教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

夏休みの自由研究は必要か?

2022年08月19日 | 学校教育
 戦前のことは分からないが、戦後の日本の学校教育の中でいわば夏休みの定番となっているものに「夏休みの自由研究」なるものがある。自分が小学生の子どもだった時にも幾つかやった記憶が甦る。

 「自由研究」とは言っても小学生の子どもが考えてやることだからたかが知れている。自分は木を削り出した駒や滑車を組み合わせた手回し扇風機なんていうものだったと記憶する。実に他愛ないものだが、やはり時代を反映している。

 今もまだ、この悪しき伝統(?)は続いている。敢えて「悪しき」というのは、本当は学校から解放されて楽しいはずの夏休みがいささか憂鬱になるからである。「自由研究」と言いながら、子どもにとっては半ば強制の思いである。「自由」と言いながらちっとも自由じゃない。本来の趣旨に反する。

 日本の場合、夏休みは1学期と2学期との学期の間にあたり、9月新年度新学期の欧米のような完全な休みには当たらない。でも、「自由研究」というのであれば、やるもやらないも子どもの自由にさせてはどうなのか?

 子どもが自ら求めて「お仕事体験」をしたりタブレット等で自由に調べ物をするのならいいが、夏休みの宿題をお助け端末に頼ったり、宿題代行サービスの業者に任せるくらいなら、むしろない方がましだろう。ただ、勉強嫌い、学校嫌いの子どもを増やしているだけのような気もする。
 それで多少仲間に差をつけたところで何になる?かえって国の貧しい教育行政を見るような気がする。

 そろそろこの悪しき伝統を見直してはどうか?


埼玉県戸田市のコロナ対策の学校給食

2021年09月09日 | 学校教育

 

 

人間、恐怖心に煽られると、妄想もたくましくなり、バカな思考に際限がなくなる。

埼玉県戸田市で、コロナ騒動にパニクって学校教育関係者がとった対応策がこれ。
他市、他県ではどうしているのだろうか?

幸い、この措置は9月11日で終わるそうだが、他愛のない笑い話で済むことを願うばかりだ。

 

「コッペパン1個と牛乳1つ」で波紋、戸田市の学校給食 育ち盛りなのに…意外な理由とは(オトナンサー) - Yahoo!ニュース

 新型コロナウイルスの流行が続く中で多くの小中学校が新学期を迎えましたが、埼玉県戸田市の学校給食の献立がネット上で波紋を広げています。市内の...

Yahoo!ニュース

 

 


コロナ禍の今、学校とは何かを考えよう

2020年11月29日 | 学校教育

文部科学省は8月に、新型コロナウイルス感染症の影響により今年の特例として、教育実習を行うことの難しさから、実習生に大学の座学で良しとすることにした。

しかし、小学校では9割以上、中学でも5割の新任教員がいきなりクラス担任を任されることになる。そんな状態で将来の社会を担う子どもたちの教育指導が務まるのか?の声が強い。毎日新聞はそこに焦点を当てて報道している。

教育界も例外ではない新型コロナ禍は、ただでさえも問題の多い今の学校教育を直撃した。それを従来の枠組みで何とかしようとするからますます上手くいくはずがない。

現場で教育自習をせず大学での座学でも良いことにすると、文部科学省が苦し紛れの代替策として代案を出したのであれば、他にもっと優れた案があるのであれば別だが、何もないのであれば先ずはその方向でポジティブに考えてみるべきではないか。

ただ批判し愚痴を言うだけではあまりにも無責任で芸がない行為ではなかろうか?

どだい、今の教育方法が絶対の基準なのか?そこに今までも問題はなかったのか?そこにメスを入れぬ限り、教育界の劣化はますます激化するだろう。

もっと言えば、「子どもたちに今の学校制度は本当に必要なものなの?」という疑問にもぶつかる。もしかして、かなりの子どもたちにとって今の学校教育制度は必要悪、なくては困るが(文科省が教育の手段を独占していて、他の機関やシステムがそれに取って代わることができないから)そのために他の手段を実行できない妨げ、桎梏になっているかもしれないのだ。

 

親御さんの多くだって、疑問に思っている人は多いが、敢えて踏み出すだけの勇気もないし、そのデメリットを自ら実践する気概もない。「取り敢えず」「かのように」という対応によって様子見の状態というところだろうか。

