教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

日本でのフリースクール活動とは何か---フリースクールの日本での展開と変質の跡付けのために

2015年01月18日 | フリースクール

日本でのフリースクール活動とは何か---フリースクールの日本での展開と変質の跡付けのために

ーーー 日本の教育と日本の不登校支援のあり方を問い直す ーーー 


※学術論文や大学生相手の講義ではないので、ここで専門的な研究は行いません。しかし、日本が1960年代に高度成長期に突入して以来、不登校の問題は多少の増減はあるもの一向に終息する気配はありません。むしろ、社会の好不況等や若者の就業問題などとも絡んでより一層深刻化する側面さえ見せています。

 一体、日本の不登校問題は日本の教育問題とどのように関連し合っているのか、日本のフリースクール活動は海外のフリースクール活動などとどこがどう違ったのか、それはどこから由来するものなのか、日本の教育問題の核心に少しでも切り込む形で書いてみたいと思います。

(覚書&下書きとお考え下さい。また、必ずしも定期的にアップできないかもしれません。ご容赦を)


現在、フリースクールと言えば不登校の児童生徒のための民間の受け皿・救済機関ということになっているが、これは日本のフリースクール運動が出鼻から不幸な出発をした結果だと思っている。 
何が不幸であったかというと、フリースクールは本来、不登校の受け皿ではなく、もっと広く国の子どもの教育のあり方全体を問い直す運動であったにも拘わらず、日本の場合には不登校の救済のための機関に特化されてしまったことである。 
この不幸な出発によって、フリースクール運動そのものへの誤解を招くことになっただけでなく、不登校という問題をも本来の教育の枠組みから外れた特殊な子ども達の教育問題であるかのように扱われるようになってしまった。問題の捉え方が全く逆転してしまったのである。 

本来は、不登校の問題こそ、鋭く現在の教育問題の欠陥を問い質すものであったはず。ところが、この出発が間違っていたために、不登校になることは何かととてもいけないことをやっているかのように錯覚させるものとなってしまった。 
その結果、子ども本人も親も、不登校になったことを犯罪でも犯したかのように自己卑下し、一刻も早く学校復帰をさせるのが正解であるかのように思ってしまっている。誰がこういう結果を招いたのか? 

日本が高度成長期に突入したのは1960年代初頭から。その成長を陰で支えたのは高い教育の力だった。しかし、過度の競争は教育界に大きな矛盾を引き起こした。 

1995年に教育月刊誌『ニコラ』を発行した私が出版した『行ってみないかこんな「学校」』(ハート出版社)36頁にはこうある。
受験や進学熱が高まる一方、学校教育の網の目からこぼれ落ちる子どもたちが増え始め(…)」とある。1960年代の状況を指している。そういう中、「子どもたちにどうしたら学ぶ楽しさを味わってもらえるか模索する塾が現れた。」と述べ、故・八杉晴実さんの「東進会」を紹介し、「その後、学業不振の子どもたちの増加のみならず、いじめや登校拒否、自殺などがマスコミの注目を集めるようになり、登校拒否や学力不振の子どもたちを支援する」全国の『支援塾ネットワーク』についても触れている。
不登校支援の全国規模での最初の動きであった。
 

しかし、残念ながら、この運動は結局大きくはならなかった。あくまでも地域の落ちこぼれ支援にとどまったのである。代わって不登校支援に乗り出したのはフリースクール「東京シューレ」を立ち上げた奥地圭子さんの活動。実は、この人のお子さんたちは最初は八杉さんの塾に通っていたという。そして、そこから不登校の児童生徒に特化した支援活動のヒントを掴んだらしい。

▼それが「東京シューレ」という活動の場であり、それを日本での「フリースクール活動」と名付けたのである。その時、学校の教師でもあった奥地さんにどれだけ海外の自由教育やフリースクール運動に理解があったか寡聞にして知らない。
そこでは学校で排除されたり否定された子どもたちを守るということが支援活動の主眼とされ、時には不登校の子どもに理解のない学校と鋭く対立することもあったようである。そして、それに賛同する人たちもいろいろと生まれた。
 

この活動は正直、日本の不登校支援の一頁をなす画期的なものであったと思う。しかし、同時にそれは、日本のフリースクールの運動に海外でのあり方とはかなり違った特異な側面を強調することになったのは否めない。
そして、それは日本の学校教育での不登校支援のあり方をも規定するものとなった。そしてそれはまた、日本の教育が海外のそれとは違っていかに特異な性格を持っていたかをも図らずも証明することとなってしまった。
 

(つづく)

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「うつ」と「運動」による回復を実践すること

2010年05月07日 | フリースクール
■「うつ」と「運動による回復」を実践する

▼抗うつ薬以外に良い方法はないものか
人間の文明が歪な発展を遂げたからだろうか、近頃、老若男女を問わず「うつ」に悩まされている人が多い。そして、医者にかかると決まって処方されるものが抗うつ薬である。しかし、多くの人が「薬以外に良い方法はないものか」と思っているのではないか。

▼読売新聞で紹介された運動療法
5月7日の読売新聞の「医療ルネッサンス」で紹介されていた女性もその一人。千葉県柏市の「うつを運動で改善する」という広報誌の記事に飛びついた。プログラムは千葉大予防医学センターと東大生涯スポーツ健康科学研究センターの共同研究とか。毎週水曜日、自転車こぎなど筋トレよりストレッチに近い運動を行った。結果、半年後には「問題なし」までになったという。
運動には、脳を刺激し、沈んだ気分を持ち上げ、意欲を呼ぶ可能性がある」という精神科医(千葉大教授・清水栄司さん)のコメントも紹介している。<軽い運動でも効果が期待できる>らしい。英国ではうつ病の治療に軽症者には運動やカウンセリングなどを勧めているとも紹介されている。

