戸塚ヨットスクールでの投身自殺(?)から思うこと
#「教育行政を見守る民間の第三者機関が必要では(2)?」の投稿を予定していたが、緊急の投稿内容を挿入します。
▼戸塚ヨットスクールで飛び降り自殺?
19日午前、愛知県・美浜町にある戸塚ヨットスクールの寮の屋上から、18歳の女性が飛び降りて死亡した。警察は、自殺の可能性が高いとみて調べている。──というニュースを目にした時、痛ましさと同時に「またか──」という思いが脳裏を横切った。
▼戸塚ヨットの衝撃的な事件
「戸塚ヨットスクールでの死亡事件」──それは有り得ないような衝撃的な事件であった。今でもネットに多数載っているので誰でも容易に検索が出来る。「同スクールは以前、体罰を伴う厳しいスパルタ式ヨット訓練で知られていた。1980~82年に訓練生が死亡するなどの事件が起き、同校長は傷害致死などの罪に問われ、懲役6年の実刑判決を受けた。同校長は2006年に刑期を終え、校長に復帰した。」(時事通信から)
▼今でも支援者の絶えない戸塚ヨット
一般の人たちが奇異に思うのは、あれほどの死者・行方不明者を出した非教育的・反教育的事件であったのに、判決は意外なほど量刑が軽かったこと、戸塚ヨットスクールの存続を認めたこと、それでも戸塚校長を支援する多くの親たちがいたこと、などである。今回の事件についても、「えっ、戸塚ヨットスクールって今でもあるの?」とか「問題はそういうスクールに入れれば死ぬかもしれないと知りながらそれを求める親たちがいたということだ」というような声が聞こえてくる。
▼「戸塚ヨットは必要」いう学校の教員
1992年(平成4年)8月14日付の『朝日新聞』では、精神障害の息子をもつ60歳の教員の次のような投書を紹介している。<戸塚ヨットスクールを頼った大半の人々も私どもと同様に感謝こそすれ、恨む気持ちは毛頭ないのではないかと思う。事故は残念だったが、国に私どもを救済する手だてがない限り戸塚ヨットのような存在は必要だ>これが学校現場に身を置く教員の声であるところが何とも複雑だ。
▼驚くべき体罰容認の教育観
ちなみに、「戸塚ヨットスクールを支援する会」というのがあり、その会長は現東京都知事の石原慎太郎氏である。そこには、「罰は子供を強くするため、進歩させるために行われます。 『叱るよりほめろ』では子供は強くなることができません。いかに多くの罰を受けたかが優しさを決めます。人のことを思いやる力をつけるには、体罰は最も有効です。」(「教育における体罰を考える」シンポジウム)とある。驚愕すべき教育観である。
▼日本の教育の歪みが噴出した事件
日本の教育はいつからこういうことになってしまったのか。ある意味では、日本の教育のおかしさが今回の戸塚ヨットスクールでの飛び降り自殺のような形でまたも噴出したのだとも言える。例えば、精神障害の問題一つとっても、それが生得的な病の場合もあれば後天的に生きる環境の中で作られる場合もある(教育がその元凶であることがしばしばある)。そのいずれにせよ学校現場から追放され、あたかも人間の出来損ないか、調教してしつけなければどうにもならない家畜や番犬・ペットのような扱いを受ける。先に見たように、教育現場で教職に携わる教員の親さえもそれを望んでいるのだ。有り得ない非人間的な異常さである。戸塚ヨットスクール事件はそうした教育問題の氷山の一角に過ぎない。
▼日本の教育の実態を認識しよう
しかし、率直に言おう。こういうフリースクールは絶対にあってはならない。そして、こういうフリースクールを求める親や保護者もあってはならない。どう言い訳をしようが、こういうフリースクールの存在を認めるわけにはいかないのだ。子どもを主体とするフリースクール本来の趣旨とは大きく異なるだけでなく、全く逆の主張を臆面もなく掲げている団体である。しかし、現実にはそれをよしとする親や保護者がいるだけでなく、日本を代表する自治体の長までもがその後援会長を務めてさえもいる。これが日本の教育の置かれている現状である。日本の教育をどうこう言う前に、まずこういう現状をしかと見定めておく必要がある。あなたもそれを是認するのだろうか。

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不登校とフリースクール
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▼戸塚ヨットスクールで飛び降り自殺?
