原田芳雄さんのご冥福をお祈りいたします。早過ぎました。
所用があって、今年2度目の京都へ。少し落ち着いて本など読みたいと思っています。
さらに、時間を作ってランニングも、暑い時期はどっぷり汗が出て気持ちがすっきりします。シューズの準備は整いました。
(再開)引き続き、『国家とはなにか』(萱野稔人著 以文社 2005年刊)をノオトする。
第七章(最終章) 国家と資本主義
国家を稼動させる富の徴収運動は、歴史の中でどのようなシステムを帰結したのか。
ストックの存在の中に、国家の歴史的起源をみる。土地から地代が、労働から利潤が、貨幣から税が、それぞれ抽出され蓄積される。国家は、土地や労働や貨幣を生み出しながら富を捕獲する装置として、歴史の中に登場する(古代専制国家)。捕獲装置の出現は資本主義が成立するための布石となる。
資本主義という歴史的システムのもとで、国家は現在どのような状況にあるのか。
20世紀前半以降、世界恐慌とロシア革命を起因として、雇用の保護、社会保障制度の整備、組合運動の合法化、公共事業を通じた景気対策・・これらは、資本主義の危機に対する防御策である。その目標は、革命の温床となりうる社会的矛盾をできるだけ解消し、恐慌のリスクをさけるような資本循環の回路を開発した。(社会政策的実現モデル)
一方、現在はどうか。雇用のフレキシブル化、失業者の放置、財政難、自己責任を理由とした社会保障制度の縮小、工場の海外移転に伴う国内市場の空洞化など生存権、社会権は急速に形骸化している。(全体主義的実現モデル)それは、冷戦状態が終了し革命の恐れがほとんどないからである。
資本主義中心部における不変資本比率の増大。人間がその構成部品となるような機械状隷属システムが出現する。(中心の周辺化、第三世界化。)
現代国家は脱領土化の形態をとりつつある。国家の運動が領土的枠組みに必ずしも準拠しなくなった。国家にとっていまや重要なのは、自国資本の指揮本部と国外の生産拠点、そして販路を結ぶネットワークを保全することである。
以上のことから、グローバリゼーションをつうじて、現在の国家は、これまでの国民形態を支えた「国家の社会化」のプロセスを逆走している。経済的な生存共同体を自らの内部に保持できなくなった国民国家は、文化的共同性に重心を移すことで自己を再編成していく。文化的シンボルや道徳的な価値といったものが強く呼び出される。脱領土化する国家に対してナショナリズムが果たす役割がある。
資本主義は国家を廃絶しない。資本による国家の超克は、資本のきわめて限定された側面でしかない。ただし、国民国家の枠を超えた国家形態の出現の可能性はある。資本主義が廃止されても、それによって国家が消滅するわけではない。
国家を無くすことができるかは、暴力の組織化を経由することなく暴力を社会的に管理することは可能かという問題に関わっている。
*本書を読み始めた最初の意図、「私たちは国民国家の黄昏を前に佇んでいる」という仮説を証明することについては、現在の社会政策的実現モデルの後退、国民国家の脱領土化の進展、その反動としてナショナリズムの興隆などから、国民国家の枠組みのゆらぎは論証されていると考える。
*しかし、国家とはしぶとく根深い存在であり、国家に代わる枠組みや国家そのものの廃絶となるとそこには国家の本質的な問題である暴力の管理の問題が露になる。それを踏まえて、国家の廃絶イメージを持つ必要がある。