▼「ぱいでぃあ」での身体活動の実践
手前味噌になるが、フリースクール・ぱいでぃあでは、設立の当初から不登校生への運動の効用に着目していた。それ以前の教育雑誌『ニコラ』の時からの不登校生に対する考察の成果でもある。
だから、勉学とは別に(勉学も不登校生の自分づくりに欠かせないが)、運動のできる環境を重視した。たくさんのフリースクールの中で、2面のテニスコートやサッカーコートの他、幾つもの広い運動場をいつでも自由に使えるところはほとんどないのではないか。カリキュラムの中にも週3回、午後の時間をたっぷり取ってある。


▼運動を通じて立ち直りをはかる試み
医学的な見地からは、徹底的に検証をした結果が明らかにならねば軽々しくこうだとは言えないのだろう。しかし、長年不登校生達に専門的に接している中で、運動が効果的であることは感覚的に理解できたことである。
抗うつ薬が離せない状態の不登校生たちもいる。だからと言って、薬で気分を高揚させ、今度は上げすぎたと言って別の薬で抑えたりと、薬のさじ加減でバランスをとればいいというものでもあるまい。ある雑誌記者が「薬で治ったという人を俺は知らない」と言っていたのが印象的だ。ところが、今の薬物療法においても──どうも学校の先生からの要望もあるらしい──その子の立ち直りを支援するというよりは、とにかくみんなに合わせてくれればそれでいい、というような発想がないわけではない。薬に対する過信があるのかも知れない。
だから、そこにこういうような医学的な見地からの有用な情報が一般に知らされることの意味は大きい。

▼「ぱいでぃあ活動」の運動に関するもの
実際、うつっぽい傾向のある子だけでなく一般に不登校と言われる子どもたちにも、この運動を通じた身体の活性化がいかに効果的であるか、それは今までの経験からももはや論を待たない。よくエステの広告に「使用前・使用後」というのがよくあるが、運動をする前の子どもと運動をした後での同じ子どもを比較検討してみるとよく分かる。その子の内発的な活性度がまるで違うのだ。
もちろん、学校の部活のような特殊な指導はしないし、勝ち抜くことが目的ではなく、自分づくりが目的である。だから、運動の得手・不得手は問題ではない。まずは身体を動かすことが楽しみであり喜びであること、そして遊びの延長のように自由な活動がそのまま自立的な学びへと繋がっていること、それがぱいでぃあでの活動(「ぱいでぃあ活動」と呼んでいる)である。

▼勉強だけでなく運動を重視するフリースクール
フリースクール・ぱいでぃあは「勉強を重視するフリースクール」ということで通っているかもしれない。ホームページでもそんな雰囲気が強いかもしれない。確かに、「勉強を重視するフリースクール」というのが、その一つの特色ではある。
しかし、それ以前に、それ以上に重視しているのはこの運動を含むぱいでぃあ活動である。もし、学校を離れたことで集団との交わりを断ち、一人閉じこもり気味の生活を続けているのであれば、その先にあるのは「引きこもり」という極めて危ない境遇である。もし、真剣にそういう状態から脱したいのであれば、まずはこういう活動に参加することから初めてはどうだろうか。

▼自分と真正に向き合いCHANGEすること
「ぱいでぃあ」は受験進学塾のようなところでは全くないが──ではないからこそか──県内のトップの高校に進学して燃え尽きてしまったような子どもたちから、学校生活の中で全く自分を失い、自己卑下の塊のようになった子どもたち(結果として、学業が滅茶苦茶になっていることも多い)まで、その傷ついた羽を休めにやってくる
そういう子どもたちにとって自分を「CHANGE]する最も効果的な方法は、一旦はそういう自分に被せられた既製の服を脱ぎ捨てることであろう。そして、今一度、真正に自分と真正面から向き合うことであろう。まずそのことに運動を通してチャレンジしたい。もし、それを実行するならば、そこにはきっと予期せぬ望外の展望が開けているはずである。


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フリースクールに関わるアシスタントたち(3)

2010年05月03日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち③

▼学校教員の不登校理解の限界
 こうして、篩(ふるい)にかけられて残った人たちが、私たちスタッフのアシスタントとして関わってくれることになる。ただし、まっさらの状態で関わってもらうので、日々が勉強であり、日々が反省と試行錯誤つなる。
 そういう人たちはどうしてそうまでしてフリースクールに関わろうとするか。それは、不登校となった子どもたちは学校を離れるので、勤務校に在籍する生徒ではあっても、そこの教員が実際に不登校生に触れる機会はとても少ない。まして、不登校生の思いを受け止める機会などさらに少ない。だから、学校の教員が「不登校を理解する」とはいっても、理解はそのレベルにとどまる。そのほとんどがフリースクールという現場で日々触れ合う中で薄皮を剥がすように少しずつ見えてくるものが、どうして触れ合いもなく、机上の学問だけで分かるというのか。傲慢であり、無知である。不登校生は学校の中でつくられるわけだが、学校では不登校生を本当に理解することは物理的にも極めて限界があるというのは、そういうわけである(一方には、不登校になった奴は相談室の先生など─その人達の関わりにいろいろ疑問符が付くことも多いが─その道の人に任せておけばいいという悪しき風潮もある)。

▼不登校生を支える人達の手弁当で成り立つフリースクール
 そういうこともあって、これから教員やカウンセラー、あるいは教育心理の専門家等を目指す人等にとっては、不登校生が集うフリースクールは理屈ぬきに肌で学べ実習できるところなのである。また、ベテランや退職された教員にとっては、自分の教育活動を持続できる場であり、今までの教育活動の幅を広げたり見直したりする場ともなる。
 もとよりフリースクールというところはほとんどがボランティアで成り立っている民間の教育機関であり、基本的に保護者の手弁当によって維持されている。だから、フリースクールを運営する側も自分たちの手当どころか自己資金の持ち出しでかろうじて支えているのが現状である。結果、アシスタントを社員並みに扱うことは現状ではなかなか難しい。その代わり、双方のメリットが折り合うところで、Win-Winの関係で関わってもらうことになる。
 私たち常勤のスタッフにしても、より複眼的な視点から子どもたちを考察し関わることが可能になる。だから、月毎にその人なりの視点から簡単なリポートを書いてもらっている。また、アシスタントにしても自分の行動をその都度客体化して眺めることは意義のあることだと思っている。

