教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

草なぎくんの叫んだ「裸で何が悪い!」について

2009年04月25日 | 「大人のフリースクール」公開講座

吉本芸人「裸で何が悪い」と新劇場をPR(スポーツニッポン) - goo ニュース

草なぎくんの叫んだ「裸で何が悪い!」について

今更この話題に触れるのは“後出しジャンケン”の趣もあるが、やはりちょっとだけ触れておきたい。

“「らしさ」を演じ続けなければならないタレントの哀しさ”とでも言ったらいいのだろうか、「裸で何が悪い!」と駆けつけた警官に食ってかかり、素直に“説諭”に従わなかったために逮捕となった草なぎ剛くんのことを思う。

今、タレントと言えば聞こえはいいが、平安・鎌倉の昔なら“”と言われた類の身分であろう。かつて、国家の運営や生産的秩序に参画しない人間は一般人以下に見られたり人間扱いされなかったりした世の中があった。後白河上皇が収集した『梁塵秘抄』などにはそういう身分の遊女達の唄が多数収録されている。

いわゆる“芸人”に対するこのような見方は、近代になるまで続いた。封建時代はおろか市民社会が成立した近代になってもそういう価値観は続いた。西欧のピエロもそういう存在であったろうし、怪しげな絵画や草紙に現をぬかしたり歌舞伎に身を染める役者達もそうではなかったろうか。

それでも、そういうタレントを持った芸人達は、自分達に与えられた身分とは異なる価値観や気概を持って生きていたようにも見える。文化の担い手とは社会の中ではいつもそういう存在であったとも言える。

そういう芸人やタレントがその独特の才能ゆえに世間で注目されるようになったのは、だんだんとラジオやテレビ等が普及し情報社会がやってきてからのことである。それまでの社会では非生産性のために絶えず脇役に過ぎなかった彼らが、老若男女の誰からも知られ、衆人の注目を集める存在に位置するようになったのである。シリアスであれお笑いであれ、彼らは情報化社会・映像文化の社会の申し子として登場してくるのである。

しかし、かつてその身分を省みられなかったときには、その分、何物にも囚われず何物からも自由であったが、その存在が注目されるようになると逆にその自由さを奪われる結果ともなった。先の東京マラソンで芸人の一人が心不全で倒れ生命の危機まで至ったが、そこに芸人の悲哀がある。人を笑わせるためにテレビがお笑い芸人の生殺与奪の権を握っていることは公然の事実であろう。

アイドルとか言われても、どこまでもフリーターに過ぎない彼ら芸人達は、テレビの世界で生き残るために、その笑顔とは裏腹に熾烈な生存競争を繰り広げている。国民的に受ければ、彼らはCMやドラマ等で引っ張りだこになって、寝食も忘れて出ずっぱりとなる。そういう芸人は多大な知名度や富を得る代わりに、行動の自由を失っていく。が、逆に忘れられた芸人は見向きもされず消えていくしかない。それが、この世界の常道である。

さて、本題を今回の草なぎ剛くんの事件に戻すが、彼を取り巻く様々な人たちの反応が面白い。概ね芸人やタレントの側にいる人たちの反応は彼に同情的である。そして、警察による逮捕や家宅捜査に対しては「そこまでやるか!」と批判的である。ところが、多大な費用をかけCMやキャンペーンに彼を担ぎ出した連中は金銭的な理由からも彼に批判的である。怒り心頭に達したのか、「最低の人間」とまで言い放った大臣までいる。普通はその行為を批判してもその人格を貶めるような言い方は慎むべきである。特に彼は公人なのであるから。

さて、私は……。かなり彼に同情的である。スマップのメンバーの中でも、もともと彼は真面目人間の方ではなかったか。いい意味でも悪い意味でも、中居くんのような狡猾さは彼にはない。だから、彼の謝罪会見もその真面目人間ぶりを再確認させてくれることになっただから、「だからこそ、…」である。彼は酔っ払って前後不覚になったときに、図らずも「裸で何が悪い!」と叫んでしまったのであろう。

