教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

ぱいでぃあでの学びの一端を紹介

2016年09月27日 | 学校教育と不登校

ぱいでぃあでの学びの一端を紹介

▼「よのなか科」の藤原先生とぱいでぃあでの学びの実践

 これはもう、「フリースクール・ぱいでぃあ」の設立(2000年)から実施してきたことであり、今さら言うまでもないこととして殊更問題にして来なかったことだが、今回ふとしたきっかけから「教えなない勉強法」ということについて、ちょっと立ち止まってお知らせすることにした。(それは従来の学校での授業法を「古典的教授法」として退けるということでもある。)
 それは日経の記事で、元リクルート社員としてプレゼンやマネジメントの術をマスターした後、和田中学校で「よのなか科」の授業や夜スペでTVでも名をはせたあの民間校長の藤原和博氏のその後の話に出会ったからである。

▼和田中学校を退職後、」奈良市立高校の校長として
 自分は当時義務教育からの教育改革の実践者として藤原氏への関心はあったが、それはあくまでも文科省が設けた枠の中での実践であった。だから、学校の生活を捨てた不登校の子どもたちには直接関係のない試みとして深くは関わらなかった。
 しかし、その藤原氏が和田中学校を退職された後、現在は奈良市立一条高校の校長として、そこでも「よのなか科」の授業を行い頑張っているという。そのことが都立両国高校付属中学の教諭・山本嵩雄氏との対談という形で紹介されていた。

「よのなか科」の授業と英語授業での試み
 中学の校長時代に、「地域社会を学校教育にもっと入れていかないと義務教育は持たない」「もう先生たちだけでやれる時代じゃない」ということを実感したという。その藤原氏が今「よのなか科」の授業を通して試みていることがある。それは文科省が新しい授業の方法として大々的に喧伝している「アクティブ・ラーンニング」という方法を実際の授業で展開しているということ。
 対談はそういう現在の藤原先生の「よのなか科」の授業に山本氏が参席し体感するという形で実現した。そして、その感想を語ることから、逆に藤原氏が山本氏が実践している英語の授業の話になっていく流れになっていた。結局は、両者の語るところに大きな違いはないということになるのだが。

▼「トレーニング」という学びを通した「生徒目線」の学び
 つまり、新しく提唱されている「アクティブ・ラーンニング」とは、従来のように教師が一方的に授業を進めるのではなく、生徒が議論をたたかわせる中で、自らで解決の方法を見出していくという学びの方法である。
 何のことはない、それは「ぱいでぃあ」(遊びと学びは同根という考え)が設立以来一貫して不登校の生徒達に行ってきた方法によく似ている。ぱいでぃあでは基本的に従来のような「教え--覚える」という勉強はしない。
 だが、それは学ばないことでは決してない。遊びであれ、スポーツであれ、学びであれ、全ては「トレーニング」を通して個々人の向上を図るということが前提にある。だから、一人ひとり学びの方法も異なり(ここに関わる側の力量が試される)、「生徒自らが考える学び」をしてもらうことになる。
 そして、それは必然的に「生徒目線」で考えることにもなる。「教科書に書いてあることはやらない」し、「生徒が教えられていないように感じる学び」を行うことになる。「生徒が安心して失敗できる」等は「ぱいでぃあ」では当たり前の風景に過ぎない。

▼「少人数、小クラス、複式学校」での学び
 余談だが、学校は「少人数、小クラス」を嫌う。例えば、1クラスしかないような小規模の学校ではいつも生徒が固定されているからいじめが起きやすいと敬遠されたりする。先生は生徒を教えるものだという従来の発想ではそうなるかもしれない。
 だが、逆に「少人数、小クラスはフリースクールでは望ましい」と考えている。そこには「複式学級の考え方」も生きている。ある時は生徒、ある時は先生の役にも容易になれる。人に教える立場になって初めて見えてくることも多い。また、生半可な知識では人に教えるわけにもいくまい。
 藤原先生と山本先生の対談を通して、逆に自分たちがフリースクールで主に不登校の子ども達を対象にやってきた方法の先進性が裏付けられたような気もしている。
 それよりも、文科省がアクティブ・ラーンニングなどと言っていながら、実際は藤原先生のような篤志家的な先生しかやっていない、やれていない現状が見える。「それで学校教育は本当に大丈夫なのか」と逆に心配になってくる。

