教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

マイケル・ジャクソンの死を悼む…失って知るその偉大さ

2009年06月28日 | 「大人のフリースクール」公開講座

マイケルさん急死、心不全…早すぎる50歳(日刊スポーツ) - goo ニュース

マイケル・ジャクソンの死を悼む…失って知るその偉大さ

ついこの間、日本を代表するロックシンガー・忌野清志郎さんを喪ったばかりだと思っていたら、今度は世界的なスーパースター、マイケル・ジャクソンの突然の死である。既に多くの著名人たちが哀悼の辞を述べているが、どれも驚きの声に満ちている。あまりにも急な早すぎる死である。

正直なところ、この両者のどちらも私の同時代人ではない。世代のずれがある。だから、そういう関係の中で彼らの音楽とも接してきた。いわば空気のような関係にあったと言えるかもしれない。しかし、だからこそ、それが喪われたことによって、その存在の大きさを改めて実感している

忌野清志郎さんの場合、なくなった後しばらく、「雨上がりの夜空に」をはじめ、彼の残した音楽を何度も何度も聞いた。そして、改めて彼の忘れがたい音声と共にまっすぐな魂にも触れた。そして今、「ジャクソン5」での子どもの頃からのアカペラをはじめ、若きマイケル・ジャクソンの映るヴィデオ『スリラー』など彼の残した沢山の音楽や映像を、youtubeなどを手がかりに繰り返し聞いている。「彼の代わりになるようなアーティストは決して現れないでしょう」というマライア・キャリーの哀悼の言葉にもあるように、我々は二度と現れない才能を失ったのだということを今、痛切に感じている。

アーティストというものは心のどこかに必ず「純な部分」を宿している、というのが私の考えだが、その「純な部分」が時としてこの世俗の塵芥(ちりあくた)の世界中で塗炭の苦しみをもたらすことにもなる。桜の花がなぜこんなにも美しいのかと想像して、「桜の木の下には…」累々たる屍を想起した梶井基次郎のような小説家もいた。まさにアートの営為は世俗の汚泥や屍の躯に根を下ろしがっしりと絡み付いていながら、そのアート魂はその営為の中でずたずたに傷つくほど弱く繊細であることが多いのである

流星や花火のように一瞬の光芒に身を任せたり、人の一生を何分の一かに凝縮してドッグイヤーの如く駆け抜けたり、総じて早世する者が多いのはそのためだろう。世の人はそれを「生き急いだ」とか「死に急いだ」とか評するが、もしかして、その人の心臓の鼓動は早鐘のように激しく早く撃ちつけていたのかもしれない

それでなければ薬物だ。薬物に依存したアーティストや、偉人や天才と呼ばれた人は枚挙がない。それは薬物に頼る人間が弱いのか、それともそこまで彼らを追い込む世俗が問題なのか。とにかく、多くのアートや文芸はそういう悲惨な犠牲の中から生み出されている

彼らは世俗と同時代人ではあるけれど、同じ次元を生きてはいない。時代に早すぎて同時代の理解を得られなければ、ゴッホやモーツアルトのような哀れな生を送らざるを得ない。また、時代の寵児として喝采を浴びれば、世俗の価値や論理に翻弄され、自分が自分でなくなることを覚悟しなければならない。時代を切り拓くのは彼らであり、彼らは時代時代のパイオニアーには違いないが、絶えず時代の犠牲になるのも彼らである

忌野清志郎さん、マイケル・ジャクソンさん、われら凡俗の人間に数々の素敵な音楽をありがとう。そして、さようなら。やっと訪れた安息の日々をお楽しみください。もう、観衆や聴衆の声を気にすることはない。

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「ウニの運動会」から思ったこと…ハリネズミのような子どものこと

2009年06月13日 | 教育全般

■「ウニの運動会」 から思うこと

 読売新聞(6月13日)の「NEWSなおにぎり」というコラムで、徳島県の「漁師さんの水族館」での「ウニの運動会」の話題が紹介されている。イルカやオットセイならぬウニの「輪くぐり」の話である。ただし、彼らのような「知的」なレベルの演技の話ではないので調教はいらないらしい。ウニの習性をうまく利用するらしいのだ。

 話によればこうである。「直径10センチほどのウニ」が、「自分よりより小さい8センチの輪の中を、器用にトゲをたたみながら、ごそごそ動いてくぐり抜ける」、そのスピードを競うらしい。「磯の生き物の面白さを子供たちに知ってもらいたい」ことから、飼育員が思いついた芸らしい。

  どうも「鮭の切り身のようなものが海を泳いでいる」と誤解する子どもがいるというのは、単なる笑い話の類ではないらしいのだ。で、コラム氏は言う「百聞は一見にしかず。常識を養うにはやはり、現場が必要なのだろう。(…)さあ夏だ。出かけよう、海へ。」と。

 見方によっては他愛もないこの話だが、重いエピソードとして感じられる。新型インフルエンザがついに「フェーズ6」(パンデミック)のレベルに引き上げられた、というような話題は、どう報道しようと現実の持つ意味の重大さがカバーする。そのため、マスコミ人の中には、大企業に属していることが己の実績のように思い込むことがあるように、現実の重い報道が優れた報道のように錯覚する御仁もいるようだ。

 しかし、ありふれた物体の落下という常識的な現象から万有引力を発見したニュートンのように、失敗とみなされた実験から導電性ポリマーを発見しノーベル賞を受賞した白川英樹博士のように、必ずしも見た目の重大さが大事だとばかりは言えまい。確かに一面のトップを飾るニュースは大事かもしれないが、このような何気ないコラムのような話題もそれに劣らず重要である。

