まずは丹波篠山城の見学です

丹波篠山は
ビールのつまみである黒い枝豆が有名です。
篠山は京都から山陰・山陽へ通じる街道の、または大阪から山陰へ抜ける街道のかなめでした。
そこに目をつけたのが徳川家康。
家康は、関が原の戦いで勝利を収めると、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
しかし、大坂城にはいまだ豊臣秀頼(秀吉の長男)が健在で、なおかつ豊臣家ゆかりの西日本の諸大名たちもまだ勢力を温存していました
そこで、家康は西日本の諸大名のちから(資金)を落とすと同時に大坂城の包囲網の一環として篠山に城を作りました
冬の陣・夏の陣ではここから大阪城攻撃に出陣したのです
その後西日本の外様大名を監視し、牽制する役目を果していました


二の丸へ至る最後の鉄門(くろがね)跡

この城には天守閣は造られませんでした。戦争用の城?

二の丸跡と大書院(右)・資料館(左)
大書院は1944年(昭和19年)に火災焼失したものを、2000年(平成12年)に復元しました。
それでは中に入っていきます。

大書院 上段の間


障壁画(狩野派)

中央が篠山富士(高城山)

篠山小学校
なんとお城の中に小学校があります
運動場の向こうの並木の後ろが外堀です。
つづく
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丹波篠山は

篠山は京都から山陰・山陽へ通じる街道の、または大阪から山陰へ抜ける街道のかなめでした。
そこに目をつけたのが徳川家康。
家康は、関が原の戦いで勝利を収めると、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
しかし、大坂城にはいまだ豊臣秀頼(秀吉の長男)が健在で、なおかつ豊臣家ゆかりの西日本の諸大名たちもまだ勢力を温存していました

そこで、家康は西日本の諸大名のちから(資金)を落とすと同時に大坂城の包囲網の一環として篠山に城を作りました

冬の陣・夏の陣ではここから大阪城攻撃に出陣したのです

その後西日本の外様大名を監視し、牽制する役目を果していました



二の丸へ至る最後の鉄門(くろがね)跡

この城には天守閣は造られませんでした。戦争用の城?

二の丸跡と大書院(右)・資料館(左)
大書院は1944年(昭和19年)に火災焼失したものを、2000年(平成12年)に復元しました。
それでは中に入っていきます。

大書院 上段の間


障壁画(狩野派)

中央が篠山富士(高城山)

篠山小学校
なんとお城の中に小学校があります

運動場の向こうの並木の後ろが外堀です。
つづく


