教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

■教育の規制緩和によって、文科省による教育の独占を廃止せよ!

2010年09月13日 | 学校教育
※かなり刺激的なタイトルを掲げたが、日本の教育はもう生半可な手直しでは再生が不可能なところまで来ているのではないかと思えてならない。

▼海外では、地域の親達が集まって学校を作り、それを教育行政が資金で援助しているところが結構ある
ようだ。きっと、教育というのは本来、民の活動なのだということが常識として認識されているのだろう。それに比して日本の場合はどうか。いまだにお上に伺いを立てるという発想から脱却できない。

「日本の教育のあり方にも、事業仕分けが必要だ」と前に言ったが、政権交代した今、さらに「教育の規制緩和が必要だ」と切に思う。日本では明治以来、教育は国家(教育行政、文部省)の専売特許とされてきたが、おかしなことだ。

▼明治以前に国家の教育は存在しなかった。しかし、そこに寺子屋をはじめとする民の教育システムが機能していた。それは明治政府がやおら開始した国家主義的な教育の規模をゆうに超えていたという。これが日本の教育の原点であろう。

もともと教育権や学習権というものは親や子どもにある、基本的人権の一つである(親の教育権は子どもの学習権を実現する責務を第一次的に履行する権利であるとされる)。国家が統括する学校教育は親の教育権を単に国に委託しているに過ぎない。ところが、今やその国家も行き詰まり、国家による教育も限界に来ている。が、その前にまず、今まで日本の政府は自国の教育にどれだけ力を入れてきたのかが検証されねばならない。規制をかけて国民の自由な教育活動を圧殺してきただけではないのか。

▼「経済協力開発機構(OECD)は7日、2007(平成19)年の加盟各国の国内総生産(GDP)に占める教育費の公財政支出の割合を公表した。日本は3・3%で28カ国中、最下位だった。」「日本の教育費全体のうち、公費が占める割合は66・7%で、家計や企業など私費が33・3%。一方、フランスでは公費の割合が91・0%に上っており、ほかの英独と比べても、日本は公費の割合が低かった。」
(いずれも産経新聞の記事から)。文科省がどう言い訳をしようと、これが日本の教育に対する取り組みの実態である。

▼日本の教育の「学力低下」が叫ばれて久しい。が、その根本原因は児童生徒にあるのではなく、国家の教育行政にあったのだ。日本は他の分野でも国際競争力においても激しい地盤沈下現象を起こしている。教育を等閑にしておいて、国家再興の道が開けるはずがない(かつての自民党政権は、権力に逆らわない人間を求めて、一貫して教育の愚民化政策を実行してきた)。一方、各国は教育こそは国家の最大の浮上策と心得て、最大限の力を入れている。

▼このままでは、日本丸は本当に沈没するだろう。もう日本の文科省だけに日本の教育は任せておけない。そこでまず、文科省が日本の教育を独占する形態を改めることから始めねばなるまい。そのために、教育を民に戻すことが急務である!教育の「規制緩和」こそ今、火急に求められていることだ!

本当にそう思っている。日本丸は今、悶え苦しみつつ沈みつつあるのだから。

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レンジャーもののドラマといじめ・不登校の関係について

2010年09月04日 | 不登校
gorangers

▼いつの頃からだろうか、子ども達の集団遊びで「レンジャーもの」が日本で流行りだしたのは。もう20年以上の歴史があるのかもしれない。子ども時代にテレビを親しんだ世代ならば、レンジャーものは当たり前のものとしてあったのかもしれない。しかし、それより前の世代の人間にとっては、子ども達が熱狂して喜んでいるから放置していたものの、それはちょっと奇妙な世界に見えた部分はなかったか。

▼こういくドラマは、遡れば日本の場合、ラジオ・ドラマの世界から始まっている。古くは笛吹童子、赤胴鈴之助、鞍馬天狗(西部劇にも米国版「鞍馬天狗」とも言うべき「ローン・レンジャー」がある)、月光仮面…と続く。そこで子ども達が一種の尊敬と憧れの眼差しを持って接していたのは、「正義」のために戦う──「正義」という言葉が子ども達に好まれるのは今も昔も変わらない──特異な能力や勇気を持った英雄や偉人であった。そして、彼らは単独で行動し、それゆえにどこか孤独な風合いを帯びていた。いつもどこからともなく現れ、正義のために戦い、そしてどこかへ消えて行くのが定番だった。