  「ウニの運動会」の話で、思い浮かべることがある。私は現在、フリースクール(ぱいでぃあ)を運営しているが、当スクールには校則らしい校則は何もない。あるとすれば、それは「自分がされて嫌なことは人にしないこと」と、「社会人としてのルールを守ること」くらいなものである。ところが、不文律がある程度浸透していれば、事はスムースに行くかというと、ことはそう簡単には運ばないのがこの世の常というもの。

 特に、子どもというのは、どこかで述べたことがあると思うが、「遇されたように育つ」のである。平易な言葉に言い換えると、「子どもは言われたように育つのではなく、されたように育つ」のである。ある程度の大人、例えば親として振舞わなければならなくなった年齢の大人であれば、不足している部分があったとしても想像力や常識的な感覚で補完して行動することも可能である。しかし、まだ成長期にある子どもにはそれができない育ちの環境に欠けたものがあれば、その子はその部分が欠落したまま育つのである。だから、その子が十全に育つには、フリースクールのようにそれなりに子どもの思いが満たされた環境が是非とも必要である。だが、それでも子どもの周りにいつもそれがあるとは限らない。

  それに、頭では分かっていても、実践となるとなかなか難しい。特に、フリースクールにやって来る子ども達は、被害感情や自己否定の感情で一杯であり、何よりも自己救済を求めている。他人のことを考える精神的ゆとり等まるでない。場合によっては、かつて加害者の側であったのが廻り回ってその矛先が今度は自分に向かってきたとか、過剰な自己防衛行動が加害行為となり本来は被害者でありながらとんでもない加害者となっていることもある。

  例えれば、全身これ悩めるハリネズミのような子がいる。かつては学校という集団の場が怖いとてもひ弱ないじめられっ子であった。自分では分からなかったが、なぜかいつもいじめのターゲットにされた。そういう中で、その子はその子なりの仕方で必死に自分を支えてきた。しかし、その結果、幾つものトラウマを抱え、安んじて心を許せる相手はどこにもおらず、誰も入り込めない暗い世界に身を潜め、全身ハリネズミのように毛(神経)を逆立て生きてきた。そこだけが逃げ込める唯一の安全地帯であった。でも、いつも孤独に飢えていることには変わりはなかった。

 その子はやはりフリースクールでも上手くいかなかった。最初の所では友だちも先生も好きになれなかった。相手の欠点ばかりが見えた。すぐに対立が生まれ、話し合いの結果、追放の憂き目にもあった。相手の子達は素直に謝ったが、その子は頑として謝らなかったからである。自分にはどこも問題はないように見えたし、今の自分が行き着いた究極の姿であり、変われと言われてもこれ以上変わりようがないように思えたからである。それでまた別の施設に変えた。

 そこでは友だちも先生も好意的だった。過去は問われず、今までとは違って、友だちともに親しくなれそうだった。でも、なぜか自分が親しくなればなるほど人が離れていくように思えた。そして、自分の与り知らないところで、自分の言動が問題になり、自分に対する子ども達から苦情が訴えられ、それまでは一緒に行動していたのに、自分とのことでスクールに来れなくなる子まで出てきてしまった。そしてある日先生に呼ばれた。

 私が「ウニの運動会」から思い浮かべたのはこのことである。不登校の子どもの中には、このハリネズミのような自分を抱えた子どもがたまにいるのだ。ハリネズミという生き物を図鑑で見ると、全身毛を逆立てている画が載っていることが多い。でも、それは外敵から身を守るときにする特別の仕草らしい。いつもそういう格好でいるわけではないようだ。それに、相手と仲良くなりたい時は、毛を寝かせて寄って行くらしい。ウニも小さな輪をくぐる時はトゲをたたむように

 だが、トラウマとなった子どもは、それができない。TPOに従って柔軟に対応することが難しい。その結果、どうなるか。 可哀想に、その子は毛を逆立てたまま相手と仲良くなろうと近付いていくのである。本当は一番救ってやるべきはそういう傷ついた子どもかもしれない。相手の子ども達もできるなら仲良く接したいと思っているはず。でも、近しくなればなるほど、その子の針が相手に突き刺さる

 先に述べたように、子どもは「言われたように育つのではなく、されたように育つ」。だから、いじめられたという経験は豊富でも自分が本当に愛されたという経験(自覚)がなければ、人に対しても同じようにする。「いじめる」ことと「愛する」ことの区別がその子にはない。結果としていじめるような行為をしておいて、その子を愛しているとさえ思うのである。

 子どもの人権を尊重し、どの子にとっても安心できる居場所となり、自立に向けて自分作りに励める場所がフリースクールであったとしても、残念ながら、その子は当面、そこで同じ行動をすることはできない。本当にその子を支援するには、その子だけに的を絞った対応が必要になろう。だが、その子が「自分は変わりたくない、変わるつもりはない」と言ったときにどうするか。その子への「教育」という行為はとても難しくなる。

 子どもの医学の専門家は、当然のように服薬による変化を想定するかもしれないが、寡聞にして服薬で完全に良くなったという人を私は知らない。精神的な療法では、薬で症状を抑えたり高めたりする対処療法的なことはできても、それで完全に治すということは可能なのだろうか、という疑問が絶えず私の中にある。そもそも「治す」という行為はどういう意味合いの行為なのか、私には答えが出せない。医療とパターナリズムの問題も無視できない

 願わくば、そういう状態に至る前に、そういう状況の子ども達を救済することはできないのだろうか。もう太い幹を形成しつつある子ども達の姿を見て、若い苗のうちの、早期の関わりを望まずにはいられない。

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