五輪「日本大躍進」報道のウソ、日本がメダル量産国になれない理由
2/22(木) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
五輪「日本大躍進」報道のウソ、日本がメダル量産国になれない理由
「メダル量産」などという報道に酔うばかりでは、本当の量産国になるのに必須の条件と言える競技人口増加や選手サポートの充実といった、必要な対策が疎かになる恐れがある Photo:REUTERS/AFLO
平昌五輪を巡る報道にインチキが散見される。日本はメダル量産国ではないのに、見出しに「メダル量産」の文字が踊り、競技人口が少ない種目なのに「戦力が厚みを増している」との解説も。戦中の大本営発表にそっくりな報道に慢心するばかりでは、不足している競技人口の増加や選手サポート体制強化という、本当の量産国になるために必要な課題を見えなくさせる。(ノンフィクションライター 窪田順生)
● 日本は「メダル量産国」ではない マスコミ報道のインチキぶり
なぜこの国のマスコミは、アスリート個人の功績を「日本の功績」にすりかえようとするのだろうか。
ご存じのように、テレビや新聞では朝から晩まで、メダリストたちの感動の瞬間をレポートしている。彼らの素晴らしいパフォーマンス、これまで歩んできた苦難、支えてきた周囲の方たちの絆を知って胸が熱くなった、という方も多くいらっしゃることだろう。筆者もまったく同じ思いだ。
が、そのような個人にスポットライトを当てた報道に紛れ込ませるような形で、読者や視聴者が「日本ってすごいんだな」と錯覚してしまう、かなり盛りに盛った話があふれているのは、見ていて不安しか感じない。日本人を気分良くさせるためには多少の行きすぎたハッタリをかましてもお咎めなし、というあまり褒められない環境になってしまっているからだ。
たとえば分かりやすいのが、先日の産経新聞だ。
『日本メダル量産、最多タイ「戦力に厚み」 スピードスケート牽引 どこまで伸びるか』(産経ニュース2月19日)
こう聞くと、なんとなく「日本の快進撃が止まらない」みたいなイメージを抱くだろうが、2月21日現在、平昌五輪公式ホームページの「Detailed Medal Standings」を見ると、日本は韓国、イタリアに続く11位。30個のメダルを獲得しているノルウェー(1位)や、23個のドイツ(2位)という本当のメダル量産国の背中すら見えない。
国際オリンピック委員会(IOC)のデータで平昌以前の冬季五輪の獲得メダル総数を見ても、100個以上が当たり前となっている西側諸国と比較して日本は45個。ダブルスコア以上の差をつけられていて、アジア勢の中国・韓国(共に53個)よりも少ない。
「そういうレベルなんだから、はしゃいだらみっともない」、とか意地の悪いことを言いたいわけではない。日本のウインタースポーツを盛り上げるためにも、お祭り騒ぎのような「自画自賛報道」だけではなく、冷静かつ客観的に自分たちの置かれた状況も解説すべきだと申し上げたいのだ。
● 「大本営発表」と見まがうばかりの 欺瞞あふれる自画自賛報道
また、この産経ニュースの記事では「躍進の一因は、スピードスケート勢の復権だ」とうれしそうに述べているのだが、これもかなりビミョーなもの言いだ。
「復権」とは、ひとつの時代を築き、栄華を誇った者が衰退して、また復活した際に使われる言葉だが、平昌以前の日本のスピードスケートのメダル獲得数は15個だ。オランダのように、これまで獲得したメダルが107個もあるような国が、低迷期を経て乗り越えたというのなら「復権」と言うのも分かるが、「まだまだこれから」というレベルにある日本が言うことに違和感を覚える。
実際、オランダから見れば、日本は「スケート途上国」である。ソチ五輪後に、代表選手の強化のために招聘されたオランダのヨハン・デヴィット氏のアシスタントはこう述べている。
「日本には才能に恵まれた選手はたくさんいたが、彼らはそれを生かすことができていなかった。日本は世界2位のスピードスケート大国になれる可能性を持っているのに、その可能性を生かしていなかった」(AFPBBニュース2月10日)
