歌を詐欺の道具に…小室被告を断罪、活動再開いばらの道(読売新聞) - goo ニュース
「長きにわたり人の心をうつ歌の数々を世に送り出した」と裁判長は語り、小室自身も「100円玉一つでも大切に使おうと思っている」とも語ったようだ。
この心掛けはよしとする。でも、私は小室の作る音楽に感動した経験がない。どの曲も全て空疎な音の羅列にしか過ぎなかった。
当時、若者達が競うように彼の音楽を聴く光景を不思議な思いで眺めていた。多分、自分の感覚が時代に合わなくなったのかもしれないとも考えながら。でも、こんな電子音の組み換えに過ぎないような音楽がいつまでも続くはずがないという思いもどこかにあった。
今、彼の音楽へのリクエストや配信自粛へのファンの抗議が意外なほど少ないとも聞く。私には今の聴き手の反応の方が正常ではないかと思える。では、かつてのあの熱狂は何だったのだろうか。あの熱狂が当時のポピュラー音楽界を狂わせたし、彼自身の人生をも狂わせたのだ。
自分の感動という実感を伴わない妙に醒めた冷たい有象無象のファンと称する連中のあの“熱狂”が怖い。あれは単なる一音楽現象ではなく、一時期の社会現象でさえあった。
小室氏はあの熱狂が本物であり、自分はそのヒーローであったと今でも思っているようだ。確かに、「待ちぼうけ」に詠われた“守株”というようなことはあったのだろう。でも、それに拘ることの愚かしさを今こそ知るべきだ。多分、二度とあれと同じ錯覚や迎合、つまり醒めた“熱狂”はやって来ないだろう。逆に、あっては困るのだ。
※一部表記にミスがあり、訂正しました。ご迷惑をお掛けしました。
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