晴走雨読

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恋愛論 吉本隆明ノオト その9

2015-08-26 10:04:47 | Weblog

 安保法制の国会中継を見ていて、野党、特に民主党、共産党の質問者の中に、自説だけを披露していて、アへ首相を論戦で追い詰めない議員が目立つ。特にお利口さんに見える議員。アへを理論で窮地に追い込まない限り、アへから見れば、法制に理解を得た、審議を尽くしたということになるのだが、その危機感が感じられない。今はそれだけ重要な局面ということに無自覚だ。法案が可決されたら、腹を切る(議員辞職)する位の決意を見せてほしい。

 

 恋愛論 吉本隆明ノオト その9

 若い頃から論争に明け暮れた吉本も、晩年は、子育て、いじめ、ひきこもり、恋愛など日常的な話題について、気さくに語る好々爺を演じていた。しかし、その場の思い付きだけで語っていたのではないと思う。そこでは、『共同幻想論』『心的現象論』の成果、自己、対、共同幻想、感覚と心、国家の廃絶といった吉本原理論をしっかりとベースにしてその応用で語っていることがわかる。

 吉本自身の結婚に至る個人史は、のっぴきならぬ困難を乗り越えた末に、ということはこれまで様々なところで書かれている。今回は、聞き語り形式の『超恋愛論』(吉本隆明著 大和書房 2004年刊)から、さすが吉本!と感じたフレーズを中心にノオトする。

 恋愛とは「覚醒剤をのむようなもの、今まで寝ていた神経が起き上がっていきなり自分が活性化する」、「細胞同士、遺伝子同士が呼び合うような感じが本来的な恋愛の感覚」と語る。そして、「誰が見てもこの人がいい」というような人なんか、恋愛においてはありえない。「その人にとっていい人」が絶対的に存在するというのが恋愛だ。たくさんの異性にちやほやされるとか、出会いのチャンスが多いとかは本質的に関係ない。いわゆる「もてる」「もてない」みたいなものは、意味がない。金があるとかないとか、美人だとか不美人だとか、うちの親はこの人を気にいってくれるかどうかとか関係ない、と言う。

 時代によって、恋愛の形は変わるが、恋愛感情の中心点のようなものは変わらない。人間の精神のうち、視聴覚系を主とする感覚的な部分は変わっていく。感覚を補助、拡大する道具、例えば電子機器の発達によって、感覚が鋭敏になったり、感覚の範囲が広がったりする部分では恋愛感情や形態が変わる。しかし、相手の人を好きになったときの心の状態、非感覚的な部分は変わらない。

 独身のときは、婚姻届を国に届けることよりも、結婚生活の内実、一緒に暮らしているということそのものの方が大事と思っていた。しかし、あるときを境に、婚姻届の意外な重さを実感した。法律が意外な重さで個人にのしかかってくることを感じた。その理由は、最初に宗教が生まれ、そのうち最も強固な部分が法律となり、さらに国家もまたそこから生まれたからだ。従って、婚姻届を出すことは、一種の宗教的行為なのではないかと思う。

 *(*印は僕の感想部分)僕は、フェミストではない、だからと言って男女差別論者でもないと思っている。女性が多数を占めていた職場での経験から、男性は理論的に頭で理解できたら、たとえそれが自分の考えと違っていても動く。しかし、女性は頭で理解して一時的には動くが、少し経つとリバースしてくる。一度決めたことでも腹の中で納得していなければ、必ず蒸し返しがあり、中々難しい存在だと思っている。男だってそういう人はいるでしょう、と言われると思うが、この決めつけは偏見でしょうか?

 *80歳を超えた方なのですが、奥さんに先立たれ、独りで暮らしていたが、同じような境遇の友人から再婚を勧められ、色々な曲折はあったが再婚をして、元気が甦ったと言う方がおられる。60歳で死に損なった僕であるが、この先そういうこともあるのだろうか、反対に僕が先に死んで、妻が再婚ということもあるのだろうな。今はそっちの可能性が高いと思う。

 

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