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不登校の対策の推移

2015年07月03日 | 学校教育と不登校


▼自分たちが子どもの不登校問題に取り組み始めたのが1990年代であるから、かれこれ20数年の歳月が過ぎたことになる。その頃不登校生はウナギ登りに増え始め、遂に13万人を突破するまでになったが、今も12万人を突破したままである。
この間、民間の教育組織が先鞭をつけ、後に教育行政の側も動き出したが、

もしも我が子が不登校になったなら----親のあり方、フリースクールへの関わり方

2015年06月08日 | 学校教育と不登校

我が子が不登校になったとき、親御さんはどんな態度を取られるのだろうか?私達のように不登校問題に取り組み始めて20年以上、実際に不登校の子ども達をフリースクール(ぱいでぃあ)という場で日々接し支援し始めて15年以上になるのとは違って、大抵の場合、親御さんたちは人生上で初めての経験であり、「不登校問題の初心者」と言ってよかろう。
しかし、親御さんたちにはそれなりに人生経験も豊富であり、子育てのプロであるというプライドもある。ここに大きな落とし穴がある。親は子どもを持って初めて親となるのであって、人生経験はそれなりに豊富でも、親としての経験は子どもの年齢と同じなのである。しかも不登校の子どもの親になるということは全く「想定外」のことであったはずである。

子どもが不登校になってフリースクールの門を叩くまでには様々な経過があったと思われる。子どもが不登校になったから即フリースクールへという例はまずない。我が子が不登校になったとき、親御さんがまず最初に行うのは子どもへの「登校刺激」であろう(そこには少なからず我が子が問題という意識がある)。それを何回やってみても上手くいかないとき、「学校の担任の先生に相談」する(慌てた担任の先生がまず取る態度は、自分や学校の指導が問題ではない、生徒の側の問題ではないかということ。他の生徒達は問題なく学校に通っているのだからと)(ただし、親御さんには我が子にも問題があるかも知れないが、もしかしたら第一の問題は担任の先生や学校側の対応にあるのではないか、という意識も芽生えているかもしれない)

▼とにかく、我が子が不登校になった原因を、我が子か担任の先生の応対のせいではないかと疑うのが最初は多いようである。しかし、内心ではもしかしたら幾ばくかは「自分に原因」があるかも知れないと思う親御さんもないわけではなかろう。しかし、「そんなことはない」と無意識に否定していることも多い。とはいえ、子どもも担任の側もすんなりと「自分に原因がある」と認めることはまずなかろう。自尊心があり、職業意識があり、プロとしてのプライドもある。でも、我が子の不登校状態は一向に好転しない。登校を強要する親に激しく抵抗さえもする。
それまでは親は子どもを無条件に愛し、受け止め、子どもの味方の存在であったはずである。だが、だんだんその立ち位置もあやしくなってくる。

▼どうにも埒が開かなくなった親御さんが次に行くのは、学校外の相談機関や医療機関であろう。一般に「不登校は病気ではない」と言われる。その言い方にはそれなりの理由がある。決して無責任に言っているわけではない。しかし、奇妙なことに不登校になった子どもの親御さんはほぼ判で押したように医療機関の判断を仰ぐ。確かに医者は医療についての専門家である。しかし、教育の専門家ではない。ところが、親御さんはもちろん、そこに行くことをすすめた教師までもが、医療的見立てだけでなくそれ以外の門外漢的な教育的な診立てについて述べられたことをも何の疑いもなく受け入れ信じてしまうことが多い。「医者の診立ては絶対」と考えて教育的観点を簡単に放棄してしまうことも起きてくる。

▼今回ここで「医者との関わり方」については脇においておくが(別の機会に詳しく論じたい)、結局そこでも満足できなかったり、医学ではすべて解決できないと感じた親御さんが最後に訪ねてくるのが、フリースクールという学校教育外の民間の教育機関である。だから、学校や教育委員会を含む教育行政的関わりではもう駄目、しかし医療機関だけでも駄目という経過を経てきているわけだが、フリースクールというところは親御さんにとって今まではその存在すら知らず、我が子が不登校になって初めてネット等で知った教育機関であることが多い。だから、その存在理由も、その存立基盤も、活動内容さえも知らないことが多い。だから、スーパーのチラシに群がる消費者のように、広告の派手さや謳い文句に容易に食いついてしまうことも起きてくる。