19日午前、愛知県・美浜町にある戸塚ヨットスクールの寮の屋上から、18歳の女性が飛び降りて死亡した。警察は、自殺の可能性が高いとみて調べている。──というニュースを目にした時、痛ましさと同時に「またか──」という思いが脳裏を横切った。
▼戸塚ヨットの衝撃的な事件
「戸塚ヨットスクールでの死亡事件」──それは有り得ないような衝撃的な事件であった。今でもネットに多数載っているので誰でも容易に検索が出来る。「同スクールは以前、体罰を伴う厳しいスパルタ式ヨット訓練で知られていた。1980~82年に訓練生が死亡するなどの事件が起き、同校長は傷害致死などの罪に問われ、懲役6年の実刑判決を受けた。同校長は2006年に刑期を終え、校長に復帰した。」(時事通信から)
▼今でも支援者の絶えない戸塚ヨット
一般の人たちが奇異に思うのは、あれほどの死者・行方不明者を出した非教育的・反教育的事件であったのに、判決は意外なほど量刑が軽かったこと、戸塚ヨットスクールの存続を認めたこと、それでも戸塚校長を支援する多くの親たちがいたこと、などである。今回の事件についても、「えっ、戸塚ヨットスクールって今でもあるの?」とか「問題はそういうスクールに入れれば死ぬかもしれないと知りながらそれを求める親たちがいたということだ」というような声が聞こえてくる。
▼「戸塚ヨットは必要」いう学校の教員
1992年(平成4年)8月14日付の『朝日新聞』では、精神障害の息子をもつ60歳の教員の次のような投書を紹介している。<戸塚ヨットスクールを頼った大半の人々も私どもと同様に感謝こそすれ、恨む気持ちは毛頭ないのではないかと思う。事故は残念だったが、国に私どもを救済する手だてがない限り戸塚ヨットのような存在は必要だ>これが学校現場に身を置く教員の声であるところが何とも複雑だ。
▼驚くべき体罰容認の教育観
ちなみに、「戸塚ヨットスクールを支援する会」というのがあり、その会長は現東京都知事の石原慎太郎氏である。そこには、「罰は子供を強くするため、進歩させるために行われます。 『叱るよりほめろ』では子供は強くなることができません。いかに多くの罰を受けたかが優しさを決めます。人のことを思いやる力をつけるには、体罰は最も有効です。」(「教育における体罰を考える」シンポジウム)とある。驚愕すべき教育観である。
▼日本の教育の歪みが噴出した事件
日本の教育はいつからこういうことになってしまったのか。ある意味では、日本の教育のおかしさが今回の戸塚ヨットスクールでの飛び降り自殺のような形でまたも噴出したのだとも言える。例えば、精神障害の問題一つとっても、それが生得的な病の場合もあれば後天的に生きる環境の中で作られる場合もある(教育がその元凶であることがしばしばある)。そのいずれにせよ学校現場から追放され、あたかも人間の出来損ないか、調教してしつけなければどうにもならない家畜や番犬・ペットのような扱いを受ける。先に見たように、教育現場で教職に携わる教員の親さえもそれを望んでいるのだ。有り得ない非人間的な異常さである。戸塚ヨットスクール事件はそうした教育問題の氷山の一角に過ぎない。
▼日本の教育の実態を認識しよう
しかし、率直に言おう。こういうフリースクールは絶対にあってはならない。そして、こういうフリースクールを求める親や保護者もあってはならない。どう言い訳をしようが、こういうフリースクールの存在を認めるわけにはいかないのだ。子どもを主体とするフリースクール本来の趣旨とは大きく異なるだけでなく、全く逆の主張を臆面もなく掲げている団体である。しかし、現実にはそれをよしとする親や保護者がいるだけでなく、日本を代表する自治体の長までもがその後援会長を務めてさえもいる。これが日本の教育の置かれている現状である。日本の教育をどうこう言う前に、まずこういう現状をしかと見定めておく必要がある。あなたもそれを是認するのだろうか。

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