関東暮らし

関西人から見た関東暮らしの出来事を記す

町工場マイスター、通夜、アラン君に60周年、そしてまた葬儀

2011年11月29日 | 日記
11月23日(水)大田区蒲田方面の会員訪問の機会があった。
ものづくり・町工場のまち=蒲田は、これで2回目の訪問だったが、
今回も、すばらしい職人さんに出会えた。
旋盤など工作機械を丸ごと修理してしまうのだ。
ちょうど地震・津波の被害があった福島県からの依頼品が2台、
新品のように直って納品を待っていた。
欠けた部品もすべて自分で作ってしまうそうだ。
いやはや大したものだ。
この人は都のマイスターにも登録され最高級の技を認定されている。
ただし、修理した機械は、発注元の工場からの引き取りのめどが立っておらず、
代金がいつ入るか分からないとのことで、まだお金にはなっていない。
こうしたところにも、大震災や原発事故、そして不況の影響が影を落としている。

11月24日(木)東京の夕焼けは見事だった(写真)


この日は、35年間も紙面で短歌の選評をしてもらっていた方が急に亡くなられ、
神奈川の藤沢方面の通夜に行ってきた。
読経を聞き焼香をするのだが、席から立つときに荷物も持っていき、席にかえらず、
そのまま場外に出て「お清め」と称する食事会場に導かれる仕組みになっていた。
関西では、席にもどり最後まで参列し、
遺族のあいさつや浄土真宗などでは「説教」も聞くのだが、なにもなかった。
遠方でもあったので、食事は辞退してそのまま帰ってきた。

写真は、藤沢市・辻堂駅前のイルミネーション


11月25日(金)は、某印刷会社の株主総会に出席
関西方面の印刷会社U田常務も参加しており、
久しぶりに会ったのを幸いに有楽町で一杯となった。
わいわいやっていたら、隣の席にきれいなお姉さんと外国のお兄さんの二人連れが座り、
我々の関西弁を聞いて「面白い人たち」などと言っているのが聞こえたので、
U田さんが声をかけてしまった。
アランなんとかという名前で、フランスから5年前に来日し、
今はローカルTVのレポーターをしているという。
流暢な日本語なので、それから大いに盛り上がってしまった。
アラン・ドロンがどうしたとか、
ミネラルウォーターの名所ボルヴィックの近くで産まれたとかどうとか、
大いに語り合った。
U田さんの最終のぞみ号に合わせて退散したが、愉快な出会いだった。
それから事務所まで帰って自転車に乗ろうとしていたら、
電話が一本。別口のお誘いであった。これを土壺というのだろうか。

26日(土)は終日会議。
翌日の記念集会に参加する兵庫の皆さんが夕方来たので、
これまた久しぶりに楽しいひと時をすごした。

27日(日)は60周年記念集会や式典など。
たくさんの人に再会。新聞でおせわになったA圭史さんや
I田○○局長にもごあいさつ。
樽酒を呑んだので早めに酔って、早めに帰った。
手がけた写真展もなんとか好評だったようで、
何とか一安心。また一区切りついた。
明日は、前会長の告別式に行かねばならない。

《早々に自滅のジャイアン?》

2011年11月29日 | コラム
#70=3001
2011年11月28日付
《早々に自滅のジャイアン?》
 プロ野球日本シリーズは、セリーグの覇者ドラゴンズとの接戦を制したパリーグのホークスの勝利で終わりました▼ペナントレースで全球団に勝ち越し、過去4度リーグで1位になりながら日本シリーズに出場できなかった雪辱を果たした実力は、「完全勝利」にふさわしいものでした。秋山監督は、勝利インタビューで東日本大震災にも言及し、全力発揮の思いも語るなど、久しぶりに王者らしい王者の誕生でした▼この日本シリーズに水を差したのが「読売」の内紛。「何も同じ時期に騒がなくても」がマスコミでも大方の論評のようですが、「出物腫れ物処嫌わず」です。問題は取り上げ方でしょう▼解任されたGM(ゼネラルマネジャー)と親企業グループ会長のどちらが正しい(?)などという問題ではないですね。社会貢献が求められる人気球団を、自分だけの道具のように扱う体質が時代遅れなのですから。挙句の果ては、病身の「ミスター」を引っ張り出して幕引きをはかるなど、ファンや選手の願いに逆行しています▼このままでは「永久に不滅」どころか「早々に自滅」のジャイアンツになりかねません。Jリーグや他球団のように、地域に根ざした運営への転換の声が選手会・労働組合などから出てくるのを願わずにはいられません。

写真は〈今年8月の東京ドーム〉

稲荷山から座談会までの一週間

2011年11月23日 | 日記
またしても、久しぶりの日記になった。
13日は何故か伏見の稲荷山にいた。
30数年前には、すぐ近くに居たのに、
ふもとの神社しか行ったことがなく、
かの有名な赤鳥居の山は今回はじめて歩いた。