▼ぱいでぃあを飛び立ったアシスタントたち
 今までいろいろな人達がフリースクール・ぱいでぃあでアシスタントとして関わってくれた。大学生や大学院の学生、進学塾の先生、劇団の主催者、他の市民団体の主催者、何年もの海外旅行経験者、結婚退職の先生、海外日本人学校の先生など実に様々だ。また、情報工学など学際的な視野を養うために参加した人や、将来の学園の跡取りとして学びに来た人もいた。
 ここを経験した後は、大学に残った人もいれば、民間の研究施設に入った人、中高の教員やカウンセラーとなった人、家庭生活に入って実践している人など、これも様々だ。
 フリースクールという場を通して、そういう人たちと出会えたことは大きな喜びであり感謝である。学ばせているようで実はこちらが学ばされていることも多い。今年もまた、何名かの人たちにアシスタントをお願いすることにした。そういう人達がいる日本はまだまだ捨てたものではないとも思う。

▼教育行政の施策とフリースクール
 愚痴の繰り言のようになるが、現在、民主党政権になってから「子ども手当」とか「高校無償化」などの施策が進み、経済的格差によって教育格差の悲哀を味わっていた人たちにわずかの救済措置がとられるようになった(が、構造的格差、格差の固定化の問題は何ともし難い)。しかし、そういう中でも、不登校の子どもたちは依然として教育棄民の状態に据え置かれている
 小中学生は国家による義務教育無償の対象者なのに、一度学校を離れてしまえば(学校に通えなくなってしまえば)、その教育公費の恩恵には一切預かれなくなる。教育公費は学校に落ちるのであり、その多くは教員の給料など人件費に化けてしまうのである。こういう言い訳が、教育行政の側の人から当然の口調で出てくる。やはり、学校は教師のためにあるようだ。だが、そういう口上で教育行政から保護されている教育公務員とは、何と恵まれた存在だろう。その陰には、教育棄民の状態や引きこもりになっている子どもたちがいるというのに。
 そういう状況の中、親の会などで言われる言葉がある。
行政って、面白いところですね。お金を払ってでも学校に行きたい行きたいと言っているのに来るな来るなといい、お金を貰っても行きたくない行きたくないと言っているのに来い来いと言う
 前者はそのお母さんのお子さんのように障害を持っている子に対して、後者は不登校の子に対する行政や学校側の対応を批判したものである。この言葉には日本の学校教育が置かれている現状が端的に語られている。これが根本から変わるのはいつの日か。

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フリースクールに関わるアシスタントたち(2)

2010年05月02日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち②

▼資格ではなく能力が問われる教育の世界
  さて、それでは学校を離れてしまった後、代替の学び場&活動の場としてフリースクールにやってくる子どもたちを、フリースクールの教師たちはどのように迎 えるのだろうか。これは笑ってしまう話だが、学校の先生がフリースクールに尋ねる質問の一つに「教員免許を持っていますか」というのがある。「フリース クールをやるからには当たり前でしょう!」ということにもなるが、逆に言えば、学校の先生は教員免許を持っていればフリースクールなんて自分でもできる、くらいに思っているのかな─と思ってしまう。フリースクールとはそういう感覚の先生が支配する学校から逃れた子どもたちが救いを求めてやってくる場所なのに。そういう子どもたちと真正に向き合い、受け止める資質や能力があるならば、形だけの教員免許なんて本当はなくたっていいのだ(ちなみに、教員免許を必要とされるのは小中高の先生であって、大学で教鞭をとるためなら、そういうレベルで問われる資格は問題ではない。これは起業家、スポーツ選手、芸術家などでも同じ。
資格ではなく専門的な分野独自の能力や技能が問われる世界なのだ。でも、近頃、粗悪品とも言える大学生や大学の教員が目につくなあ)。

▼教師としての資質とは何か
 だから、フリースクールを運営責任者には現在の教育システムだけでなく、次代を担う子どもたちに必要とされる基本的ないろいろなものに精通していることが求められる。ここにやって来る子どもたちは学校を逃れてきた子どもたちがほとんどであるから(ここに、フリースクール=不登校生の居場所&学び場という日本の特殊性があるが)、そういう子どもたちにとっての育ち学ぶ空間として「イエス」であるものが満たされていなければならない。
 ところが、こういうことはまだ具体的な感覚のない新人の教員や若い教員にはとても難しい。また一方、旧態依然の教育方法を頑なに墨守してきた「石部健吉」のようなベテラン教員にも難しいことでもある。

▼問題に精通しかつ乗り越えていること
  教員経験があるからとか、学校でカウンセラーの仕事をしてきたからとか、将来教員になりたいからとか、今大学院で臨床心理士になる勉強をしているのでと か、自分にそういう体験があるのでとか…という単純な理由だけではとても「はい、そうですか」とお願いするわけには行かない。
 そういう机上の学問を通して子どもたちを見る習性がついてしまっているとか、自身の体験として染み付いているということであるならば、
その熱心さ真摯さは買うとしても、ぶっちゃけた話、むしろ一度思いっきり全てを捨ててしまった方がいい。 自分は何も知らないという全く白紙の状態から学び始める方がよっぽどいいのだ。思いこみによるその観念のアンバランスさが怖い。何事にせよ、「あ、それ、 ボク知ってる」という生半可な知識も問題ありだが、トラウマから自由になれない精神状態の危うさはもっと要注意である。まずは自分の課題は克服出来ている こと。それができていなければ悩み多き子どもたちと真正に向き合わせることはできない。まして、任せるわけにはいかないのだ。時に子どもたちの神経は繊毛 のように細く脆い。