 

withコロナ、afterコロナが叫ばれている。もう新型コロナウイルス角さん前の状態には戻れないだろうという。

ならば、取り敢えず今は代替措置に従ってはいても、それはあくまでも代替案に過ぎない。間に合わせである。新規のシステムではない。

ところが、子どもたちの日々の成長に待ったはない。絶えず生成し流転している。だから、子どもたちの地平に立つならば、今ここで次なるステップの案内がほしいのだ。

 

世の中には面白い経歴を持つ人、個性的な生き方を選択して現在に至る人たちがいる。周りのみんながことごとく反対するから敢えてその道を選んで成功したような人たちだ。リクルートの江副氏、ライブドアの堀江氏、指折りの高額納税者の斎藤氏、ZOZOタウンの前澤氏、れいわ新選組の山本氏…いやいやこれはほんの一部かも。

彼らに共通しているのはみな途中で学校を捨てた人たちであるということ。彼らにとって学業を続けることはまさに桎梏になっていたということだろう。

もちろん、学校を捨てればなんとかなるという単純な話ではない。だが、彼らにとってもはややるべきことは他にあった。考えるべきものは他にあった。そういうことだろう。

 

彼らは我々に何を語っているか?新型コロナ禍によって学校という子どもの教育システムがガタガタになっている今、よく考えたいものだ。

 

毎日新聞の記事はこれ。

 

 


「未成年者誘拐で中学教頭逮捕」が問いかけるもの

2020年10月08日 | 学校教育

未成年者誘拐で現職の中学校長が逮捕された事件で、校長会でも動揺が広がっている。

この記事では巧みに避けられているが、学校の管理職の立場の人間が未成年者誘拐事件を起こしたことの衝撃は大きかろう。

「学校が危ない!」「学校は危ないところ」ということが現実のものとなった。「子どもを学校に通わせていていいものか?」という考えさえ生まれて来よう。

このコロナウイルス禍を契機に、「通学」という、明治の学生発布以来自明のことと考えられてきた学校教育システムを再考する時が来たのかも知れない。

 


学校教員の養成に問題がありはしないか

2020年09月09日 | 学校教育

学校の教員の揚げ足を取るようで申し訳ないのだが、なぜこの手の人が子どもの指導者然として現場で教員をやっているのだろう?なぜ、こうなる前に他の教師からの注意や管理職からの指導等が入らなかったのだろう?

記事から判断したところ、このような言動を学校内部では常識のレベルであったのか、この教員はこれが正しい指導の一環だとして疑っていなかったようだ。子どもから聞いた保護者からのクレームとして初めて問題化している。それにそれを指摘されての休職が反省からではなく理不尽なイジメにあった子どもの逃げのようにも映るのだが。

学校教育の現場が社会一般の感覚からズレているということなのか。もしそうだとすると、単にこの学校にとどまらず、日本の教員養成の根幹に関わることとも考えられはしないだろうか。建前と本音がこんなに乖離していて健全な学校教育などできるのだろうか。

特別支援学級の児童を「邪魔だと思う人は手を挙げて」…小学教員、一緒の授業の場で

 


新型コロナを騙った教育実習生の愚挙に思う

2020年09月09日 | 学校教育

教育実習生が単にサボりたいがために学校に「新型コロナウイルスに感染した」と虚偽の報告。

将来教師を志す大学生とは思えぬ愚挙。そういう「軽い(本人にとっては)嘘」がどんな重大な影響を及ぼすかまるで想像できない人間が、こういう愚行でもポロッと漏らさぬ限り、簡単に教員の資格を得てしまう。

そういう危うさ、欠陥が今の教員採用試験にはあるのではないか。単に資格さえ得れば、誰でも教員になれるかのようだ。世間で学校の教員のあり得ないような不祥事がいろいろ起きていて報道もされている。(教員だから報道の対象にもなりやすいのだろうが)

しばしば上からの教員への圧力が不満を持って語られる、実際にその理不尽さに呆れることもあるが、一方ではそういうパワハラめいた介入を許す土壌が教員採用の過程にもあるのではないかと思わざるを得ない。

海外で教育が重んじられている国では教員の身分もそれなりに高い、だが、それに見合った「修士」等の資格や素養も要求される。日本でも将来の日本を担う人材を養成する意味からも「社会人教師」があったりするが、必ずしもうまくいっていないようだ。このウイズコロナ、アフターコロナを契機に抜本的な見直しをしてみてはどうだろう?

