〈あの日から一本の電車も通らない常磐線:浪江町〉
5月18日(月)福島の被災地調査に参加してきた。
避難区域になっている浪江町に入り、
福島第一原発に5kmの地点まで行った。
南相馬市から国道6号線で南下したが、
原発に近いところでは、駐停車禁止、そして車の窓は締め切り、
スピードも必要以上に落としてはいけない、などの規制があるのだそうだ。
浪江町に入ると海沿いの地域は、5年目にもなるのに、
ようやくガレキ処理ができたころ、まだ解体もされない建物が多く残っていた。
その一つでもある請戸地区の請戸小学校の跡には、建物の中まで入ることができた。
〈請戸小学校跡〉
学校は、鉄筋コンクリート造りの堅牢なものだが、
三階まで津波をかぶり、その時のままのすがたで残されていた。
当時の生徒と先生たちはいち早く1キロ以上も先の高台(城跡)へ避難したので、
全員無事だったとのことだが、
講堂には準備が終わったばかりの卒業式の看板がそのまま吊るしてあり、
一方床は落ち込んで朽ち果てていた。
〈教室の黒板には、支援の人たちがメッセージを〉
〈時計台は、津波の到来時刻をさしたままだった〉
そんな事態になったのは、すべて原発事故・放射能汚染が原因ということが、
悲しく腹立たしい現実なのだ。
浪江町の市街地も商店街には人影はない。
町役場も日中のみ職員が出勤し仕事をしている。
町役場にしては堅牢壮大な建物だと感心したが、
かつての「原発マネー」のなせる技だったそうだ。
原発は、何を犠牲にして大手を振って進出したのか、
「安全神話」で事故を招き、何を犠牲にしたのかが、よくわかる光景だった。
肉眼で見えるギリギリの場所で車を降りて、第一原発を目視した。
〈中央の山の向こうに白い建物と塔が見える〉
〈写真↓ 福島市から浪江町へ向かう途中の飯館村も住民は避難:除染の残土が積み上げられている〉
〈写真↓ 南相馬市の小高町にある鈴木安蔵(「憲法草案要綱」を提案)の生家に立ち寄った〉
5月21日(木)国会前で、戦争法案反対を呼びかける集会に参加。
そこでのシュプレヒコールの一節に共感した
→「戦争下請け絶対反対!」