュービジネス」分科会の
座長となって県立大の佐竹教授とともに運営にあたった。
午後3時半すぎに終了。
折からの雨の中を地元の皆さんとともに後片づけ。
その後県連まとめ会議に出席。
新幹線で上京したがアパートに着いたのは0:30であった。

9月8日(火)「戦争法」反対新宿駅西口宣伝

9月9日(水)突然叔母さんの訃報がとどいた。
これで父親の兄弟はすべていなくなった。
やさしい美しい叔母さんだった。
残念ながら葬儀には行けず兄に電話をした


「戦争法案」反対の日々

2015年10月17日 | 日記

〈都賀川から摩耶山を望む・灘区〉

8月18日(火)盆が終わるとともに、再び「戦争法案」反対の行動の毎日であった。
この日は新宿駅東口での宣伝。
7月の衆議院強行採決以後、市民の怒りはさらに高まっている。
すごい反応だ。
歌舞伎町に向かう若い人たちや
「・・・・」と呼ばれる客引きのお兄さんの中からも、
演説に注目したり話しかけてくる人が増えてきた。

8月19日(水)は朝から国会へ。
その後昼集会をへて、
午後は経済産業省・省エネルギー庁との原発賠償問題での交渉に参加。

8月22日(土)兵庫に帰り、吉田病院に入院している役員のM上さんを見舞った。
頭部を打撲しての負傷だったようだが、
思いのほか元気で、話も普通にできたので少し安心した。
灘区の会長の店にも顔を出し、帰宅した。

墓参り

2015年10月17日 | 日記
奥出雲町 斐伊川


8月14日(金)朝からS穂嬢と合流し、3人で奥出雲町をめざして西宮を出発した。
途中から電話をいれてそのまま阿井の親せき宅へ直行。

3月に亡くなった伯母の墓参りに連れて行ってもらった。
奥出雲町・三沢という山間の小さな町並みを見下ろす蔭涼寺の裏山にその墓はあった。
真新しいその墓石には「蘭香院華園妙空太姉」の戒名。
「行年九十五才」であた。
その隣には「昭和二十年四月二十四日 於ルソン島戦死」「海軍少尉」
と刻まれた夫の墓石が並んでいた。


戦後70年、彼女にとっては25歳から95歳までの、
結婚してすぐ戦争暴力で夫を奪われた未亡人としての70年。
力強く生き抜いた70年だったと思う。
私にとっては、母の姉、父の学友、会えば大きな声で励ましてくれてきた伯母だった。
葬儀には参列できなかったが、心の引っ掛かりが少しとれた墓参となった。

それにしても、もっと話を聞いておけばよかった。
時は「戦争法案」反対の大世論が巻き起こっている。
憲法は、先の大戦の惨禍、
犠牲者・遺族の悲しみを繰り返さない立場でつくられたのだから、
その声を引き継いでいくことが「反動」を止める力なのだと思うだけに・・・。

その日の夜は、いつもの亀嵩温泉で風呂に入り古い家で就寝。


8月15日(土)朝から近くの親せきを訪問し、
ここでも最近亡くなった義理の伯父の位牌に線香をあげてきた。

玉峰山にある雄滝を見に行った。
 

子どもの頃の遊び場だった。
沢ぞいに登って行っていたら岩の下に蛇がいた。
女房殿が発見して大騒ぎ。
よく見たらマムシ(蝮)だった。
あわてて川岸に避難。滝壺をめざした。

〈岩の下にひそむ蝮君〉


近所の幼友達宅には、先日の同窓会と記念誌へのお礼のあいさつも行い、
午後3時ころ西宮に向けて帰路に着いた。

〈夙川で遊ぶ麦わら帽子の少年〉

8月16日(日)は、16年間・16万キロを走破した愛車F号
の後継車を探しに車屋さんで話を聞き、その後上京。

東京のアパートに帰ったら、とある人からの「暑中見舞い」が着いていた。