▼「顔」で人を判断するということ
 だから、フリースクールという場に来たならば、そのアシスタントの過去がどうあれ、「みな、初心者」ということになる。その時にその人物を選ぶ基準になるものは何か。それはその人の「顔」である。面接のときに履歴書と課題の小論文を出してもらうが、それはあくまでも参考に過ぎない。まじめな話から四方山話まで繰り広げて(実は、その下らないしゃべりがとても重要なのだ)、最後は「顔」で決めるのである。この決定はあえて私の独断と偏見に拠っている。
 「それは酷い、顔は自分で変えようがないじゃないか」という反論が予想される。なるほど、もっともだ。しかし、かのアメリカのリンカーン大統領もやはりスタッフを決めるときに「顔」で決めたそうである。彼はこう言ったそうな。「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」と。つまり「社会人たるもの、大人になれば自分の顔に責任を持て!」 ということ。子どもの顔はまだ見た目が勝負かもしれないが(そこに生育環境がもろに反映されているが)、大人の顔は
単なる自然の造作物ではないし、親から受け継いだだけの顔でもない。自分で作るものなのだ。そこにはあなたのこれまでの育ちだけでなく、今の精神状態、性格、経験、能力、見識などのすべてが言葉と同 じように、あるいはそれ以上に能弁に語られている。

(③に続く)

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フリースクールに関わるアシスタントたち(1)

2010年04月29日 | フリースクール
フリースクールに関わるアシスタントたち①

▼「悩み」を抱える教員たち
 読売新聞の「教育ルネッサンス」で「親と向き合う」シリーズが始まり、2010年4月17日(土)はその2回目。見出しに〈「復数担任」で負担軽減〉とある。
 1回目の前日は「モンスター・ペアレンツ」の親の悩みに向き合いながら対処する教員の姿が描かれていたが、今回は「中1ギャップ」にどう対処するか、である。だが、問題は中1ギャップのその当事者や親が訴えてくる問題への対処の仕方ではなく、それをうまく受け止められない教員の姿である。そこで「何か教員が支え合う仕組みはないか」と考え、始めたのが復数担任制だという。
 東京都新宿区には、「授業改善推進員の制度」があり、退職校長が若手教員の相談に乗るらしい(退職校長たちで大丈夫か?それも心配だ)。

▼生徒の問題は学校でつくられる
 何のことはない、そこから見えるのは、大学は出たとしてもそのまま教壇に立つ(この言葉はもう死語か?)にはとても不安である教員の姿である。若さに溢れ、問題がなければそれでいいのかも知れない。しかし、いわゆる「中1トラブル」(これも教師サイドの見方だ)を起こした生徒に向き合い親の要望を受け止めるには、あまりにも人生経験に乏しく頼りない。とても教科学習の指導以外は任せておけない。それが現状である(でも、教科学習だけなら学習塾の先生の方が上か?)。そういう教員のキャパの狭さから何割かの不登校生も生まれているとも言える。

▼薫陶を受けることもなく指導を任される新米教師
 一般の民間会社のような組織であれば、まずは新人教育があり社員教育がある。が、学校というところは、世間のルールも社会人としての感覚も十分に身につかないうちに、ベテランの教員(こういう人たちも井の中の蛙の場合が多い)と同様に教科の指導やクラスの運営を任される。自分の経験に照らして言うのも何だが、大学卒業の頃はおろか、大学院時代を含めた20代だけでなく30代になっても生徒の思いに向き合いその子に合った進路に導くということには未熟なことが山ほどあったように思う。一時、教員の社会での実習経験の必要性が叫ばれたのもそういう背景があったからである。

▼生徒の個性を受け止められない教師
 今になってようやく感じることだが、これから大人の世界に飛び立つ準備をしている子どもたちに向きあうには、豊富な人生経験の裏打ちがどうしても必要だと言うことである。学校の教科学習の下請け機関である学習塾や進学塾であれば、少なくともイキのいい教科指導があれば事足りる。が、成長の途上で様々な悩みや疑問を抱えたり、学校では十分に生かし切れない自分を感じたりする子どもに真正に向き合うには、それだけではとても足りない。しかし、現実にはそれを受け止められる先生が学校にどれだけいるだろうか。そういう個性的な生徒ではない大部分の生徒に重きを置かなければならない事情もあって、結局はそういう生徒は学校から離れてしまうことになる。

(②に続く)

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フリースクールって何? どんなところ?─(2)

2010年03月07日 | フリースクール

フリースクールって何? どんなところ?─(2)

※こういう記事を掲載するに当たって、ひと言だけ注意し
願いして置きたいことがある。
 私が子どもの育ちや教育の問題、とりわけ不登校の子ども達の問題について積極的に発言するようになってから、15年の歳月が経った。子どもの教育自体に関わったのはそのずっと前からであるが、この問題にライフワークとして関わるようになったのは、我が子達が学校に行くようになってからであり、そしてそのために子どもや親の目線から考える月刊の教育雑誌「ニコラ」の編集発行人となってからである。現在運営している「フリースクール・ぱいでぃあ」はさらにその実践の過程から生まれたものであった。
 だから、私はいつも不登校の子ども達やその親御さんと共にあったし、教育雑誌の記者として編集者として発行人として、常に言葉や映像の生まれる現場から情報を発信することを旨としてきた。だから、教育関係の記事をものする新聞記者さんとも知り合いになったし、その記者が現場からどういう記事を発信したかも時には興味を持って見ることもあった。しかし、大学の先生やその方面の専門家や評論家のように机上から語ることは極力避けてきた(2003年頃からよみうり教育メールの相談回答者を担当したり2008年頃は新聞の本誌にも数回登場したが、何かの役に立てばという関わりにすぎない))
。視野に限界もあるし、時には偏りもあるかもしれない。しかし、それも承知で現場第一主義に徹してきた。
 ところが、この15年の過程で、かつて私が言っていたことではないか──というような言葉をいろいろな場面で目にするようになった。これは教育分野の研究をされている方の言葉にも見ることがあるし、余所のフリースクール等の宣伝にも使われていることがある。例えば「遊びの教育学」などという考察はその一つかもしれない。当時、そういう人はまだいなかったように思う。
 ただ、私は大学人のように論文を発表してそれで評価されることは考えていない(現場の人間はそんな時間もないしゆとりもない。ただしそれに比肩する論理力や説得力は必要だ。それよりもあまり現場を知らない先生の発言をよく見かける)、著作権だの盗用だのと目くじらを立てるつもりもない。「お使いになるならどうぞ」という思いもある。しかし、引用したり借用したりするなら、少なくともそのコトワリを入れるのは礼儀ではないのか(そういう引用の断りを入れてくれる人もいる)。そんな思いがしている。

