相撲力士が野球賭博に手を出していたことや、暴力団の相撲観戦を斡旋していたことが批判されている。力士ー相撲協会ー暴力団の繋がりが暴かれている。そこに欠落しているのは、イヌ・イチ・ケーなのでは?
相撲や芸能と興行、暴力団との関係は、深い歴史があることくらい百も承知で国技として中継してきたはずである。初めて知ったような顔をした報道姿勢には疑問がある。
『サブプライムから世界恐慌へ 新自由主義の終焉とこれからの世界』(伊藤誠著 青土社 2009年刊) その2
難しい論理の展開が、ひとつの「例え」でイメージを持てることがある。
伊藤誠氏は、サブプライム金融恐慌の背景を、『アメリカのサブプライムを含む住宅ローンに基づき、住宅金融の二階から世界の金融市場へ「幾重にも積重ねられたカードの家」を連想させる膨大な証券の多重発行と販売が、格付会社や金融保険会社の保証もえて、継続的に行なわれ続けていたわけである。』(P43)として説明している。
従って、世界恐慌とは、この「カードの家」がいっきに崩壊したのである。
サブプライム金融危機が顕在化しつつあった2007年5月のOECD(経済開発協力機構)の見通しは、楽観的であった。『先行する日本の巨大バブルの崩壊、アジア経済危機、アメリカのニューエコノミー・ブームの崩壊がいずれも世界恐慌へのおそれをいだかせながら、結局は局所的経済危機にとどまり、つぎのバブルに移行していた「メリーゴーランドの経験」の反復を期待する予測であった。』(p51)
しかし、この予測は大きくはずれ、メリーゴーランドは壊れてしまったのである。
問題は、市場原理主義に基づいた新自由主義の帰結である。民間でできるものは民間への結果が、倒産した証券会社や自動車メーカーへ公的資金の投入、事実上の国営化という矛盾である。
労働市場の自由化の結果も、新たな貧困の拡大、それに対するセーフティネット費用の増大である。(例としては、生活保護世帯の急増など)
規制緩和で、自由競争社会の実現というより純化した資本主義社会にしようとしたら、社会主義社会を生産手段の国有化と定義すると、その準備をしてしまった、というパラドックスに陥ったのである。
相撲や芸能と興行、暴力団との関係は、深い歴史があることくらい百も承知で国技として中継してきたはずである。初めて知ったような顔をした報道姿勢には疑問がある。
『サブプライムから世界恐慌へ 新自由主義の終焉とこれからの世界』(伊藤誠著 青土社 2009年刊) その2
難しい論理の展開が、ひとつの「例え」でイメージを持てることがある。
伊藤誠氏は、サブプライム金融恐慌の背景を、『アメリカのサブプライムを含む住宅ローンに基づき、住宅金融の二階から世界の金融市場へ「幾重にも積重ねられたカードの家」を連想させる膨大な証券の多重発行と販売が、格付会社や金融保険会社の保証もえて、継続的に行なわれ続けていたわけである。』(P43)として説明している。
従って、世界恐慌とは、この「カードの家」がいっきに崩壊したのである。
サブプライム金融危機が顕在化しつつあった2007年5月のOECD(経済開発協力機構)の見通しは、楽観的であった。『先行する日本の巨大バブルの崩壊、アジア経済危機、アメリカのニューエコノミー・ブームの崩壊がいずれも世界恐慌へのおそれをいだかせながら、結局は局所的経済危機にとどまり、つぎのバブルに移行していた「メリーゴーランドの経験」の反復を期待する予測であった。』(p51)
しかし、この予測は大きくはずれ、メリーゴーランドは壊れてしまったのである。
問題は、市場原理主義に基づいた新自由主義の帰結である。民間でできるものは民間への結果が、倒産した証券会社や自動車メーカーへ公的資金の投入、事実上の国営化という矛盾である。
労働市場の自由化の結果も、新たな貧困の拡大、それに対するセーフティネット費用の増大である。(例としては、生活保護世帯の急増など)
規制緩和で、自由競争社会の実現というより純化した資本主義社会にしようとしたら、社会主義社会を生産手段の国有化と定義すると、その準備をしてしまった、というパラドックスに陥ったのである。