晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

三上治 『吉本隆明と中上健次』

2017-11-21 17:11:10 | Weblog

ついに積雪アイスバーン状態になってしまいました。ここ2,3日は気温も低くなっていますが、ウィンドブレーカーに帽子、手袋、ネックウォーマー、スノーランニングシューズと完全防備するといつものように汗をかくことができます。今年の目標は、昨年より長い距離を走ることでした。

『吉本隆明と中上健次』(三上治著 現代書館 2017年刊)

吉本隆明が亡くなって5年以上経つが、晶文社からの吉本全集は別として、関連本の刊行が続いている。僕もそうだが、表題に吉本の名前を入れると一定の購読者がいるということなのだろう。

本書の題名からは、今まであまり論じられていない吉本と中上の関係について述べられていると想像したのだが、まずは肩透かしをくらった。著者である三上氏と吉本の関わり、同じく三上氏と中上の関係が語られるのみである。【吉本】⇔【三上】⇔【中上】の関係であって、三者による三角形にはならないのである。三上氏と吉本の交流はこれまでも書かれてきたので、特に惹かれるものは無かった。

先日、僕は、ある専門家に「専門書とはどういうものなのですか」と質問をした。その先生は、「専門書とは“概念”が主人公で書かれた書物で、自分やある人物が主人公となって書かれている小説とは異なる」と答えてくれた。

この定義によると、本書は専門書ではないことになる。本書の中で、吉本思想が主人公になっている場面、著者が吉本や中上の著作をどう読んだかとなる場面と揺れるのであるが、総じて三上氏の自伝的なエッセイとなっている。

著者の回顧とともに、重要と思われる吉本の著作が紹介される。安保闘争の頃では『擬制の終焉』(1962年刊)、仏教思想では『最後の親鸞』(1976年刊)、思想的展開では『世界認識の方法』(1980年刊)、『言葉からの触手』(1989年刊)、『わが転向』(1995年刊)ということであり、読み返してみたいと思う。もちろん、ベースには『言語にとって美とは何か』(1965年刊)、『共同幻想論』(1968年刊)、『心的現象論序説』(1971年刊)がある。

 

 

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