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Q. 「体験入学」は全日でなければいけませんか? 半日ではダメですか?
A.
 「体験入学」に大きな決まりはありません。お子さんに自分の目で見、肌で感じてもらうのが第一の目的です。ここが自分づくりに相応しい学び場&活動の場であるかどうか、本人の希望に沿って体験してもらいます。もう気持ちが固まっている場合には、体験入学を経ないで入学をすることも可能です。
 体験入学は3~4日ですが、その間に教科学習・スポーツ等の身体活動・他のぱいでぃあ活動・生徒同士の交流……などをおおよそ体験できるようになっています。まだ決められないということであれば、延長も可能です。そこで体感したことを通して、今後どうするかを自分で考えてください。
 体験入学の結果、「ぱいでぃあ」でやりたいということになれば、そこで初めて正式な入学手続きに入ります。入学するかどうかは、もちろん本人の意志で決まることになります。

Q. 正式に入学すると、「学校」の方はどうなりますか?
A. 
入学した後は、他の生徒たちと同じ活動に参加することになります。
 差支えがなければ、在籍校には「ぱいでぃあ」で活動することになった旨を連絡し、「ぱいでぃあ」での勉学や活動を学校での出席日数や日々の活動に換算してもらい、通学定期の証明書(電車等利用者)等も発行してもらうことになります。
 これは原則的には在籍する学校長の裁量になりますが、「ぱいでぃあ」では設立当初から子どもの学習権を保証するための基本原則としてこれをお願いしてきました。その後、文科省自身も「不登校はどこの家庭でも起こり得る」と公式に認めるようになりました。今では当たり前のこととして希望者全員が認められるようになり、「ぱいでぃあ」の申し出を断った学校はありません。
 ちなみに、フリースクールは通常の学校に代わる民間の代替の教育機関というのが本来の設立の趣旨・目的であり、一般の学校で授業が行われている月曜日から金曜日までの昼間の時間帯に同じように運営されています。ここが学校教育の補完・補強の意味合いが強く学校が終わった放課後や夕方から夜の時間に営まれている学習塾や進学塾とは根本的に異なるところです。また、計算してみればよく分かることですが、進学塾等の時間単価に比べて非常に安価なのが一般的です(中には、法外な入学金を設けたり、授業料等の費用を半年~一年分前納させたりするところもありますが、それは不登校の子どもという弱みに付け込んだ教育ビジネスの姿で、本来のフリースクールのあり方とは趣旨が違うように思います)。

Q. 教科学習以外の活動を教えてください。
A.
 「教科学習を大事にするフリースクール」というのが「ぱいでぃあ」の特徴の一つです。それ以外に、むしろそれ以上に重視しているのが「心と体と感性」づくりです。「ぱいでぃあ」ではこれらを総称して「ぱいでぃあ活動」と呼んでいます。
 教科学習は遅れていても後でやり直しができます。しかし、「心づくり」や「身体づくり」、「感性を養うこと」などはやり直しは効かないのです。それが義務教育の、成長期の段階の子どもたちであればことは重大です。この時期、育ちの環境に欠けたものがあると、子どもは欠けたまま成長することになります。そして、学校を離れた不登校の子どもたちの場合はそのリスクがとても高くなります。これが教育の大事さであり、怖さです。
 そこで、「ぱいでぃあ」では「心づくり」や「身体づくり」、「感性づくり」に教科学習と同様のウエイトをおいて関わっています。
(1)「ぱいでぃあ」では、改まったカウンセリングの時間は特別に設けなくても、日々の活動や心遣いの行動の全てがカウンセリングだと考えています。むしろ、カウンセリングという非日常的な空間の中で子どもたちがどれだけの本音を語るだろうかとも思います。学校でいい生徒を演じるように、カウンセリングの場でもよそ行きの仮面を被った良い相談者になるか全く逆の態度をとるようになるか…どちらかではないでしょうか。子どもたちの本音はむしろ何気ない会話やふとした仕草の中に出るものです。私たちスタッフの感性がそれに反応できるセンサーを持っているかどうか、が試されているとも言えます。
(2)身体活動は主にスポーツを通じて行います。2面のテニスコートやサッカーコートがある広い運動場が活動の舞台ですが、泥警(ドロケイ)やバドミントン、ソフトボール、バレーボール、魚捕り、縄跳び、鉄棒などを行う他の場所もあります。また、卓球やバレーボールを行うときは公民館の室内運動場を使うこともあります。
 こういう身体活動は成長期にある小中学生には欠かせません。こういう活動を通じて、それまでは固まっていた身体もほどけ、教室の座学では見られない様々な個性や特徴を見せてくれます。身体は子どもたちにとって言葉以上に雄弁なのです。そして、ほとんどの子どもたちは身体を動かすのがとても好きです。
(3)この他にも「ぱいでぃあ活動」として「感性を養う」様々な活動があります。餅つき・お好み焼き・焼きそば・おでん・カレー・パンづくり・ケーキづくり・クッキーづくりなどの「料理講座」もその一つですが、ミニ凧&巨大凧づくり、自然の枯れ木や葉っぱを用いた自然工作、紙クラフト、粘土細工、仕掛けおもちゃ作りなどの「ものづくり講座」、自然のスケッチ、漫画作文や落書き講座などもあり、いろいろな機会を捉えて自由に感性を羽ばたかせる試みを行っています。