らしくない自分」…彼が有能なタレントであり、スマップの一員であり、これからもこの世界で生きていこうと思うならば、それは封印しておかねばならない。映画やテレビの悪役がいつでもどこでも悪役でなければならないのと同じように、彼は彼に供せられた役割を演じ通さなければならない。たとえそれが本当は「らしくない自分」であったとしても、「らしくない自分」を取り込んだ生のままの自分を決して人前に晒してはならないのである。彼は芸人なのである。衆人の幻想を壊してはいけないのである。

「裸で何が悪い!」という彼の言葉は、そういう存在の裂け目から噴き出した言葉のように見える。彼は一度、何もかにも脱いで裸の存在になってみたかったのではないか。事件を起こす前、彼は「若者よ、我が道を行け」と料理屋の若者に進言していたという。もしかすると、それは自分自身への言葉ではなかったか。が、彼は今後二度と、たとえ前後不覚になるほど飲んだとしても、こうのような「大人気ない」言葉は吐くことはないだろう。そして、彼は淡々と愛される芸人・タレントとしての道を歩いていくことだろう。

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東大の入学式で、個性尊重を謳い上げた南部氏の祝辞

2009年04月13日 | 教育全般

南部氏「規格品ではつまらない」=東大入学式に祝辞寄せる-東京(時事通信) - goo ニュース

東大の入学・卒業等の行事の言葉で私の記憶にあるのは、「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と言ったとされる大河内一男総長の言葉である。これは1964年3月28日の卒業式でのこと。(新聞では報道されたが、実際には総長は言わなかったらしい)。

その当時、私は苦学生として他の大学で学んでいたが、「はて、面妖な…」という面持ちで受け止めたのを今でも覚えている。「太った豚」のイメージは論外として、「痩せたソクラテス」が東大生に求められるほどのそんなにいいものなのか…。という感想であった。「痩せたソクラテス」=「青白きインテリ」というのが私のイメージであった。「太ったソクラテス」であることの方が今の日本に求められていることではないか、という思いもあった。まだ、産学協同路線というのが学問の自立という観点から批判的な風潮であった時のことである。

今年(2009年)の東京大学の入学式が13日午前、東京都千代田区の日本武道館であった。浜田純一学長は今様の軟弱な若者に語りかけるように「タフな東大生に」と激励したようだ。が、祝辞として紹介されたノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏の言葉の方がむしろ注目されたようだ。「人はボルトやナットのような規格品であってはつまらない」「学校の成績と社会に出てからの成功は別物」「何か他人と違ったところを持っていることを自負し、互いにそれを評価せねばなりません」というようなことを述べたようだ。

よく調べた訳ではないが、東大の式典で一人ひとりの個性の尊重をここまで謳い上げたことはかつてなかったことではないか?その意味で、この南部氏の祝辞は画期的な意味合いを持つのではないかと私は思う。今までの東大を頂点とする勉強の価値観は、文部科学省の教育観とあいまって、最も規格品としての才能を競い合うようなものではなかったか。そう思っていた。が、ノーベル物理学賞を受賞した南部氏の言葉はまさにそういう価値観を真っ向から否定するものであった。そういう言葉が、東大の入学式という晴れの舞台で披露されたということの意味はとてつもなく大きい。

かつて大河内総長の言とされた「痩せたソクラテス」から南部氏の「規格品であってはつまらない」の言まで、数十年の年月を経ている。そして、「日本の教育もようやくここまで来たか…」こんな感慨にふけっている。でも、これは日本の教育の本当の「CHANGE]の第一歩になるかというと、さあー、そんなに楽観的に考えていいものかどうかという気もする。

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「中1ギャップ」対策の「小中一貫教育」システムとは何か

2009年04月04日 | 教育全般

ついこの間「小1プロブレム」が問題になったと思ったら、今度は「中1ギャップ」だという。中1ギャップというのは、要するに、小学校から中学校に進んだときに、学級王国から教科担任制への変化、学習量の大幅増加、部活動等の人間関係など、学校の生活空間が大きく変化することから来るストレス、具体的には、いじめや不登校が急増することをいうようだ。

ちなみに、文部科学省によると、2007年度に30日以上学校を休んだ不登校の小中学生は、約12万2000人、小学生が約2万2700人、中学生は約9万9500人だという。実質的な不登校生はもっといるはずだ。ちなみにその対策として導入したスクールカウンセラーを配置するための経費は47億円もの税金を当てている。だが、その成果というものはほとんど聞かれない。