やはり「おどろおどろしい」


幾つあるかわからないほど密集した赤鳥居の一つ一つに社名が刻んである。
ということは、その一つ一つに人生や商売の歴史が詰まっているのだろう。


商売の神様と言われてきた由来は知らないが、
なぜ、人は鳥居を立ててきたのだろう。


商売を続けることとは、心に負荷を与え、
いつしか「神」との交流を望むようになるのだろうか?
などと考えると、人間がつくり続けてきた山の雰囲気に呑まれてしまいそうになった。


山の茶屋でそばを食べた。
歩いたことも手伝ってか、観光地で食べたそばでは、めずらしい美味しさだった。
久しぶりの本格的関西風そばつゆを呑みきった。


下界に降りてから、そそくさと四条へ、
いつもの喫茶店で、コーヒーを飲みながら1時間ほど過ごした。


14日は、3000号の最後の校正。
印刷所で11時頃まで立ち合いが続いた。
まあ、これで一区切りついた。

18日は、新年号用の「座談会」
お茶の水近くのホテルの会議室で2時間あまり。
大震災と原発事故からの、復興と「地域振興」、
そして増税やTPPという2012年の難題にどう向き合うのかという難しい話題だったが、
京都から来ていただいたO田先生からは、
新しい息吹と共同の広がりによって、
単純な想像を超える変化があるという展望が語られ、ほっとした思いになった。

21日、広島県北部方面で地震発生。
奥出雲町の名前もTVで出たので、心配になったが、
ほどなく様子がわかり一安心した。

気がつけば12月が目前。ずいぶん寒くなった。
ぼちぼち暖房具でも引っ張り出そうか

《商工新聞を讃える詩》

2011年11月20日 | コラム
#69=3000
2011年11月21日付
《商工新聞を讃える詩》
 「昭和二十七年水ぬるむ頃/うぶ声あげて幾星霜/権力に屈せず黄金にも媚(こ)びず/毅然として闘いへの先頭すすむ 商工新聞/(中略)/私たちは信じている/あなたがあなたを支える人びとの声に/謙虚に耳を傾けるかぎり/あなたの生命は不滅であり、限りない成長をつづけるだろう(以下略)」▼1963年新年号1面に発表された「商工新聞を讃える詩」です。作者は当時の全商連事務局長であった故進藤甚四郎さん。詩中の「あなた」は商工新聞を指しています▼全商連創立から12年目、安保闘争や分離申告闘争後の会員倍加運動の真っ最中。民商出身の地方議員が大勢当選した年でもあります。民商が躍進していく時代。その先頭には常に商工新聞がありました▼その頃は全国に199の民商(現在583)、7県には未だ民商がありませんでした。しかし、各地では猛烈な勢いで空白地の開拓がすすみ、その後10年を待たずに、全国津々浦々に組織が設立されました。そこでは、まず商工新聞読者が生まれ、配達・集金網(支局)がつくられ、読者の集いから組織づくりへと進んだといわれています▼全商連創立60周年。商工新聞3000号。まさに「道ひらく」歴史でありました。これからもご愛読下さるよう、よろしくお願いします。

写真は「稲荷山の竹林」

言葉に気をつける世代になったのか?

2011年11月12日 | 日記
先週は、新聞づくりの追い込み。
「3000号」が少しプレッシャーになっているようだ。
何せ、1952年から59年間を視野に入れ、
なおかつ全国の600の組織を視野に入れ、
当面する情勢を視野に入れ、
などと考え込むのが悪いのだろう。
実際は、ほとんど思い通りになっていないのだが・・。
「下手な考え休むに似たり」ということか。

そんな毎日なので、夕方になるとつい、
若い人と一杯ということになる。
生き方、人生、情勢、方針などなど、語ってしまう。
年齢差は20歳ほどなので、
結局私の語りが幅を利かせてしまっているようだ。
先日は、ついに「説教」と言われてしまった。
自分では、なんの隔たりもなく話しているつもりなのだが・・。
気をつけたほうが良いようである。

水曜日には、久しぶりに関西方面からのI川教授とイッパイ。
芝で宿泊というので、新橋で飲むことにした。
新橋は「サラリーマンのパラダイス」と聞いたことがあった。
やはり、居酒屋の並びが濃い。
表から見ると、池袋のようにガチャガチャしていないが、
チェーン店っぽくない構えの小さな店が、連なっている。
上野方面のあのねっとりした感じでもない。

ピッチが速く、ビールが次々なくなっていった。
その分、早めに終了。
今回は、家までしっかりと帰ることができた。

写真は、山手線目白駅