フリースクールの実際については別の所で詳しく論じたいが、フリースクールはその数だけ色々な考え方があると考えていい。「医者選びも命のうち」と言われるが、同じくフリースクール選びもとても大事な作業である。場合によってはその子の生き方を大きく方向付けてしまうことにもなる。フリースクールをどういう基準で、何を目的として選ぶか---大いに考え悩んでいただきたい。心身の状態、知的な状態、そして我が子の何が可能になるか---どれだけ悩んでも悩み過ぎることはない。しかし、そういう親御さんの側からのフリースクール選びと同時に、逆にフリースクールの側からもその子の特性や能力などの把握からどう関わるのがベストであるかという観点から、親御さんの要望やフリースクールに期待することなどを伺い、できるだけ生かそうとすると同時に、いろいろなタイプの子ども達を立ち直らせてきた経験から(教育学のような学問の世界とは異なる)、どうしても譲れない点、親御さんに何としても理解してほしいことがある。子どもの立ち直りを真剣に思えばこそである。(逆に、そういう子ども達を収容することを主眼とする施設ではいつまでもいていいような関わりを優先させることになる)

フリースクールに来たということは、家庭だけでも、学校や教育行政と相談しても、カウンセリング機関や医療機関に相談しても、どうしても我が子への関わり方に納得が行かず、最後の支援機関としてやってきた場合が殆どであろうと思う。言わば他では万策尽きてやってきたのである。ならば、なおさら今までの関わりの反省の上に相談に来てほしいもの。ぜひそれまでどういうことを言われたか、どういう診立てをもらったか、検査データはどうであったか…それまでの全ての資料を見せてほしいと思う。中にはそれをつくろって相談に来る人がいるが、それでは後で問題になるだけである。
そして最も大事なこと、それは医者を信頼しその処方に従えばいいときに、医者を信頼せず自分流の判断で勝手に薬を飲んだり飲まなかったりすることが時には命に関わる大きな問題にもなるように、フリースクールに来たならばその方針に従わなければ得られる結果も得られなくなることがあるということである。

よく学校で「モンスターペアレント」と言われる親御さんがいるが、それは我が子を思うあまりか学校の先生の話を受け入れなくなって一方的に学校側を攻撃する親御さんに使われる言葉のようだが、同じことは不登校の子を持つ親御さんの場合にも容易に起きること可能性がある。しかし、家庭にいるだけでは道は開けず、様々な機関を渡り歩き、最後の拠り所としてやって来られたのであれば、そのスクールの方針に従うことが子どものためであろう。「よくここまで辿り着いたね。ここなら安心だよ。君の自信回復、君の立ち直りを支援してあげるね」とフリースクールが責任を持って引き受けたならば、ぜひその支援の仕方を尊重してほしいものである。
逆に言えば、我が子を不登校のままいつまでも親子の共依存的な関係の中に置いておきたいのであれば、そのフリースクールが設定した「自立達成のプログラム」を無視して勝手な活動を続けていればいいということになる。そういう信頼関係が成り立たないところでは、そのフリースクール本来の関わりや支援の方法が行えなくなってしまうからである。

具体的にどういう問題が親御さんにあるのか---そのことについてはおりおり取り上げていきたいと思う。「古いものは半ば崩れたが新しいものは未だ形を成していない。だから、取り敢えず今までの方式でやっていく」というのが親としての「賢明な対応」ということになるのかもしれないが、そこに創造的な教育的関わりを見ることは難しい。そのことによる矛盾や戸惑い、苛立ち、ストレスなどが色々なところに噴き出してくるように見える。
渦中にいる子どもや親御さんにはなかなかそこが見えない。見えない中でもがいている。それがよく見えてくるのは5年後、10年後であったりする。もうぱいでぃあを飛び立って随分経った頃、「あの時はよく分からなかったことが今はよく分かる」という親御さんの感想を頂いたりする。それだけの年月が経って、時間と空間の隔たりが出来て初めてそれを客観的に眺められるようになったということであろう。「私が悪かったんですね。当時は自分のことに精一杯で、子どもがどんなに苦しんでいるか、ぱいでぃあさんに言われてもよく分からなかった」と

(続く)

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「フリースクールの重要性」ということが初めて教育の課題に