確かに、中1ギャップは大きな問題だ。でも、それは舞台が小学校から中学校に移ったというだけで、「小1プロブレム」と本質的なものは何も変わらないのではないか、とも思う。これが高校になれば「高1ドロップアウト」とでも呼ぶべきものになるだけのことだ。特徴的なのは、全ては学校生活空間の切れ目で起きているということ。これをどう考えるか…。

原因は一様ではなく、個々に即した丁寧な指導が必要だ、というのが一般的な考え方のようだが、教育関係者がどうもはっきりした原因は掴んでいるようには見えない。きっと教師達は、幼稚園や保育園では自分達の教育や保育が一番だと考え、小学校では小学校でやっている教育方法が一番だと考え、中学校では中学校で自分達のやり方が一番だと考えているのだろう。これは高校の場合も同様だろう。

彼らは、この問題は教育者の側の問題でも教育システムの問題でもない、問題はそれに適応できない子ども達の側にあるのだとでも思っているふしがある。しかし、そこには彼ら特有の独善が潜んでいるように思えてならない。そこで、そういう教員の誰でもが納得できる一番の切り札として、幼保と小学校、小学校と中学校、中学校と高等学校との連携を密にしよう、ならば、幼小一貫教育、小中一貫教育、中高一貫教育というやり方がいいのではないかというわけだ。

横浜や大阪をはじめ、この連携を強める方向に雪崩を打って進むことになるらしい。でも、原因がはっきりしないのに、対策だけは立派に立てるというのはいかがなものか。何か泥縄式の典型のようにも見える。「誰も責任を取らないシステム」の問題がここ教育の世界にもある。何かまた壮大な無駄をしようとしているように見えなくもない。

小中一貫の方法として、たとえば4・3・2とか、3・4・2とか、5・4方式とかがあり、全ては6・3・3制の枠組みは壊さない範囲での試みになるようだ。それを見ると、現今の教育システムに対する若干の問題意識はあり、まあ、全く効果はないということにはならないかも知れないが、どうも抜本的な解決には繋がりそうにもない

私の見るところ、この問題の遠因は日本の学校教育のシステムそのものにある。つまりは、このようなシステムではどの段階においても、システムと施設と指導者がまず先にあり、子ども達はそこに適合することをのみ求められる。子どもの教育ではまず先に教育を受ける主体としての子どもがあってしかるべきだと思うが、残念ながら教育行政を取り仕切る側の人間にそういう発想はまずない。調べていけば分かると思うが、上の学校に進学して不適応を起こす子どもの大部分は、実は今いる空気に最も適応していた子ども達、いわゆる学校の指導に最も素直で真面目に反応し、最も良い子を演じてきた子ども達であったということだ。その結果として、上の学校に進んだときに、そこに支配する異質な空気に自分を適応させることが出来ずに、真っ先に不適応を起こしてしまったのだ。

繰り返しになるかもしれないが、小中一貫とか小中連携とか、このような手段に出なくてはならなくなったことの背景には、子ども達の生活、彼らの心や体の成長の現実と文部科学省が一手に握る日本の教育システムとが合わなくなってきたということがあることはまず間違いない。広く言えば、13万人にも及ぶ(実態はもっと多いはず)不登校の子ども達の出現はそういう教育システムに対する子ども達の体を張っての異議申し立てでもあるのだ。

この日本の教育システムの引き起こす最終的な形態として、私は「社会的引きこもり」の現象を見ている。別の見方をするならば、彼らほど日本の教育が要求するものを忠実に演じてきた連中はいない。確かに、見方によってはとても不器用な連中ではある。学校教育の要請をもっとクールに、適度な距離をもって、程ほどに受け流してきたならば、そういう桎梏に絡め取られることもなかったであろうに。しかし、日本の学校教育は(例えそれが建前であろうと)逆にそういう生きる知恵とも言える能力を悪のように見なしてもきた。そういう意味でも彼らはまさに日本の教育システムの矛盾から生まれた犠牲者達なのである。

何故、そう言えるのか?それは、自分でフリースクールをやっていて感じたことだが、フリースクールにやって来る子ども達というのは、そういうプロブレムやギャップを身をもって体験し、ドロップアウトした者達が殆どだからである。教育行政や学校の教師はそういう生徒がいなくなったところから始めるらしいが、私達フリースクールの人間はそういう生徒達がやってきたところから始めるのである。だから、彼らの生態が良く見える。彼らは私達のところに救いを求めてやってきて、癒され、再び元気になって、また飛び立っていくのである。彼らにとって何が問題か、どうすればいいか、もう10年も15年もやってきたことだ。だが、教育行政は訳の分からない対策に経費は惜しみなく注ぐけれども、我々の意見には殆ど耳を貸そうとはしない。何かがおかしくはないか?