Q. 毎月の校外社会体験学習について教えてください。
A.
 先に述べた活動を総称して「ぱいでぃあ活動」と呼んでいますが、この中には毎月の社会体験学習の実践もあります。この活動は「フリースクール・ぱいでぃあ」の基本理念(遊学統合とフレネ教育法)に基づくものです。私たちのフリースクールの名称となっている「ぱいでぃあ」という言葉自体も学問・教養を意味する「パイデイア」と自立した遊びを意味する「パイディア」という語から付けたものです。その基本理念とは平たく言えば次のようなものです。
 ①「何でも見てやろう、体験してやろう!」
 「遊びと学びは同根のもの」「遊びもまた学びである」という考えがあります。「ぱいでぃあ活動」の「物の不思議さ」にふれること、「物との対話」(物づくり)もこの中に含まれます。人は先ず五感を通して考えるのです。高度な抽象思考もこの上に成り立ちます。小中学という義務教育段階の子どもたちにはこういう感性づくりが欠かせません。この時期は人間の土台(OS)となる五感に裏打ちされた器づくりの大事な時期だと思います。
 ②「書を捨てて街や野山に出よう!」
 一見、教科学習と矛盾するような言い方ですが、学問を築いた先人たちはみな自然や人間の営みから学び、今日の文化文明を築いたのです。書物はその結果として生まれたものに過ぎません。ですから、書物を通した頭での理解以前に身体や体験を通した理解がとても大切です。そして、その上に子どもたちは、次代を担うに相応しい学びをすることが望ましいのです。
 ③「本はどこにでも開いている」
 学校の教師や親御さんや子どもたちの中には「教える→覚える」ことが勉強だと思っている人が多いようです。では、これほど教育熱が高まり、学習塾が栄えて、子どもたちは朝から晩まで勉強漬けになっていながら、なぜ日本では「学力低下」が叫ばれ、将来へ夢も希望も持たない子どもたちが続出しているのでしょうか
 本来、「記憶することと考えることは別」なはずなのに、日本の学校の子どもたちはひたすら記憶マシーンとなることを求められ(悪しき偏差値主義の弊害)、物事を深く「考えないし、考えてはいけない環境」に置かれています。本当のところ、子どもたちは全身を使って、五感をフル稼働させていっぱい考えたいのです。ところが今、そういう環境は「ぱいでぃあ」のような一部の教育機関など、ごく限られた教育活動の中にしかないのかも知れません。
 本当に考える勉強、感じる学びは教科書の中だけにあるのではないですね。もし、学ぶ気になれば、周りの全ては不思議に満ちていて、「なぜだろう?」と考える学びの対象になります。触れるもの、見聞するものが全てが学びの対象──そういうことを出来る限り実践していきたと思っています。
 それで「ぱいでぃあ活動」の一環としての毎月の社会体験活動は、子どもたちが美術館や博物館をはじめ様々なイベントや自然体験等を、自らの五感を通して感じ&学ぶと共に自らも小さな社会人として参加する活動となっています。これは社会から保護され半ば隔離された状態の学校的学びからは決して得られない貴重な営みです。そして、こういう活動は学校を離れた子どもたちが自己回復を遂げ、自己実現をして行くための優れた方法ともなっています。

Q. お昼の食事やお昼休みはどうなっていますか。
A.
 食育という観点からも昼食の時間は大事にしています。お昼休みは12時~1時までたっぷり1時間とっています。ゆっくり食事する人にも十分な時間だと思います。食事は各自お弁当を持参することをお勧めしていますが、前のスーパーで買うこともできます。都合の良い方をお選びください。
 食事の後は自由時間です。近くの公園に散歩に行く人もいれば、好きな本や漫画(「こち亀」や「クレヨンしんちゃん」「コボちゃん」「コナン」「ブラックジャック」などが人気です)を読む人、将棋や囲碁やアルゴなどの対局ゲームを楽しんだり、みんなでトランプやウノ、人生ゲームなどを楽しんだり、その時によってやることも様々です。でも、楽しいことはいいことですね。このリラックスタイムはとても貴重だと思っています。

Q. 「ぱいでぃあ」にイジメはありませんか?
A.
 「イジメはありません」と言えば、それは「私は嘘をついたことがありません」と言うことと同じで、嘘っぽいですね。「イジメが起きないように絶えず注意しています」という方が正確でしょうか。
 というのは、「イジメ」を受けた経験があるということは、かつてそういう環境の中に身を置き、無意識のうちにそういう空気に染まっていたということで、イジメられていた子自身が何かの折にイジメる側に回る確率が高くなるのです。放っておくと、イジメられた子同士の間でイジメが起きることもあります。ところが、イジメられていた子どもは自分が被害者であることには非常に敏感でありながら、もしかすると逆に自分が加害者になっているかもしれないということにはとても鈍感なことがあります。そこで、イジメが起きない人間関係の結び方を身に付けることがとても大事になります。そういうスキルを日々の活動の中で自然に体得していくようにしています。
 その結果、「ぱいでぃあ」ではイジメにあって苦しむというようなことはまず起きないようになっています。誰もが安心できる空間が確保されています。

Q. 「ぱいでぃあ」にはどんな校則がありますか?
A.
 「ぱいでぃあ」には「みんなの約束」という大事な決まりごとはありますが、校則というものはありません。その「みんなの約束」の中で一番大事なことは「自分が嫌なことは人にしないこと」ということです。
 その他はほとんど「社会常識」的な簡単な約束事です。これらは人を縛るためのものではなく、みんなが楽しく過ごせるためのルールですね。これもみんなとの話し合いの中で決めて行きます。

