晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

朴念仁様へ

2013-11-04 17:14:59 | Weblog

 土日は営業だったので、丸一日の休みは久しぶり。朝から天気も良く20kmの長距離ラン。気温も走り始めの3℃から昼ごろには11℃に。紅葉真っ盛りで冬に近づいた気分にはなるが、今は5月のゴールデンウィークと変わらない気温。

 今日は、身体と心と脳の関係を考えながら走った。実感から判断すると身体と心はかなり一体的である。心と脳は対立的になる事が多いというものだ。

 脳は合理的存在で今日20km走ろうと計画したら時間、強度、スタミナを計算しペースの指示を出してくる。一歩の心は、走り始めで身体が走りに馴染んでいない場合、どうしてこんなつらい事を今日しなければならないのかと私を消極的にさせる。しばらくして身体の調子が上がってくると、心も爽快になり周りの風景を感じる余裕すら出てくる。しかし、段々と疲労がたまって足の運びを意図的にしないとならなくなってくる頃から、心も止まりたい、休みたい、やめたいとささやき始める。今日の目標を掲げる脳と心の闘いが始まる。

 「健全な体には健全な精神が宿る」というのは、差別的な言辞で到底組することはできないが、身体の状態が心へ影響をもたらしたり、反対に心の持ちようが身体に影響したり、両者には密接な相関関係があると考える。

 

 朴念仁様、本ブログで書いた勢古浩爾著『最後の吉本隆明』(2011.4.21)に対するコメントありがとうございました。朴さんのコメントから考えました。

 「人の思想=人の生き様」という等式は必ずしも成り立たないと思う。一般的には生き様と思想が一致しているのは稀有のことだと思う。ただ吉本にとっては氏の書いたものや語ったことからも、朴さんが言われるように敗戦を契機として吉本に思想的な格闘が始まったと言える。吉本の原点は、敗戦から見えた様々な人間のふるまい、氏にとって許すことのできない人々との闘いが原点だと思う。

 その後、結婚に至る過程の修羅場、60年安保などを経験しながら、国家のこと、権力のこと、人間のこと、こころのありようと吉本思想は拡がっていった。

 勢古氏の『最後の吉本隆明』は、書名から吉本の『最後の親鸞』を想像するが、吉本が親鸞を信仰者でありながらその拠り所とする宗教を解体する寸前のところまで考え実践した宗教家として描いている。一方、吉本が思想が信仰に化している全ての主義者を排し、自分でもマルクスの思想をギリギリの所まで追い込んだが、最後のところで自分はマルクス者としてマルクスを否定しきれず踏みとどまった。その事を勢古氏は描ききってはいないと考える。しかし、もう一度読んでみる必要がある。

 最後に、私は、いつもつらいことをやっているなとは思っている。しかし、同時に走ることのできる喜び、読むことのできる喜びをいつも感じている。

 

 小泉純一郎氏が脱原発発言で注目されているが、氏は郵政民営化をはじめある種米国の意向を代弁してきている政治家である。日共、社民が見事に絡めとられている姿は哀れとしかいいようがない。私は、にわかに脱原発の主張をする者を信用しない。福島の事故が起きたからこそその克服のために原発、放射能に人間は立ち向かう時と考える。いつやるの、今でしょ!

コメント (1)
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