 

 

 

 

 

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4073530.html


子どものいじめ自殺の背後にあるもの-----家庭と学校と

2015年07月08日 | 学校教育


「<矢巾中2死亡>「いじめ?」ノートにに自殺示唆」 ← クリック

▼今朝の河北新報の記事である。学校側の言い逃れ、責任回避の姿勢ばかりが露骨に見える。担任はノートを通して本人からいじめられる悩みを訴えたり、死の予告までして苦しんでいる事実を確認していながら、本人の声には一切応えようとはせず、本人の家庭にも電話一本かけていない。それでいて学校側は「アンケートでは、いじめは確認されなかった」といけしゃあしゃあと言いのける仰天の対応ぶり。
学校というところの相変わらずの責任逃れの姿勢である。「またか!」と思う。

▼ところが、一般の親御さんは子どもの命まで含めて学校に丸ごと預けてしまう。完全にお任せで無防備だ。学校も困るだろう。「大事な我が子」と言いながら、何一つ対策を考えていない。日頃から自分で自分の命を守る基礎的な感覚くらいは養っておきたいところだが、それも全くの人任せ、「学校が何とかしてくれるだろう」の感覚である。
学校教育が日本に導入される前の寺子屋教育の時代には、少なくとも我が子の教育は各家庭が責任をもって実行していたはずである。我が子を一人前の成人に育てることは親の責務であったのだから。愛すればこそ厳しさもあった。

▼学校が子どもの教育に十全であれば問題はない。ところが、学校がそうであったことは一度もあるまい。そこまで学校に依存するかという問題もある。学校の能力の限界を超えていることを学校に求めていることはないか?まだ年端の行かない中2の子どもが人生に絶望して自殺するなどということは決してあってはいけないことだが、学校には絶えずいじめがあり、場合によっては自殺者も出ている。これが現実の学校の姿である。
教師たちは子どもの教育のプロなのだ。あらゆることを想定して生徒たちの生きる多種多様な現実と向き合ってほしいものだ。保身に走る醜態など誰も見たくない。たとえそうならざるをえない現実があるとしてもだ。

▼保護者もまた、どういう状況の学校に我が子を通わせているかを把握していなければなるまい。学校が子どもの居場所ではなくなった時、自分の命を守るためには一旦身を引いてもいいことを、なぜ子どもによく言い聞かせていなかったのか?なぜ親御さんは日々の接触の中で学校を離れてもいいことを子どもに伝えていなかったのか?もし、親が子どもの存在を丸ごと受け入れる姿勢を見せていたなら、子どもは決して死を選ぶことはないのではないか?
生徒が死してもなお責任逃れに終始する学校の姿は実に醜い。しかし、死を選択した子どもがあらゆる建前を投げ捨てて親の懐に飛び込んではこなかったという現実はさらに重い。親として悔いても悔やまれぬ思いでいっぱいだろう。

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日本の歴史の勉強を現代から学ぶように組み換えてはどう?

2014年01月22日 | 学校教育
はぐれ雲に乗って…日々の雑感から20140122

▼宅配便の人が小包を持ってきた。会社名はサガワではない。コンシエル○○だとか。そう聞くと思い浮かべるのは「コンシェルジュ」というフランス語。ホテルでは客の要望に応じていろいろ手配してくれる大変有難い人だろうが、日本語にすると何だろう?「赤帽さん」?「便利屋さん」?「御用聞きさん」?秋葉原用語でいうならば、定めしメイドに対しての「執事」かな?この業界には、異業種が入り乱れていると言われるが、その凄まじさを実感する思いだ。

▼これは何も宅配業界だけに限るまい。時代の先端を象徴する業種はどこも「生き馬の目を抜く」状況だ。「男子三日会わざれば…」という諺があるが、年々歳々どころか日々変化し続けて止まない。スマホに「二年しばり」というのがあるが、大抵の製品は三年もするともう廃棄の対象だ。人々の生活もそれに振り回される

▼こういう時代だから、学校で教師が生徒に教えることと現実とのギャップも激しい。「学校知」が現実に対応しなくなって久しいが、そろそろ再考すべきかも。昔秀才と言われた「引きこもり」の人などを見てもそう思う。もしかして「ネットウヨ」等と言われる人にも多いかも。現実は多様であったり悲惨であったりしても、学校でつくられた自己の興味と関心だけに依拠する世界は余りにも画一的公式的である

