文部科学省は8月に、新型コロナウイルス感染症の影響により今年の特例として、教育実習を行うことの難しさから、実習生に大学の座学で良しとすることにした。
しかし、小学校では9割以上、中学でも5割の新任教員がいきなりクラス担任を任されることになる。そんな状態で将来の社会を担う子どもたちの教育指導が務まるのか?の声が強い。毎日新聞はそこに焦点を当てて報道している。
教育界も例外ではない新型コロナ禍は、ただでさえも問題の多い今の学校教育を直撃した。それを従来の枠組みで何とかしようとするからますます上手くいくはずがない。
現場で教育自習をせず大学での座学でも良いことにすると、文部科学省が苦し紛れの代替策として代案を出したのであれば、他にもっと優れた案があるのであれば別だが、何もないのであれば先ずはその方向でポジティブに考えてみるべきではないか。
ただ批判し愚痴を言うだけではあまりにも無責任で芸がない行為ではなかろうか?
どだい、今の教育方法が絶対の基準なのか?そこに今までも問題はなかったのか?そこにメスを入れぬ限り、教育界の劣化はますます激化するだろう。
もっと言えば、「子どもたちに今の学校制度は本当に必要なものなの?」という疑問にもぶつかる。もしかして、かなりの子どもたちにとって今の学校教育制度は必要悪、なくては困るが(文科省が教育の手段を独占していて、他の機関やシステムがそれに取って代わることができないから)そのために他の手段を実行できない妨げ、桎梏になっているかもしれないのだ。
親御さんの多くだって、疑問に思っている人は多いが、敢えて踏み出すだけの勇気もないし、そのデメリットを自ら実践する気概もない。「取り敢えず」「かのように」という対応によって様子見の状態というところだろうか。
withコロナ、afterコロナが叫ばれている。もう新型コロナウイルス角さん前の状態には戻れないだろうという。
ならば、取り敢えず今は代替措置に従ってはいても、それはあくまでも代替案に過ぎない。間に合わせである。新規のシステムではない。
ところが、子どもたちの日々の成長に待ったはない。絶えず生成し流転している。だから、子どもたちの地平に立つならば、今ここで次なるステップの案内がほしいのだ。
世の中には面白い経歴を持つ人、個性的な生き方を選択して現在に至る人たちがいる。周りのみんながことごとく反対するから敢えてその道を選んで成功したような人たちだ。リクルートの江副氏、ライブドアの堀江氏、指折りの高額納税者の斎藤氏、ZOZOタウンの前澤氏、れいわ新選組の山本氏…いやいやこれはほんの一部かも。
彼らに共通しているのはみな途中で学校を捨てた人たちであるということ。彼らにとって学業を続けることはまさに桎梏になっていたということだろう。
もちろん、学校を捨てればなんとかなるという単純な話ではない。だが、彼らにとってもはややるべきことは他にあった。考えるべきものは他にあった。そういうことだろう。
彼らは我々に何を語っているか?新型コロナ禍によって学校という子どもの教育システムがガタガタになっている今、よく考えたいものだ。
未成年者誘拐で現職の中学校長が逮捕された事件で、校長会でも動揺が広がっている。
この記事では巧みに避けられているが、学校の管理職の立場の人間が未成年者誘拐事件を起こしたことの衝撃は大きかろう。
「学校が危ない!」「学校は危ないところ」ということが現実のものとなった。「子どもを学校に通わせていていいものか?」という考えさえ生まれて来よう。
このコロナウイルス禍を契機に、「通学」という、明治の学生発布以来自明のことと考えられてきた学校教育システムを再考する時が来たのかも知れない。
学校の教員の揚げ足を取るようで申し訳ないのだが、なぜこの手の人が子どもの指導者然として現場で教員をやっているのだろう?なぜ、こうなる前に他の教師からの注意や管理職からの指導等が入らなかったのだろう?
