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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその1 

2024-07-11 13:57:08 | Weblog

ヒューマニズム精神、宗教的な信条、反戦思想などを抱きながら、自国が戦争へ向かっていることに警鐘を鳴らし、戦争反対を叫んでいたとしても、いざ国と国の戦争が始まれば、その国の兵士となってその国のために戦場に駆り出され殺したり殺されたりしなくてはならなくなる。たまたまその国に生まれたために、その国のために戦争に加わらなければならない。僕は不条理だと思う。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその1  

【知りたいこと】1945.8.8ソ連は日本へ宣戦布告→「日ソ戦争」開始。

・なぜ、ソ連は第2次世界大戦の終わりになって対日戦に参戦したのか。

・日本はなぜこの直前まで、ソ連の仲介に期待したのか。

・玉音放送が流れた8.15以降も、なぜ日ソ両軍は戦い続けたのか。

・日ソ戦争は、その後の朝鮮半島の分断、満州における国共内戦、シベリア抑留・中国残留孤児・北方領土問題の起点である。

1 日ソ開戦(1945.8)に至るまでの米ソの思惑

○ソ連の対日参戦を長らく待ち望んでいたのは米国(ローズヴェルト大統領)である。だが、ソ連はそれどころではない。

(米国)1941.7.10(日米開戦5か月前)ローズヴェルトは、ウマンスキー駐米ソ連大使に「ソ連の航空機で、厚紙でできた日本の街に焼夷弾を降らせてほしい。」

(ソ連)1941.6.22独軍が独ソ不可侵条約(1939.8.23締結)を破棄してソ連に侵攻。防戦一方のソ連は米の支援を期待。日独との二正面作戦は避けたい。

(米国)1943.5.12ローズヴェルト大統領は、チャーチル英国首脳との会談で、「対日戦では、中国軍(蒋介石主席・重慶国民政府)は頼りない、ソ連の参戦は絶大な効果がある。」

(ソ連)1943.11.28米英ソによるイランのテヘランでの会談、スターリン人民委員会議議長は「対日戦に加わるのは、ドイツが崩壊した時だろう」と述べて、参戦をほのめかす。米英にアジアよりもヨーロッパでの対独戦に集中してほしいという意図。

○1944.夏、ソ連軍が独軍の主力を壊滅させる。→対日戦の協議が始まる。

(ソ連)1944.10モスクワ会談で方針転換。スターリン「対日作戦計画」を米英に提示、(見返り)戦闘部隊を支える兵站を要求。

(ソ連)1945.2.4~ソ連のヤルタで戦後処理について会談。秘密協定(米英ソの口約束)を締結しドイツ降伏後2,3カ月以内のソ連の対日参戦を決定。ソ連への見返りは、①旅順を租借地に、大連を自由港に。②モンゴル人民共和国《外モンゴル》の現状維持、満州鉄道や港湾の利権は蒋介石の同意が必要。③満州の鉄道は中ソ共同経営に。(日本関連条項)南樺太(1905までは露帝国領)は「返還」し、千島列島は「引き渡す」。

(米国)ソ連の参戦によって、米兵の犠牲を抑えて日本を無条件降伏させたい。1945.4沖縄戦で米軍死者続出。(中国に配慮しながらもソ連の要求を飲む)

1945.4.12ローズヴェルト病死、トルーマンが継承。

1945.5.9独降伏。→ヤルタ秘密協定によるソ連の対日参戦の期限は1945.8.9に。

(米国)原爆開発と並行して、1945.6.18、九州への上陸(オリンピック)作戦の開始を1945.11.1と決定。だが、引き続きソ連参戦を求める。

1945.7.17~8.2ドイツのポツダムで会談(米・英・ソ)。対日戦、最後の協議。

(ソ連)スターリンはトルーマンに参戦を1週間延期して8.15と伝える。

(米国)トルーマンあせらず。(1945.7.16原爆実験に成功している)

(ソ連)だが、既にスターリンは、ベリヤ内務人民委員から原爆成功情報を得ている。

○通説は、原爆開発によって米国に余裕が生まれ、ソ連の対日参戦を望まぬ方向に考え方が転換したというものだが、政治的には両国に溝ができてきたが、軍部の協力関係は進んだ。

(米国)引き続き米軍幕僚はソ連参戦により対日戦を早期に終結させることを希望。7.26米ソ参謀長会議で、ソ連軍の作戦区域を満州・朝鮮北東部・南樺太・千島列島最北部とする。

1945.7.26ポツダム宣言(米・英・中・三国宣言)発表、日本に無条件降伏を求める。宣言文は米国単独で作成、英国とは協議するもソ連とは協議なし

○(日本)スターリンの署名のない宣言を、ソ連が終戦を仲介する気をまだ捨てていないと解釈し、日本は同宣言を黙殺した。(次節でソ連への期待を説明)

(ソ連)日本の宣言黙殺は、日本の降伏前に参戦し利権(ヤルタ協定)を拡張したいソ連の思惑通りとなる。

1945.8.6広島へ原爆投下(ソ連への予告なし)→米ソ関係の悪化

○(米国)日本や東アジアの戦後処理にソ連の関与を望まず。(ソ連はずし!)

○(ソ連)1945.8.7スターリン、原爆投下によってソ連の参戦前に降伏が早まると予想し、参戦予定の繰り上げ(8.15→8.9)を命令した。

○これは、独降伏後3カ月という期限(8.9)を守るために参戦を繰り上げるのではなく、ヤルタ協定(3首脳による私的な口約束)で約束された利権を自力で手に入れるよりほかなくなったため。(ローズヴェルト死去、チャーチル失脚)

1945.8.8(日本時間午後11時、モスクワ時間17時)、ソ連モロトフ外務人民委員、佐藤尚武駐ソ大使に対日宣戦布告文を渡す。2時間後、米英大使に8.9に日本と戦争状態に入ると告げる。

(米国)1945.8.9長崎原爆投下。ソ連が参戦しても原爆投下を止めなかった。8.14トルーマン、元英国王ウィンザー公爵に3発目を「東京に投下するより他ない」

1945.8.10日本は条件付きでポツダム宣言受諾を米国に伝える。

 


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