さて、いわゆる「文明の衝突」の問題である。歴史を紐解いて十字軍を見ればいい。どっちが正しくどっちが間違っているなどということは一概に言えないのである。なんとなれば、どこに視座を置いて見るかによって「世界の見え方」は自ずと異なって来るからである。只一つ言えることは、『イスラム社会対西欧社会の非和解的対決』乃至は『アラブ対イスラエルの非和解的対決』⇒「どちらが聖地エルサレムを占有するか」などを言うのであれば、その結果を決めるのは「力の強い方が勝つ」即ち「より多く敵を殺し敵にダメージを与えた方が勝つ」ということだけである。人類の歴史がどれだけあるか知らないが(!)我々の知的水準はその程度のことなのである。だから、幸か不幸かイスラム教徒でもキリスト教徒でもない不信心でアッパラパーな我々としては、出来ることなら「君子危うきに近寄らず」を第一として遠巻きに「無益な殺し合いはお止めなさい。もうそういうことはお止めなさい」と説得力があろうがなかろうが、口を酸っぱくして言い続けるしかないのである。今アメリカの軍需産業はいったいどうなっているのか。ヴェトナム戦争のときと同様、相も変わらず自国の若者たちの生血を吸って成長を遂げているのではないか!?オバマが来日を延期せざるを得なくなったあの米軍施設内の銃乱射事件は何だったのか。13名の米兵を基地内で無差別に射殺した軍医はイスラム教徒で、近く中東へ派遣されることが決定して悩んでいたと言う。彼は国家に対する忠誠と自己の思想信条の自由との間で板挟みとなってのっぴきならないジレンマに陥り自己同一性が引き裂かれ破壊されてしまったということは容易に推測出来る。国家と雖も1つのシステムに過ぎないということであれば畢竟我々に残された最後の指標は「敵は制度、味方はすべての人間」(埴谷雄高)というスローガン以外にないのである。 . . . 本文を読む