記事から判断したところ、このような言動を学校内部では常識のレベルであったのか、この教員はこれが正しい指導の一環だとして疑っていなかったようだ。子どもから聞いた保護者からのクレームとして初めて問題化している。それにそれを指摘されての休職が反省からではなく理不尽なイジメにあった子どもの逃げのようにも映るのだが。
学校教育の現場が社会一般の感覚からズレているということなのか。もしそうだとすると、単にこの学校にとどまらず、日本の教員養成の根幹に関わることとも考えられはしないだろうか。建前と本音がこんなに乖離していて健全な学校教育などできるのだろうか。
特別支援学級の児童を「邪魔だと思う人は手を挙げて」…小学教員、一緒の授業の場で
教育実習生が単にサボりたいがために学校に「新型コロナウイルスに感染した」と虚偽の報告。
将来教師を志す大学生とは思えぬ愚挙。そういう「軽い(本人にとっては)嘘」がどんな重大な影響を及ぼすかまるで想像できない人間が、こういう愚行でもポロッと漏らさぬ限り、簡単に教員の資格を得てしまう。
そういう危うさ、欠陥が今の教員採用試験にはあるのではないか。単に資格さえ得れば、誰でも教員になれるかのようだ。世間で学校の教員のあり得ないような不祥事がいろいろ起きていて報道もされている。(教員だから報道の対象にもなりやすいのだろうが)
しばしば上からの教員への圧力が不満を持って語られる、実際にその理不尽さに呆れることもあるが、一方ではそういうパワハラめいた介入を許す土壌が教員採用の過程にもあるのではないかと思わざるを得ない。
海外で教育が重んじられている国では教員の身分もそれなりに高い、だが、それに見合った「修士」等の資格や素養も要求される。日本でも将来の日本を担う人材を養成する意味からも「社会人教師」があったりするが、必ずしもうまくいっていないようだ。このウイズコロナ、アフターコロナを契機に抜本的な見直しをしてみてはどうだろう?
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4073530.html
「<矢巾中2死亡>「いじめ?」ノートにに自殺示唆」 ← クリック
▼今朝の河北新報の記事である。学校側の言い逃れ、責任回避の姿勢ばかりが露骨に見える。担任はノートを通して本人からいじめられる悩みを訴えたり、死の予告までして苦しんでいる事実を確認していながら、本人の声には一切応えようとはせず、本人の家庭にも電話一本かけていない。それでいて学校側は「アンケートでは、いじめは確認されなかった」といけしゃあしゃあと言いのける仰天の対応ぶり。
学校というところの相変わらずの責任逃れの姿勢である。「またか!」と思う。
▼ところが、一般の親御さんは子どもの命まで含めて学校に丸ごと預けてしまう。完全にお任せで無防備だ。学校も困るだろう。「大事な我が子」と言いながら、何一つ対策を考えていない。日頃から自分で自分の命を守る基礎的な感覚くらいは養っておきたいところだが、それも全くの人任せ、「学校が何とかしてくれるだろう」の感覚である。
学校教育が日本に導入される前の寺子屋教育の時代には、少なくとも我が子の教育は各家庭が責任をもって実行していたはずである。我が子を一人前の成人に育てることは親の責務であったのだから。愛すればこそ厳しさもあった。
▼学校が子どもの教育に十全であれば問題はない。ところが、学校がそうであったことは一度もあるまい。そこまで学校に依存するかという問題もある。学校の能力の限界を超えていることを学校に求めていることはないか?まだ年端の行かない中2の子どもが人生に絶望して自殺するなどということは決してあってはいけないことだが、学校には絶えずいじめがあり、場合によっては自殺者も出ている。これが現実の学校の姿である。
教師たちは子どもの教育のプロなのだ。あらゆることを想定して生徒たちの生きる多種多様な現実と向き合ってほしいものだ。保身に走る醜態など誰も見たくない。たとえそうならざるをえない現実があるとしてもだ。
▼保護者もまた、どういう状況の学校に我が子を通わせているかを把握していなければなるまい。学校が子どもの居場所ではなくなった時、自分の命を守るためには一旦身を引いてもいいことを、なぜ子どもによく言い聞かせていなかったのか?なぜ親御さんは日々の接触の中で学校を離れてもいいことを子どもに伝えていなかったのか?もし、親が子どもの存在を丸ごと受け入れる姿勢を見せていたなら、子どもは決して死を選ぶことはないのではないか?
生徒が死してもなお責任逃れに終始する学校の姿は実に醜い。しかし、死を選択した子どもがあらゆる建前を投げ捨てて親の懐に飛び込んではこなかったという現実はさらに重い。親として悔いても悔やまれぬ思いでいっぱいだろう。
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