▼保護者の間では「困った先生」とか「教員の当たり外れ」などという会話が公然と語られても、他方で、たとえばPTAの役員の間などでは「子どもがお世話になっている間は先生の心証を良くする」のが当たり前ともされていた。教員や学校に異議をとなえることは愚かな親のやることであり、タブー視されてきたのだ。しかし、そういう中でも数々の教員・学校批判は底流としてあった。
一方、学校側からすれば保護者には様々なタイプがあり、なかなか一律には行かないというジレンマがあっただろう。学校に児童生徒としてやってくる子どもたちの背後にはおそらく学校を終えてすぐ教員になった人にはその一部しか想像できない多種多様な職業や生き方をする親たちの生態があった。教員たちから見たそういう訳のわからなさも手伝ってか、いつごろからか「モンスターペアレンツ」という言い方が学校教育の世界で使われだすようになった。
▼それは最初、学校教師の正当性や優位性を示す観点から発せられた言葉であったのかも知れない。確かに一方ではそういうクレーマーとしての親の存在を炙り出すのにそれなりの意味合いはあっただろう。しかし、他方では学校教員の対処能力の乏しさ、狭量さをさらけ出す結果にもなったということは否めない。そのように命名したところで、問題がより鮮明に浮き彫りにこそなれ、それで問題が何一つ解決する訳ではないのだ。ただ、教員たちのどうしようもない悲鳴を聞くだけのことで、せんかたない駄々っ子の愚痴を耳にするのに似ていた。
▼そこに、今回、驚くべき事態の展開が起こった。埼玉県行田市の小学校の女性教諭が、自分のクラスの女生徒(9)の両親をモンスターペアレンツとして、不眠症の慰謝料500万円の補償を求める訴訟を起こしたというのである。確かに学校内での子どものトラブルをきっかけにその親が取った行動は電話での話、連絡帳への書き込み、文科省や市教委への通報など、常軌を逸したような行動に見える(一方からだけの物の見方だが)。だから、当該の女性教諭へのある種の同情もわく。が、生徒の親一人にも余裕を持って接することができず、自分の振る舞いにも問題はなかったかと振り返る器量もないキャパの狭さもまた浮き彫りだ(それがあったら、バカな訴訟に発展させることもなかったろうに)。
▼ところが、「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」と、小学校側が2010年10月、市教委に対しこんな校長名の文書を提出したというからますます驚きだ。そもそも、この校長に保護者への対処能力に欠けるところがあったからこんな事態になったのではないか…というのが、ますますはっきりしてしまった。これは小学生が学ぶ学校の教育者が取る措置ではまったくない。
これに対して、市教委が「あくまで担任と保護者の間の訴訟と認識している」とコメントしたのは正しい。本来、これは子どもの教育の問題であって、大人の利害やメンツのレベルの問題ではない。そして、抑えておくべきことは、「親は子ども如何によってはジャにも蛇にもなる」ということである。
▼訴訟で争うということになると、子どもに端を発した教育の問題でありながら、それはもはや子どもの問題ではなくなる。子どもの頭越しに物事は展開し、子どもの教育問題はそのダシに過ぎなくなるだろう。教師はそこまで考えて訴訟を起こしたのか。教諭を支持するという校長は、そこまで考えて訴訟を後押しするというのか。
はっきり言って、こういう問題を教育の問題を扱うには似つかわしくない訴訟という手段に打って出たという時点で、子どものための教育は死んだのであり、訴えた教師もまたその職を捨てたのだと言っていいだろう。何よりも子どもの声に耳を傾けることを忘れた「狂育」がそこにある。
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