マイケルさん急死、心不全…早すぎる50歳(日刊スポーツ) - goo ニュース
▼マイケル・ジャクソンの死を悼む…失って知るその偉大さ
ついこの間、日本を代表するロックシンガー・忌野清志郎さんを喪ったばかりだと思っていたら、今度は世界的なスーパースター、マイケル・ジャクソンの突然の死である。既に多くの著名人たちが哀悼の辞を述べているが、どれも驚きの声に満ちている。あまりにも急な早すぎる死である。
正直なところ、この両者のどちらも私の同時代人ではない。世代のずれがある。だから、そういう関係の中で彼らの音楽とも接してきた。いわば空気のような関係にあったと言えるかもしれない。しかし、だからこそ、それが喪われたことによって、その存在の大きさを改めて実感している。
忌野清志郎さんの場合、なくなった後しばらく、「雨上がりの夜空に」をはじめ、彼の残した音楽を何度も何度も聞いた。そして、改めて彼の忘れがたい音声と共にまっすぐな魂にも触れた。そして今、「ジャクソン5」での子どもの頃からのアカペラをはじめ、若きマイケル・ジャクソンの映るヴィデオ『スリラー』など彼の残した沢山の音楽や映像を、youtubeなどを手がかりに繰り返し聞いている。「彼の代わりになるようなアーティストは決して現れないでしょう」というマライア・キャリーの哀悼の言葉にもあるように、我々は二度と現れない才能を失ったのだということを今、痛切に感じている。
アーティストというものは心のどこかに必ず「純な部分」を宿している、というのが私の考えだが、その「純な部分」が時としてこの世俗の塵芥(ちりあくた)の世界中で塗炭の苦しみをもたらすことにもなる。桜の花がなぜこんなにも美しいのかと想像して、「桜の木の下には…」累々たる屍を想起した梶井基次郎のような小説家もいた。まさにアートの営為は世俗の汚泥や屍の躯に根を下ろしがっしりと絡み付いていながら、そのアート魂はその営為の中でずたずたに傷つくほど弱く繊細であることが多いのである。
流星や花火のように一瞬の光芒に身を任せたり、人の一生を何分の一かに凝縮してドッグイヤーの如く駆け抜けたり、総じて早世する者が多いのはそのためだろう。世の人はそれを「生き急いだ」とか「死に急いだ」とか評するが、もしかして、その人の心臓の鼓動は早鐘のように激しく早く撃ちつけていたのかもしれない。
それでなければ薬物だ。薬物に依存したアーティストや、偉人や天才と呼ばれた人は枚挙がない。それは薬物に頼る人間が弱いのか、それともそこまで彼らを追い込む世俗が問題なのか。とにかく、多くのアートや文芸はそういう悲惨な犠牲の中から生み出されている。
彼らは世俗と同時代人ではあるけれど、同じ次元を生きてはいない。時代に早すぎて同時代の理解を得られなければ、ゴッホやモーツアルトのような哀れな生を送らざるを得ない。また、時代の寵児として喝采を浴びれば、世俗の価値や論理に翻弄され、自分が自分でなくなることを覚悟しなければならない。時代を切り拓くのは彼らであり、彼らは時代時代のパイオニアーには違いないが、絶えず時代の犠牲になるのも彼らである。
忌野清志郎さん、マイケル・ジャクソンさん、われら凡俗の人間に数々の素敵な音楽をありがとう。そして、さようなら。やっと訪れた安息の日々をお楽しみください。もう、観衆や聴衆の声を気にすることはない。
にほんブログ村