Q. 「ぱいでぃあ」の重視する「予防教育」ってなんですか?
A. 
ひとことで言えば、不登校になった子ども達を「ひきこもり」に移行させないための教育的関わりということです。
 「引きこもりKHJ親の会」の全国組織とも繋がりがあり、「ぱいでぃあ」でも「ぱいでぃあ広場」という引きこもりの当事者の集いを開いていましたが、その半数以上が一流四大の大学生の引きこもりでした。そして、そのほとんどの人たちは過去に不登校の経験を持ちながら解決を先送りしてきた人たちでした。
 全国には100万人とも150万人とも言われる引きこもりの人数ですが、正確な統計はありません(でも、注意してみれば町内を「には必ず数人はその該当者らしき人たちを目にするはずです)。心身に障害を持っている人はまた別かもしれませんが、日本の教育風土がそういう人たちを生み出してきた事実は否めません。不登校も引きこもりも日本の近代教育システムが作り出したと言っていいところが多分にあるのです。だからといって、放置しておくわけにはいきません。
 不登校から引きこもりへ移行した青年たちはきっと無念なことだろうと思います。人として生まれ、将来へ様々な可能性を抱いてたはず。また、国家も様々な人材を活かせないばかりか生活保護等で一生その人を面倒見ていかなければならない。両者にとって何の益もない膨大な損失です。
 そこで「ぱいでぃあ」は学校教育からはじき出され、未来を閉ざされるかもしれない不登校になった子ども達に、自尊感情を回復し、自分の人生に誇りを持ち、自分づくりに励み、「人として生きてあることの喜び」を享受できるようになってほしいと願っています。そして、そういう子ども達への支援が結果として「予防教育」になるのではないかと考えています。
 「ぱいでぃあ」活動のモットーに、「生きる喜び 学ぶ楽しさ」とありますが、そういう願いを込めた言葉なのです。

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フリースクールって何? どんなところ?─(1)

2010年03月04日 | フリースクール

フリースクールって何? どんなところ?─(1)

 こういう事柄に通じている人もいれば、そんな素朴な疑問を持っている人もいるかもしれません。そこで今回、フリースクール活動の一つ、私たちの「ぱいでぃあ」について、そういう率直な疑問に答えてみたいと思います。
 なお、これは、不登校になった本人と親御さんが、学校外の学び場・活動の場、将来につながる育ちの場としてフリースクールを探していることを想定して書いています。ご了承ください。
 ただし、質問等があれば可能な範囲でお答えします。

Q. フリースクールって、どんなところ?
A. フリースクールは市民が作った、子どもが主人公の自由な校風のスクールです。
 主に学校に行きたくても行けない(不登校の)子どもたちや学校に行きたくない(登校拒否の)子どもたち、日本の学校教育で学びたくない(帰国子女の)子どもたちや自分主体の自由な学びや活動をしたい子どもたちなどが通っています。

Q. 学校との違いはなんですか?
A.
 「学校」は文部科学省が定めた規則に従って運営されている教育機関で、親の委託を受けて税金で営まれています。ですから、主体は教員であることが多く、ふだん子どもたちはその規則に従って生活することになります。
 「フリースクール」は運営する人たちが意見もお金も出し合って、子ども主体の学び場&活動の場を作っています。ですから、子どもの意見を一番大事に考え、子どもたちの自主的な活動や自治活動を尊重しています。

Q. 「フリースクール・ぱいでぃあ」って、どんなところ?
A.
 「ぱいでぃあ」は、主に小学生や中学生など公立・私立の義務教育段階の子どもたちが通っているフリースクールです。
 「ぱいでぃあ」ではこの時期の育ちや教育が将来を決める一番大事な時期と考えています。もし、この時期の育ちの環境に問題があると、子どもはその歪みを一生背負って生きなければならなくなることもあります。ですから、学校を離れた子どもたちの育ちや学びの環境をとても重視しています。
 そこで、「ぱいでぃあ」では、そういう子どもたちが心も体も頭脳も健やかに育ち、やがて社会人として自立して行ける豊かな感覚(コモンセンス)を持てるよう、最大限の努力をしています。

Q. 勉強が不安です。「ぱいでぃあ」ではしっかりやってもらえますか?
A.
 お任せください。しかし、これは「ぱいでぃあ」のような学びを重視しているフリースクールだから言えることであって、どのフリースクールでも同じということではありません。(中には、「学びの学園」などと謳っていても、実際は養護学校レベルの勉強しかしないというところもあります。フリースクールによって支援する生徒の対象が違うということです。しかし、そこにはそこの持ち味があるのだと思っています)
 「ぱいでぃあ」に通う中で気付かれることと思いますが、学校に行っていた時のような「教えられ→覚える」という受身の勉強の姿勢ではなく、「自ら考え→自ら解く」という何事にも主体的能動的な姿勢になっているお子さんを発見することでしょう。朝、「ぱいでぃあ」にやって来ると、誰に命令されることもなく学びのモードに入る子どもたちの姿があります。しかも、そこにはみだりに他人の領分を侵さないという暗黙のルールも働いています。
 しかし、これは結果としてそうなるのであって、まずは、居場所&癒しの場として、その子の心身の状態をしっかりと受け止めることが始まりであり、どの子にとっても無理のない心の回復や自立心の向上を図っていきます。


Q. 学校に行かず、「ぱいでぃあ」に勉強を任せていても大丈夫でしょうか?
A.
 大事なご質問ですね。きっと「ぱいでぃあ」の卒業生やOBの活躍を見れば安心して頂けるのではないかと思います。「ぱいでぃあ」はそういう意味では多少の実績のあるフリースクールです。 
 お子さんが「ぱいでぃあ」に来るまでどうであったか、今の状態がどうであるかによって異なりますが、基本的に「大丈夫ですよ」と言えます。今までにもいろいろな子どもたちが「勉強出来るフリースクール」を求めて「ぱいでぃあ」に転校して来ています。
 実際の成果は進学・進路のデータ(別表)をご覧ください。学校を離れた子どもたちではあっても、何ら臆することはありません。むしろ「ぱいでぃあ」にやって来て自分のリズムに合わせて伸び伸び生き生きと勉学に取り組んでいる姿があります。公立や私立の有名進学校、専修学校、定時制高校、通信制高校、通信制サポート校など、それぞれの実力と希望に合わせて進学して行きます。また、最近は中学受験で私立中高一貫校へ進学する子どもたちも増えて来ました。また、何名かの特に頑張った子の場合には「ぱいでぃあ」の校長推薦という形で有名進学校へも進学しています。
 ただし、「ぱいでぃあ」はあくまでも独立したフリースクールであり、サポート校付属の中等部ではありませんから、サポート校の高等部に進学すればそれで良しとする指導は行いません。中学受験にせよ高校受験にせよ、子どもたちにはその希望と実力に合った進学先を自由に選んで挑戦して欲しいと思っています。そのために「ぱいでぃあ」は可能な限りの教育的支援を惜しまないつもりです。