ちなみに、「ショートトラック大国」だと自画自賛している韓国は、これまで同競技で42個のメダルを獲っている。日本の15個で「復権」はいくらなんでも盛りすぎだ。
ただ、なによりもこの記事で筆者が危ういと感じるのは、「戦力に厚み」というタイトルだ。
大会前はメダル候補だと思われていなかったフリースタイル男子モーグルの原大智選手が銅メダルに輝いたことを受け、JOC関係者による「戦力が厚みを増している」という分析から引用したわけだが、これは太平洋戦争の大本営発表にも負けず劣らずの誇張ぶりである。
スキーの競技人口は激減しており、フリースタイルモーグルとピンポイントになるとさらに厳しい。ソチ五輪時には600人弱ではないかと報じられている。小平奈緒さんや高木美帆さんのようなスターを輩出しているスピードスケートですら、笹川スポーツ財団のホームページによると、「競技人口は約2500人」だという。
● サポート体制が不十分な中で メダルを獲った選手の凄み
日本のマスコミが勝手にライバル視しているオランダは、日本の8分の1程度の人口しかいないにもかかわらず、スピードスケードの競技人口は1万人以上。複数のプロチームがあって切磋琢磨している。こういう国が「戦力に厚みを増してきている」と言うなら分かるが、ペラペラの薄い戦力層しかない日本が言っても強がりにしか聞こえない。
なんてことを言うと、「こいつは反日サヨクだ!」、「メダリストの活躍を素直に讃えられないなんて日本人じゃない!」とすさまじい誹謗中傷にさらされてしまうので、断っておくと、筆者は日本代表アスリートや彼らを支えている方たちをディスっているわけではなく、彼ら個人の功績を、さも「日本の功績」のように語っている現状がおかしいと指摘しているのだ。
平昌五輪に出場しているアスリートのほとんどは、自助努力で競技者人生を続けている。自分の限界に挑みながら、家族、友人、篤志家などに頼り、「資金集め」にも悪戦苦闘しなければいけない。
小平さんの競技活動やオランダ留学費用などをサポートしていた相澤病院が注目を集めているが、大企業から支援を受けられるのは、フィギュアスケートの一部選手やプロスノボーダーのみなさんなど、ほんの一握り。なかには資金面で夢を諦めざるをえないプレーヤーもいる。
強化費や代表選手のサポート体制も以前よりは整ってきているものの、いまだに日本のマイナースポーツは「個人のがんばり」に依存している、という動かしがたい事実がある。
そういうブラック企業にも似た環境のなかで、小平さんや高木さんは、戦力の厚みもあり、国や大企業から十分なサポートを得ているメダル量産国の選手たちよりも素晴らしいパフォーマンスを見せたのだ。
これは選手個人の努力はもちろん、それを支え続けた家族や周囲の人々の協力もあって成し遂げたすさまじい偉業である。もちろん、これまで冬季五輪で45個のメダルを獲得してきた選手たちや、残念ながらメダルに手が届かなかった選手たちにも同じことが言える。
● 「日本すごい」報道が スポーツ振興の邪魔になる理由
だが、なぜか日本のマスコミでは、そのような「個人」を讃えながらも、ちょいちょい「日本メダル量産」とか「戦力の厚み」なんて言葉を用いて、「日本全体が成し遂げた偉業感」をぶっこんでくるのだ。
「すごい」と評価されるべきは、小平選手であり、彼女の夢を支え続けた相澤病院や、スピードスケートの関係者という「個人」であり、「日本」がすごいわけではないのだ。メダルの数と色ばかりにこだわっているマスコミによって、それがいつのまにかごちゃまぜに語られるようになってしまうのだ。
そんな屁理屈こねて面倒くさいヤツだなと思われるかもしれない。ただ、なぜ筆者が個人の功績を「日本の功績」とごちゃまぜにしてはいけないとここまで強く主張をするのかというと、マイナースポーツが今まで以上に衰退してしまうからだ。
たとえば、今日にいたるまでのテレビ・新聞の平昌五輪報道で、みなさんはどれくらいの日本代表の名前を覚えただろうか。特に熱狂している方でなければ、メダルを獲得した8人にプラスして、レジェンド・葛西紀明さんや、フィギュア男女、「カー娘」くらいで、ざっと20人ほどではないか。
しかし、平昌五輪で戦っているアスリートは124人いる。マスコミは「がんばれ日本!」と絶叫しているわりに、ほんのひと握りのアスリートの活躍しか報じていないのだ。