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学校から習熟度別授業システムを一掃せよ

2009年04月01日 | 教育全般

3月31日付けの朝日新聞に、文部科学省の調査結果で、「習熟度別少人数授業」が学力の高くない子の「学力向上につながっていないケースが少なくない」ことが分かったと報道されている

「さもありなん」というのが私の感想である。一時、まるで学力向上の切り札のような勢いで鳴り物入りで導入され、教員による自画自賛の声も多く聞かれていたが、私は最初の頃から疑問視していた。それはまるで進学塾の猿真似のように見えたが、学校は進学塾ではないのである。ベクトルの向きも逆である

私は大学院に行くようになってからアルバイトとしてある大手の進学学習塾に勤め、間もなく男子女子の御三家受験中心のクラスを担当させられたが、確かにそこでは習熟度別の授業が当たり前のシステムとして導入されていた学力向上のシステムとしては当時から疑問視していたが、受験生にやる気を出させるシステムとしてはそれなりの効力を持っていたと思う。彼らのような連中を指導していなければ分からないと思うが、彼らのクラスはいつも陽気であり、笑いが弾けていた。トップ校に行く連中というのは勉強だけにしがみ付くいけ好かない奴等ではないかと思っているとしたら、考え直した方がいい。それはまだ本当の力量のない連中のとる浅はかな態度であって、本当に出来る奴は余裕と自信に溢れ、極めて陽気であった。ところが、いざ勉強に取り組むとなると水を打ったように静かになる。その集中力というのもまたもの凄い

このように、習熟度別のクラス編成というのは出来るクラスの生徒をさらに競わせるにはとてもよいシステムのように見えた。だが、塾においてさえこの習熟度別のクラス編成は、理解が悪いいわゆる出来ないクラスの生徒にとっては、つらい現実を否が応でも見せ付けられるシステムに他ならず、そういうクラスを受け持った教師なら分かるだろうが、彼らは授業を始める前から半ば死んでいるのである。クラス全体を御通夜の空気が支配していて、半分腐ったような眼をしているのだ。そして、この習熟度別システムというクラス編成は、彼ら出来ない生徒を決して救済することはないシステムなのである。それどころか、永久に下位にいることを強いるシステムなのである。当時は塾の営業の立場上言えなかったが、もしその生徒がそういう習熟度別システムの下位に属するクラスに投入されることになるならば、即刻そんな塾から離れるべきであることを教えたであろう。

だから、訳の分からない教師達が進学塾の内部事情も知らないまま、有名進学塾のような成果をあげたいと望み、学校の中に習熟度別クラス編成を導入したとするならば、それは学校教育をさらに荒廃させることにしか寄与しなかったであろうことは明白である。もし、学校でこのシステムを導入して何らかの効果をあげることが出来たとするならば、それは何も習熟度別クラス編成の賜物ではなく、少人数でやったからに他ならないだろう。そのことは朝日新聞の中にも書かれている。浅沼茂・学芸大教授が「効果が出ている学校を見ると、低学力層は10人くらいのグループにし…」とあり、子ども一人ひとりにの性格に合わせて、教材、教え方、声のかけ方まで工夫したからだと指摘している。これは当然の帰結であり、習熟度別授業の成果では全くないとこは繰り返すまでもない。

とにかく、壮大な無駄をした挙句にでも、その間違いに気付いてくれれば、まあそれでも仕方ないかと思うしかない。かつて、パソコンを使いさえすればバラ色の授業が出来ると錯覚していた時期があったように、この習熟度別授業導入の過ちもさっさと認め、即刻取りやめるべきである。生徒の悲劇をこれ以上増やしてはならない。

それにしても、教育の何たるかを心得ない教育関係者の何と多いことだろう!

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