晴走雨読

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浜田寿美男 『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求と「鑑定書」』

2016-05-31 19:28:54 | Weblog

 事情があって9日間、朝はグラノーラに牛乳、昼はコンビニのおにぎり2個、夜は佐藤のごはんと冷凍食品をチンした食事をしていました。そして最後の4日間は、緊急帰釧で走り回り。歩くのがダルイと感じたので、体重を図ったら-2kg、何と体脂肪が17から12に減っていました。

 

 『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求と「鑑定書」』(浜田寿美男著 講談社選書メチエ 2016年刊)          

 浜田氏の著作について感想を記すのは、このブログ2009.3.15、『子ども学序説 変わる子ども、変わらぬ子ども』(岩波書店2009年刊)以来だと思う。「子ども学」は、氏が専攻とする分野のうち発達心理学の方であるが、本書は、もう一つの専門である法心理学、供述分析の書である。

 本書は、敗戦3年目の1948.1.26に起きた事件であり、平沢被告は死刑確定後1987年に95歳で獄死、その遺志を継いで再審請求を行っていた養子武彦氏も2013年に死亡している。しかし、著者は残された供述調書を丁寧に読み解き、そこに典型的な冤罪の構図が成立していると主張する。本書は、供述における矛盾について論理を負って記述していく内容が主であるため、あまり劇的な展開も無く読むのは少し辛抱を必要とする。GHQや毒ガスの研究をしていた731部隊の関与などを期待したとしてもその部分の展開はない。

 取り調べ時に平沢氏が感じた孤立感、閉塞感、絶望感を、もし自分がそのような情況に置かれたら耐えきれるだろうかと想像する。

 僕の小さい頃の小さな経験で今でも覚えていることがある。小3の時、転校先のクラスでの習字の時間、そこにはもったいないので練習は新聞紙で、清書だけに半紙を使うというルールがあった。初めて担任を持った若い女の先生は、その時ゴミ箱の中に字が書かれた半紙を見つけた。ここから教室の空気が一変する。「これは誰が捨てたの?正直に自分から名乗り出なさい!」

 先生は何回も何回も促す。しかし、誰も名乗り出ない。時間だけが経過する。先生の怒りはどんどん増していく。僕は、こんな程度のことに対して先生がなぜそこまでしつこく犯人捜しのようなことをして、一方的に怒るのかが今ひとつ理解できない。

 とうとう6時間目が終る。ああこれで終りかなあ思ったがまだ続くようだ。子どもたちは、怖くて先生とは視線も合わせず下を向いて手も上げられなくなっていく。もしかしたらあの半紙は僕が捨てたのかもという気持ちが沸き起こる。先生は僕を疑っているのだろうか。でも字体が違うような気もする。

 夕方になって来て、陽は沈み、外はすっかり暗くなり、当時の電気の無かった教室では先生の顔も見えなく、声だけが響いた。「誰がしたの?」何回聞いただろか。早くこんな情況から抜け出したくて、「僕が、やりました」って言ってしまおうかな。でも、言ったら僕だけ残されてそこから延々と怒られるのだろう。じっと我慢するしかない。

 親たちから子どもが帰ってこないという連絡が職員室にあり、後になって知ったが他の先生が教室を除きにくる。助けてほしい。疲れてきた。自分がやったということにしても、具体的にどうやったのか、時間が経ってしまって情況も全然思い出せない。早く家に帰りたい。圧倒的な権力者である学級担任とそれに従うしか術の無い子どもたち45人、子ども一人ひとりの孤立、閉塞、絶望がそこにあった。

 その日は、19時近くになった真っ暗な道を小3の子どもたちだけでトボトボと帰ったのではなかったか。翌朝も取り調べは続いたと思うが、最後にどのように終わり方になったのか、全く覚えていない。

 

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