つまり、アスリート個人の功績を「日本の功績」と混同してしまうと、どうしてもメダルの数や色に国力を重ねて、増えた減ったと大騒ぎする五輪報道に終始してしまうのである。
これはサッカーW杯と同様に「愛国エンターテイメント」なので、「にわかファン」は瞬間風速的に増える。だが、その競技の面白さや、アスリート個人のパフォーマンスの偉大さを伝えているわけではないので、本当のファンは定着しない。当然、競技者人口も増えず衰退していくというわけだ。
● 選手個人のがんばりを ナショナリズムに利用するな
ひたすら個人にのみがんばらせるという、ブラック企業のような発想で、スポーツ振興などできるわけがない。
一方で「国力」によって、選抜されたアスリートをサイボーグみたいに強化するだけ、というのも考えものだ。かつてのソ連など共産圏諸国では、そうして悲劇のアスリートが量産された。東京五輪に向けて強化予算が増えて、才能のある子どもをサポートする体制もつくられてきているが、それだけでは不十分だ。愛国エンタメではない五輪報道が行われ、スポーツを真に楽しむことができるファンが増え、競技者の裾野が広がってはじめて、国家による後押しの意味があるのだ。
今回の平昌五輪では、選手個人のがんばりとナショナリズムをごちゃまぜにしたことで、韓国と北朝鮮の南北合同チームが結成されるなど、さまざまな醜いトラブルがあったが、日本も同じ穴のムジナだ。個人の手柄を国がかっさらうような環境を改めない限り、東京五輪でも残念な報道が垂れ流され、世界に恥をさらすことになるだろう。
日本人が大好きな「がんばれ日本!」という言葉は、実は1964年に公開された映画のタイトルに端を発する。これは「ナチスの宣伝五輪」といわれたベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」から日本人選手の活躍を抜き出して編集したものだ。総指揮は、多くのナチス・プロパガンダ映画でメガホンを取ったレニ・リフェンシュタールがつとめている。
まずはこの全体主義丸出しのスローガンから卒業することから始めないか。
窪田順生
2/22(木) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
五輪「日本大躍進」報道のウソ、日本がメダル量産国になれない理由
「メダル量産」などという報道に酔うばかりでは、本当の量産国になるのに必須の条件と言える競技人口増加や選手サポートの充実といった、必要な対策が疎かになる恐れがある Photo:REUTERS/AFLO
平昌五輪を巡る報道にインチキが散見される。日本はメダル量産国ではないのに、見出しに「メダル量産」の文字が踊り、競技人口が少ない種目なのに「戦力が厚みを増している」との解説も。戦中の大本営発表にそっくりな報道に慢心するばかりでは、不足している競技人口の増加や選手サポート体制強化という、本当の量産国になるために必要な課題を見えなくさせる。(ノンフィクションライター 窪田順生)
● 日本は「メダル量産国」ではない マスコミ報道のインチキぶり
なぜこの国のマスコミは、アスリート個人の功績を「日本の功績」にすりかえようとするのだろうか。
ご存じのように、テレビや新聞では朝から晩まで、メダリストたちの感動の瞬間をレポートしている。彼らの素晴らしいパフォーマンス、これまで歩んできた苦難、支えてきた周囲の方たちの絆を知って胸が熱くなった、という方も多くいらっしゃることだろう。筆者もまったく同じ思いだ。
が、そのような個人にスポットライトを当てた報道に紛れ込ませるような形で、読者や視聴者が「日本ってすごいんだな」と錯覚してしまう、かなり盛りに盛った話があふれているのは、見ていて不安しか感じない。日本人を気分良くさせるためには多少の行きすぎたハッタリをかましてもお咎めなし、というあまり褒められない環境になってしまっているからだ。
たとえば分かりやすいのが、先日の産経新聞だ。
『日本メダル量産、最多タイ「戦力に厚み」 スピードスケート牽引 どこまで伸びるか』(産経ニュース2月19日)