Q. 卒業生・OBの動向を教えてください。
A.
 「フリースクール・ぱいでぃあ」を設立したのは2000年2月、その5年前の1995年から教育雑誌「ニコラ」の活動を開始していますから、計15年ほど学校を離れた子どもたちの教育活動に関わって来たことになりますが、ここでは「ぱいでぃあ」の卒業生・OBに限定してお話したいと思います。
 こういう不況の中、今年も有名企業に就職した人や映画制作など夢実現に向けて励む人、自分のセンスを活かして美の世界や数理の世界に進んだ人、教育や福祉の世界で頑張っている人、いま大学生活を謳歌している人など、様々です。もともと学校では満たされない個性豊かな子どもたちだったのです。
 そういう卒業生・OBを見て改めて感じることは、夢は持たなければ実現しないこと、夢は持つだけでは実現しないこと、夢は追い求めてこそ意味があること、そして、「ぱいでいあ」を飛び立った子どもたちの多くは夢を成し遂げていく子どもたちであるということです。その熱意に比べればペーパー上の学歴はあまり重要ではないとも言えそうです。

Q.「ぱいでぃあ」には進学保証制度のようなものはありますか。
A.
 不登校になると学校に行けないことも心配ですが、「これで人生お終いではないか」「もう先がないのではないか」「ずっと引きこもってしまったらどうしよう」と色々心配になりますね。
 でも、大丈夫です。「ぱいでぃあ」には「学習成果・進学保証制度」というのがあります。お子さんが自立し、希望の進路進学に向けて羽ばたいていくようになることを自信を持って保証する制度です。これは進学実績のないフリースクールでは不可能なことです。
 そのために、「ぱいでぃあ」では一人ひとりに合った個別対応の自立プログラムを作成し、子ども・親・ぱいでぃあの三位一体の結び付きの中でそれを実践し、自己実現を支援していきます。その結果、ほとんどのお子さんは中学・高校・大学等へ進学したり、社会参加を遂げ、自己実現を成し遂げています。ちなみに、今年も有名大学や進学したり有名企業に就職した人たちがいます。

Q. 「フリースクール・ぱいでぃあ」の学びについて書いた文書があれば、参考までに紹介してください。
A.
 いろいろありますが、その中で二つほど紹介しておきます。
 (もっと詳しくお知りになりたい方は、「いきいきニコラ」か「フリースクール・ぱいでぃあ」のサイトの記事「行ってみないかこんな『学校』」(ハート出版)などをご覧下さい。なお、教育雑誌「ニコラ」については後日、保存版としてPDFファイルの形で復刻の予定です)
(1)「ぱいでぃあでの学び①」=フリースクールでの学び
(2)「ぱいでぃあでの学び②」=「学力低下」論議について
(3)「Play-Study-Workの結びつき」=教育の営みは「公」(public)の営み

Q. 学校復帰のための働きかけはありますか?
A.
 学校に戻りたいか戻りたくないか、戻る気はあるかないか、は基本的に本人が決めることだと思っています。止めもしませんし強制もしません。ただ一般的に、元いた学校やクラスに戻ろうとすることは大変なプレッシャーであろうと思います。
 「ぱいでぃあ」に通うようになった子どもはみるみる雰囲気になじみ元気になっていくのが普通です。「ぱいでぃあ」には自分が受け入れられ認められているという思いになれる環境があるからです。ここは私たちスタッフやアシスタントだけでなく、子どもたち全員で作り上げていく空間なのです。
 ところが、親御さんや学校の先生は「ぱいでぃあ」でそんなに元気になった子どもの様子をみると、「そんなに元気なら学校に戻ろう!」と働きかけます。で、周りから言われて本人もその気になります(不登校の子は特に周りに気を使うのです)。でも、それは「ぱいでぃあ」にいるから元気なのであって、まだ本当に気丈になったわけではないということが多いのです。
 その結果、子どもはまた「できない自分」を体験し、更に深手を負うことにもなります。子どもの行動は親御さんを喜ばせたい一心の行動であって、必ずしも本心から生じたものではないのです。ですから、まずはじっくりとお子さんの本音と付き合い、片言の向こう側から聞こえてくる子どもの本心(声なき声)に耳を傾けることがとても大事です。

Q. 「教育相談」では、どんなことを話しますか?
A.
 「ぱいでぃあ」では入学する前に「教育相談」や「体験入学」があります。たいていは「教育相談」で初めて互いを知り合うことになりますが、「どうして学校に行かなくなったのか」「フリースクールに何を求めるか」「ぱいでぃあはどんなフリースクールか」…などを、お子さんの話せる範囲で、また受け止められる範囲で話し合うことになります。
 中には、「本人は相談にも行けない」とか「相談に来るのがやっと」、「相談に来ても目を合わせられない」…というように、学校に行けなくなったことでひどく落ち込み、マイナス感情や自己卑下でいっぱいになってやって来る子もいます。ですから、それぞれのお子さんの状況に合ったお話から入り、それぞれの接点を見つけていくことになります。
 インターネットの発達した現在、「ぱいでぃあ」に来られる前に、ここがどういうフリースクールであるかを「フリースクール・ぱいでぃあ」や「いきいきニコラ」のサイト等でお調べになった方が多いですね。でも、稀に対象外の方(完全な非行系など)が来られる場合もあります。そういう場合には、その子に相応しい場などを紹介することになります(そういう子の場合、ナイーブ系に劣らず時にはそれ以上に周りの支援が必要なことがあります。放置しておくことはできません。でも、同居は不可能なのです)。

(次回に続く)

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