▼ところが、いつ頃から始まったことか、普段は一般の市民の生活を営んでいるが、何か事があると(大体は地球の危機だ)変身して集まり、仲間と共に徒党を組んで、「悪」のために戦い地球を守るというレンジャー部隊ものが子ども達の人気を集めるようになった。どうしてこういうレンジャーものが流行りだしたのか、詳らかではないが、子どもを出汁に使って商売を考えることにはどこの国よりも長けた日本のことだ、どこかに子ども達を誘導する仕掛けがあったのだろう(今の世論を誘導するマスコミの報道とよく似ている)。

▼「子ども達が楽しめたらそれでいいじゃない」という意見も多くあろう。当時の親たちもそうやってやり過ごしてきたのだ。確かに、一理ある意見ではある。なるべく子どもの気持ちや意志を尊重したいものだ。ところが、そういう親たちが、自分たちが子どもの時に親しんだ物真似遊び(今流にいうと、コスプレか?)と自分たちの子ども達が演じているレンジャー部隊の物真似遊びとは質的に180度ベクトルが違っていることに気付かないできたのだ。いや、気付いたとしても、大層なことではない、児戯に類することと放置してきたのだ。

▼では、レンジャー部隊もののテレビドラマの何が問題なのかそれまでは正義の使者は単独で行動し、大方は集団の悪を懲らしめてきたものだ。ところが、レンジャーものの場合には、地球を破壊しにやって来た異形の形をした悪の怪物(一人のことが多い)を、地球を守るという正義の名の下に、集団で攻撃する場合が多い奇妙な符合だが、その頃から学校での集団のいじめとか不登校が顕在化するようになってきたように見える。
昔のヒーローは自立し、「正義」の為には孤立することも厭わず、その道義に自己の存在を賭けたのである。ところが、今の正義は集団の側にあり、その集団から外れた個人を集団の力学で圧殺しようとする。例えば、集団からこぼれた者や集団の規律からはみ出た者を学校の決まりなどという集団の論理をバックにした多数の子ども達が、レンジャー部隊の隊員よろしく、「正義」の名の下に、「悪」の存在と看做した一人の子どもをいじめ、排除していたのである。(そして、教師が主宰の役を務めたこともしばしばあった。)

▼こういう集団的ヒステリー現象は、何も子ども社会に特有のものではない。大人の社会でも、その集団がその外部に敵を想定し、内部の危機を取り繕おうとする時にしばしば引き起こされることがある。
例えば、村社会の掟やギルドの論理を逸脱した者と決めつけ、あるいは異教徒の民や悪魔的異端の徒と(理屈と膏薬は何処にでも付く、という言葉もある)断定し、既に長い人間の歴史の中で愚かにも──それは無知の時代の出来事だけではない─しばしば繰り返されてきたことでもあった。

▼だから、尚更に思うことだが、子どもの世界でのいじめや不登校の問題は容易には解決しないだろう。その根は大人達の半ば無意識的とも言える深い層に根ざしている出来事でもあるのだから。
教育は基本的に「どの子も良くなろうとする種子を持って生まれてくる」という性善説に立つ。「パイデイア」という考え方もこれに拠る。しかし、人はまた生まれ育つ環境によってその種子の成長は如何ようにも変化し適応するのだ。環境によって、悪にもなれば善にもなる。だから、法による支配・強制・矯正もまたやむを得ないこともある。

「人は社会的な動物である」というのは紛れもない事実。子ども達は社会的な存在として成長しなければ、後々社会を受け継ぐことはできないのだ。私流の言葉を使わせてもらうなら、子どもは「第二の誕生」を経なければ社会人とはなれないということだ。そして、それを支援するのが教育の役割であるということである。
しかし、そういう個人と集団の問題や子どもの成長や発達の問題を、等閑には出来ない教育の問題として、日本の社会はどれだけ意を注いできただろうか。今、ようやくその端緒についた…、いやいや、まだ何も始まっていないのかもしれない。

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