こう聞くと、なんとなく「日本の快進撃が止まらない」みたいなイメージを抱くだろうが、2月21日現在、平昌五輪公式ホームページの「Detailed Medal Standings」を見ると、日本は韓国、イタリアに続く11位。30個のメダルを獲得しているノルウェー(1位)や、23個のドイツ(2位)という本当のメダル量産国の背中すら見えない。
国際オリンピック委員会(IOC)のデータで平昌以前の冬季五輪の獲得メダル総数を見ても、100個以上が当たり前となっている西側諸国と比較して日本は45個。ダブルスコア以上の差をつけられていて、アジア勢の中国・韓国(共に53個)よりも少ない。
「そういうレベルなんだから、はしゃいだらみっともない」、とか意地の悪いことを言いたいわけではない。日本のウインタースポーツを盛り上げるためにも、お祭り騒ぎのような「自画自賛報道」だけではなく、冷静かつ客観的に自分たちの置かれた状況も解説すべきだと申し上げたいのだ。
● 「大本営発表」と見まがうばかりの 欺瞞あふれる自画自賛報道
また、この産経ニュースの記事では「躍進の一因は、スピードスケート勢の復権だ」とうれしそうに述べているのだが、これもかなりビミョーなもの言いだ。
「復権」とは、ひとつの時代を築き、栄華を誇った者が衰退して、また復活した際に使われる言葉だが、平昌以前の日本のスピードスケートのメダル獲得数は15個だ。オランダのように、これまで獲得したメダルが107個もあるような国が、低迷期を経て乗り越えたというのなら「復権」と言うのも分かるが、「まだまだこれから」というレベルにある日本が言うことに違和感を覚える。
実際、オランダから見れば、日本は「スケート途上国」である。ソチ五輪後に、代表選手の強化のために招聘されたオランダのヨハン・デヴィット氏のアシスタントはこう述べている。
「日本には才能に恵まれた選手はたくさんいたが、彼らはそれを生かすことができていなかった。日本は世界2位のスピードスケート大国になれる可能性を持っているのに、その可能性を生かしていなかった」(AFPBBニュース2月10日)
ちなみに、「ショートトラック大国」だと自画自賛している韓国は、これまで同競技で42個のメダルを獲っている。日本の15個で「復権」はいくらなんでも盛りすぎだ。
ただ、なによりもこの記事で筆者が危ういと感じるのは、「戦力に厚み」というタイトルだ。
大会前はメダル候補だと思われていなかったフリースタイル男子モーグルの原大智選手が銅メダルに輝いたことを受け、JOC関係者による「戦力が厚みを増している」という分析から引用したわけだが、これは太平洋戦争の大本営発表にも負けず劣らずの誇張ぶりである。
スキーの競技人口は激減しており、フリースタイルモーグルとピンポイントになるとさらに厳しい。ソチ五輪時には600人弱ではないかと報じられている。小平奈緒さんや高木美帆さんのようなスターを輩出しているスピードスケートですら、笹川スポーツ財団のホームページによると、「競技人口は約2500人」だという。
● サポート体制が不十分な中で メダルを獲った選手の凄み
日本のマスコミが勝手にライバル視しているオランダは、日本の8分の1程度の人口しかいないにもかかわらず、スピードスケードの競技人口は1万人以上。複数のプロチームがあって切磋琢磨している。こういう国が「戦力に厚みを増してきている」と言うなら分かるが、ペラペラの薄い戦力層しかない日本が言っても強がりにしか聞こえない。
なんてことを言うと、「こいつは反日サヨクだ!」、「メダリストの活躍を素直に讃えられないなんて日本人じゃない!」とすさまじい誹謗中傷にさらされてしまうので、断っておくと、筆者は日本代表アスリートや彼らを支えている方たちをディスっているわけではなく、彼ら個人の功績を、さも「日本の功績」のように語っている現状がおかしいと指摘しているのだ。
平昌五輪に出場しているアスリートのほとんどは、自助努力で競技者人生を続けている。自分の限界に挑みながら、家族、友人、篤志家などに頼り、「資金集め」にも悪戦苦闘しなければいけない。
小平さんの競技活動やオランダ留学費用などをサポートしていた相澤病院が注目を集めているが、大企業から支援を受けられるのは、フィギュアスケートの一部選手やプロスノボーダーのみなさんなど、ほんの一握り。なかには資金面で夢を諦めざるをえないプレーヤーもいる。