歴史の勉強なども学校に従っていたら一向に戦後まで行かない(逆に避けているのかな?)。その結果、ろくに明治以降の日本の歴史を知らない連中が喚くことになる。ヘイトスピーチ等もその類だろう。そこで一つの提案。この際、歴史の勉強の手順を逆転させてはどうか。つまり、現代から学ぶのである。少なくとも明治以降の歴史を先にやってはどうか?そうすれば政治についても経済その他についてももっとまともな理解のもとに議論出来るようになるのではないか。

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親が子どもに求めるものは何か?(2) ~教育の先にあるものは何?~

2011年08月31日 | 学校教育
(①から続く)

▼ひと言で言うならば「とりあえず、代替がないから」となる。もはや「学校の先生が言う通りにやっていれば何とかなる」とはほとんどの親御さんも思ってはいない。そういう学校的教育神話は長年の低迷する日本経済や老舗の会社も立ちいかなくなる現状を見て、もはや頭から信じられるものではなくなっている。かつて雪崩を打つように突き進んだ産学協同路線は結局のところ学問も経済をもダメにしてしまった。しかし、「替わりがない」。だから、「たとえそれが完全に頼りにはならなくても、当面の間に合わせにはなるだろう」との思いで、取り敢えずは投げ出さずに塾通いをさせている、というのが真相ではないか。ところが、今回の未曾有の出来事の連続は完全にそういう思いさえも吹き飛ばすに十分であった

3月11日に東日本を襲った大地震は1000年に一度の大災害をもたらしたと言うが、東北人の悲しみをこらえた我慢強さは世界の驚嘆と賞賛を招いた。しかし、それに誘発されて引き起こされた福島第一原発事故の惨状が明らかになると「羊のように黙ってなぜ怒らないのか!」「ただ耐え忍ぶだけの奇異な日本人!」ということが強調された。しかし、真に批判の矛先が向けられるべきはそこではなかった。テレビやマスコミは、かつての自民党政権と一緒になって原発推進の強力な旗振り役を演じたという負い目があるからなのか、事実をひた隠しにして、盛んに「安心安全神話」を振りまき始めたのである。

▼そしてそこには事態の深刻さに気付いた国民や国際社会から不安や懸念の声が高まる中でも、明確な根拠もなく安全神話を振り撒いたり、国際基準からすれば明らかに異常な数値であるにもかかわらず平気を装った人々がいたのである。それは大臣等の政治家であれ、試験でトップまで上り詰めた高級官僚であれ、東大で研究に励み教鞭を取る原子力関連の学者であれ、人の命を預かる医師であれ、東電等の企業のトップであれ、広報に携わる様々な評論家であれ、全ては「命よりマネー」のために魂を売った人々のようだった。しかし、そこに登場した人々は、その日までは、自己実現に向けて寸暇を惜しんで勉強し、出来るならなりたいと受験勉強に励む子どもたちの理想を体現した、人生のモデルとでも言うべき人々でもあったのである。どうしてこういうことになってしまったのか。

ご存知だろうか、戦後の日本の教育は権威による上からの「畏怖」を子どもたちに植え付けることを一つの目標としてきたことを。確かそういう軍事教練的な教育のあり方は日本の敗戦によって消え去ったはずであった。学校の教員たちは生徒たちのあたら若き命を散らせたことを詫び、教科書を墨で塗り潰し「今日から民主主義、国民主権の世の中だ」というパフォーマンスも見せてくれたではないか。しかし、戦後、たくさんの物事が大きく変化した中でも日本の教育の中身は基本的には何も変わらなかったのだ。(たとえば、1963年文部省発行の「生徒指導の手引き」にはこうある。「権力 ー 支配 ー 盲従関係は、もっぱら外からの強制的な力によるもので、指導されるものは指導者に対して恐怖心を感じ、その恐怖心を免れるために服従する。きまりに従う行動をさせるためには、このような権力ー支配ー盲従関係も効果的である…」)

▼文字通り未曾有の大地震と原発事故によって図らずも海外から賞賛と批判の言葉を浴びることになった、争いを好まず権威権力に従順な極めて日本的な振る舞いは、良きにつけ悪しきにつけこうした日本的教育の偉大な成果の現れであったとも言える。テレビや新聞に登場した多くの原発推進派の人たちもそういう成果により功成り名を遂げた人々でもあった。子どもたちがっ将来を夢見て勉学に励むこと自体はとても素晴らしいことである。しかし、そういう人たちが今後も相変わらず子どもたちのなりたい人のモデルであり続けるべきなのであろうか。もし、そうなら、日本の子どもたちの未来は余りにも暗く可哀想である。