2015年04月16日 | 学校教育と不登校

▼NHKがいち早く報道したように、政府の有識者会議が、「フリースクールの重要性」ということをはっきりと打ち出してきた。フリースクールとしてはこの動きを歓迎すべきなのかどうか…悩むところである。

有識者の間ではフリースクールの位置付けを(1)学校復帰のためのオルタナティブスクール、(2)学校では落ちこぼれる子ども達の受け皿……のように考えているようだが、第(3)の道として、「学校という枠に収まらない個性や能力のある子もやってくる場」という言い方も付け加えるべきかもしれない。

今までも、ぱいでぃあに、IQが140もあったり有名進学校に進んだ子もやって来ている。他のフリースクールでもそういう子ども達はいるのではないか。

 

▼本来ならこういう「フリースクール再評価」の動きは、文科省主導の教育行政の動きに少なからず批判的な日教組や全教の組合などの組織が、日本の教育界に蔓延している「学校教育の危機」を体現したものとまずは理解し、広く世に問い、警鐘を鳴らすべきものではなかったのかと思う。

 

▼ところが、実際には教職員等は相変わらずの組合員同士の馴れ合いや保身にばかり終始していたのではないか……と外部の人間には映ってしまう。不登校への対応の実際も、組合等の組織は文科省を批判はすれども彼等が主導権を取ることはなく、教育委員会任せの実態は否定できなかった。親の会等への対応を見ても、根本から不登校問題を共に考え現在の教育のおかしさを正していくというよりは、なるべく親御さん等の批判の矛先が教職員へ向かって来ないようにするものであった……と少なくとも部外者には見えたのである。

 

▼文科省では昨年の中頃から暮れにかけて不登校支援に関する対策が活発に議論されてきていた。最初は安倍総理の例のいろいろな「やります」発言の一つに過ぎないのかとも思っていたが、日教組等への組合対策(組合潰し?)としても非常に有効と考えたのか、本気度が次第に増してきている。

 

▼我々フリースクールの側に対しても、文科省が主催したフォーラムへの参加呼びかけだけでなく、数度にわたって実態調査やアンケート調査の用紙が回ってきている。「これはかなり本気じゃないか?」と思わせる。それは下村博文文科相が敢えて旧民主党の鈴木寛副大臣をブレーンとして起用し続けることにも現れている。

これは、言い換えれば、「日本の教育は不登校問題を抜きには語れないところまで来てしまった」ということになるだろうか。

 

▼実際に今後どう展開するのかはまだよく分からない。しかし、教職員組合等が不登校の子どもの母親達を巧妙に懐柔していたのとは違って、今までは各地方の教育委員会に対応を任せていたようなことはあったが、一気にアクセルを全開にしたような趣がある。

 

▼正直なところ、「遅すぎだ!」「今まで何をやっていたの!」という声はある。当たり前である。当事者の血の滲むような努力は一顧だにされて来なかったのだから」。

しかし、ここにも、前例に囚われず、時には慣例さえも押しのけて突っ走ろうとする安倍政権独特の性格を見る思いがする。

よくぞこれほど「役立たずの学校知」が教育界に蔓延したものである。良くも悪くも、安倍首相にせよ麻生財務相にせよ、 「漢字が…漫画が…コスプレが…」と揶揄され嘲られながらも、 「学校知がいかに役立たないか」を、見事体現して見せてくれたのである。

 

▼不登校になる子どもにはいろいろなタイプの子ども達がいる。だから一概に論じることはなかなか難しい。

しかし、そのどれもが学校が子ども達の生きる場ではなくなっていること、不登校はそういう学校から必然的に生まれたものであることを象徴的に物語っている。そういう意味で、不登校は子どもの側からの身体を賭けた教育の危機の表明なのである。

その欠陥については下村博文文科相自身が触れられている。ところが教職員の間にそういう認識がどれだけあっただろうか?むしろ教育を管理する立場にある者達の間に、先にその感覚が共有されたのかもしれない。

 

▼どちらが正しく、どちらが間違っているという種類の議論はここではしない。しかし、しばらくはブレインストーミング的な状況や篩いに掛ける試行錯誤のブレや揺り戻しが続くのかもしれない。

だからこそ、当面はそれを横目で眺めながら、子ども達と真摯に向き合って行くしかないのかもしれないとも思う。

今度こそ教育変革の動きが政治家や専門家の単なるパフォーマンスや独善に終わらないことを願うばかりだ。

 

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