強化費や代表選手のサポート体制も以前よりは整ってきているものの、いまだに日本のマイナースポーツは「個人のがんばり」に依存している、という動かしがたい事実がある。
そういうブラック企業にも似た環境のなかで、小平さんや高木さんは、戦力の厚みもあり、国や大企業から十分なサポートを得ているメダル量産国の選手たちよりも素晴らしいパフォーマンスを見せたのだ。
これは選手個人の努力はもちろん、それを支え続けた家族や周囲の人々の協力もあって成し遂げたすさまじい偉業である。もちろん、これまで冬季五輪で45個のメダルを獲得してきた選手たちや、残念ながらメダルに手が届かなかった選手たちにも同じことが言える。
● 「日本すごい」報道が スポーツ振興の邪魔になる理由
だが、なぜか日本のマスコミでは、そのような「個人」を讃えながらも、ちょいちょい「日本メダル量産」とか「戦力の厚み」なんて言葉を用いて、「日本全体が成し遂げた偉業感」をぶっこんでくるのだ。
「すごい」と評価されるべきは、小平選手であり、彼女の夢を支え続けた相澤病院や、スピードスケートの関係者という「個人」であり、「日本」がすごいわけではないのだ。メダルの数と色ばかりにこだわっているマスコミによって、それがいつのまにかごちゃまぜに語られるようになってしまうのだ。
そんな屁理屈こねて面倒くさいヤツだなと思われるかもしれない。ただ、なぜ筆者が個人の功績を「日本の功績」とごちゃまぜにしてはいけないとここまで強く主張をするのかというと、マイナースポーツが今まで以上に衰退してしまうからだ。
たとえば、今日にいたるまでのテレビ・新聞の平昌五輪報道で、みなさんはどれくらいの日本代表の名前を覚えただろうか。特に熱狂している方でなければ、メダルを獲得した8人にプラスして、レジェンド・葛西紀明さんや、フィギュア男女、「カー娘」くらいで、ざっと20人ほどではないか。
しかし、平昌五輪で戦っているアスリートは124人いる。マスコミは「がんばれ日本!」と絶叫しているわりに、ほんのひと握りのアスリートの活躍しか報じていないのだ。
つまり、アスリート個人の功績を「日本の功績」と混同してしまうと、どうしてもメダルの数や色に国力を重ねて、増えた減ったと大騒ぎする五輪報道に終始してしまうのである。
これはサッカーW杯と同様に「愛国エンターテイメント」なので、「にわかファン」は瞬間風速的に増える。だが、その競技の面白さや、アスリート個人のパフォーマンスの偉大さを伝えているわけではないので、本当のファンは定着しない。当然、競技者人口も増えず衰退していくというわけだ。
● 選手個人のがんばりを ナショナリズムに利用するな
ひたすら個人にのみがんばらせるという、ブラック企業のような発想で、スポーツ振興などできるわけがない。
一方で「国力」によって、選抜されたアスリートをサイボーグみたいに強化するだけ、というのも考えものだ。かつてのソ連など共産圏諸国では、そうして悲劇のアスリートが量産された。東京五輪に向けて強化予算が増えて、才能のある子どもをサポートする体制もつくられてきているが、それだけでは不十分だ。愛国エンタメではない五輪報道が行われ、スポーツを真に楽しむことができるファンが増え、競技者の裾野が広がってはじめて、国家による後押しの意味があるのだ。
今回の平昌五輪では、選手個人のがんばりとナショナリズムをごちゃまぜにしたことで、韓国と北朝鮮の南北合同チームが結成されるなど、さまざまな醜いトラブルがあったが、日本も同じ穴のムジナだ。個人の手柄を国がかっさらうような環境を改めない限り、東京五輪でも残念な報道が垂れ流され、世界に恥をさらすことになるだろう。
日本人が大好きな「がんばれ日本!」という言葉は、実は1964年に公開された映画のタイトルに端を発する。これは「ナチスの宣伝五輪」といわれたベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」から日本人選手の活躍を抜き出して編集したものだ。総指揮は、多くのナチス・プロパガンダ映画でメガホンを取ったレニ・リフェンシュタールがつとめている。
まずはこの全体主義丸出しのスローガンから卒業することから始めないか。
窪田順生