本来、学校の子どもたちを救う政府機関であるはずの文部科学省までもが子どもたちを放射能汚染を放置する側に立ち、子どもたちを直接保護する立場にある教師たちもまた子どもたちの命の直接の加害者となっている現実がある。少なくとも今、このガラパゴス化した日本の教育をもっと国際基準に沿ったものに開放することが急務ではなかろうか。今後、我々はどういう形で子どもたちに目指すべき目標を示せるのであろうか。それが今我々ひとりひとりに問われている。

※そういう日本の教育自体が閉塞状況にある中、衆議院厚生労働委員会で政府の対応を激しく批判した児玉龍彦東京大学先端科学技術研究センター教授、今年ノーベル化学賞を受賞した米パデュー大学の根岸英一教授、経団連と決別した楽天社長の三木谷浩史氏、自然エネルギー財団の設立に私財を投入したソフトバンクの孫正義氏、そして俳優の山本太郎氏、その他諸々の子どもたちの命を守る活動を地域で続けている人たち…そういう人たちの衣着せぬ発言や行動力が、来るべき日本の将来像を照らし出してくれている。この文字通りの日本沈没さえ絵空事ではなくなりつつある日本で、こういう話題は唯一明るい展望かもしれない。それだけに、一層子どもたちの命を守る取り組みが求められているのだ。

※「親が子どもに求めるものは何か?」ではなく「親が子どもに与えられるものは何か?」になりましたね。3月11日はそれまで良しとされた日本の教育そのものをも吹き飛ばしたのだと感じています。その意味で、この一文は「今の教育の先にあるものは何?」ということをも漠然と表しているかなと思っています。


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元教育長の著書出版の報道に思う:日本の教育の成果

2011年08月05日 | 学校教育

元埼玉県教育長の稲葉喜徳氏が花伝社というところから「私たちの教育紀行」というを著書を出されたという。それ自体は教育者にはよくある話で、教育長を務めたとなれば尚更のこと、別段取り立てるほどのことでもない。在任中批判者がなかったわけではないが、概ねそれなりに仕事をされた方ではなかったか。

▼その稲葉氏がその著書の中で、日本の教育をドイツのそれと比較し、日本が企業国家的な社会のあり方から脱却し、ドイツのように教育に十分な予算を配分する国家になる必要性を訴えているらしい。それはそれで意義ある訴えなのだが(なぜ、教育長の時にやらなかった?)、それよりも氏が「子どもたちが下を向き、自信を失っている」と感じているらしいことの方に興味を持った。(読売新聞の記事から)

▼海外からは日本の経済活動は「失われた20年」と評されるが、今回の大地震・大津波そして福島第一原発の大事故も含めて、日本人の我慢強さや粘り強さが驚異の眼差しで賞賛されると同時に「こういう事態になってなぜ日本人は怒らないのか?」という激しい批判ともなって返ってきた。「不思議の国日本」の姿がここでも健在だ。だが、言うなれば、これこそ近代日本国家が営々と築き上げてきた日本の教育の偉大な成果だったのではないか

▼日本の教育は一貫して権威・権力への忠誠と盲従を子どもたちに説き、教化してきた。まさにそれは和魂洋才の実践であり、日本の学校教育は欧米と向かい合う中で各国に対抗できる良質の部品であると同時に強者には従順な羊である大量の国民を育成することに邁進してきた。日本が今、不如意とはいえ国際社会の競争の中でそれなりに高い位置を占めているのはそのためである。しかし、かつて美徳とされたものが今も通用するとは限らない。国内で良しとされてきたものがそのまま国際社会でも通用するとも言えない。むしろ今ではそれが海外から眺める人には日本固有の奇妙なガラパゴス化現象として映っているのだと言えよう。

▼原発事故を見れば端的に分かるように、それは日本の未来を限りなく暗くし、同時に海外に最悪の厄災をもたらすに至っている。もしそれが結果として教育の招いたものであるならば、我々は今一度教育のあり方を根本から考え直さなければなるまい。そして、そのための実践活動を学校現場が率先して行わなければならない。そうしなければ今後、日本は国際社会の中で居場所を失うことになるのではないか?。もはやOECD主催のPISAのテストでどこがトップであるとか、日本が上がっただの下がっただののレベルではないのである。


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