教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

アフガンで生きた日本人

2008年08月29日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「我々が撃った」伊藤さん殺害、24歳容疑者認める(朝日新聞) - goo ニュース

アフガンで生きた日本人

あってはならないことだが絶えずその危険があったことが現実のこととなった

アフガンで現地人のために精力的な活動を続けていたペシャワール会のメンバー伊藤和也さんが武装グループに拉致され遺体で発見された。

今朝の読売新聞(8月29日付け)には、「アフガン 500人の祈り」「恩をあだで返して申し訳ない…」と見出しにある。また、父の正之さんの言葉として、「和也は家族にとって誇り」「和也は現地の人に育ててもらったと感謝している」と紹介している。恨みの言葉はない。アフガンは伊藤和也さんにとって自分の生き方を見出した場所でもあったようだ。

アメリカが同時多発テロの主犯格とされたアルカイーダ掃討に向けアフガンのタリバン勢力を攻撃し始めた時からアフガンは戦場と化し、国家としての機能を麻痺させてしまった。それを憂えた多くの日本人がアフガン支援に乗り出したが、その中で中村哲医師を代表とするペシャワール会はその最大の組織であった(彼らはそれ以前からアフガン復興のために尽力していた)。

実は私の近くにもアフガン支援活動を行っている組織を運営している青年がいる。学生時代からの活動である。今、彼には妻も子どももいる。でも、それは彼のアイデンティティの重要な一部になっている。日本で資金を調達してはアフガンに行き、現地で支援活動を行っている。主に芸術的な活動を通して。人はパンだけで生きているのではない。

なぜ彼はそこまで(時には命さえ危険にさらされる)してアフガンに関わるか。平凡な回答をするよりも、彼が現地に行き撮影した映像に注目したい。何もない乾燥した荒野や崩れ落ち瓦礫と化した建物を背景に、貧しい服装ながら精一杯の笑顔を振りまいて健気に生きている子どもたちが写っている。

何と表情の生き生きとしていることか。何と生命の輝きがあることか。それは、日本の子どもたちがとうに失い、もはや無縁のものとなってしまった感のある子ども本来の生命の輝きである。一つは、それに取り付かれたのだろう。その意味では彼もまた「アフガンに育てられ、生かされてきた」一人なのかもしれない。

そこには学校でひどいいじめに会い、不登校・引きこもりとなり、民族系ビジュアルバンドに入り「平和で腐ったこの日本!」と絶叫していた現・作家の雨宮処凜の見てきたものとは正反対の風景がある(実はその両者は通底していると思っている)。

今後、人命上の問題から、「ペシャワール会」がアフガンに関わることは難しくなるかもしれない。善意や支援が相手にそのように伝わるのであればよい。が、必ずしもそうなるとは限らない。外国人の要らぬ干渉と考える人たちもいるのだ。アメリカの大統領候補オバマ氏が絶えず白人至上主義者等からの狙撃等の危険を想定していなければならないのと同じように、NGOなどで海外協力する時には、そういう誤解をも含めて、絶えず生命の危険があることを念頭に置いていなければならない(これはどういう活動でも基本的に同じだが)。

伊藤和也さんが現地人の誤解によって殺害されたことは残念なことである。だが、彼はそこで無意味に死んだのではない。彼はそこで生かされ自分の生を存分に生きたのである。無念でもあろうが幸せでもあったろう。合掌


根性野球じゃ世界に通用しない

2008年08月27日 | 「大人のフリースクール」公開講座

星野J、勝てるわけない! 阪神・新井も骨折だった(夕刊フジ) - goo ニュース

根性野球じゃ世界に通用しない 20080827

オリンピック後に星野のジャパンへのバッシングが続いている。野村監督や王監督の指摘も手厳しい。でも、山本・田淵・大野各コーチ等による“仲良しグループ批判”などもっともな意見ではある。それに加え、故障者が相次ぎ、ソフトバンクの川崎、阪神の新井まで“疲労骨折”が判明し、後期での優勝争いに向けての出場が危ぶまれる事態にまでなった。一方では、選手たちは選手村では過ごさず、高級ホテル住まいだったとか、恵まれた環境にいたことも指摘されている。一体、星野ジャパン(誰がこんな命名をしたのか?)に何があったのか

ひと言でいえば、星野ジャパンの野球理論は“終わっていた”のである。星野氏がうぬぼれて何をトチ狂ったか、“金以外はいらない”だの“根性野球”だのを掲げて、優勝することが当たり前みたいな振る舞いだったが、彼は自作自演の幻影に酔っていたのであって、現実・現状を何も見ていなかった。その結果、選手たちはばらばら、選手の持ち味を活かさない布陣(GG佐藤のエラーは生まれるべくして生まれた)、過去に囚われた選手起用(岩瀬は最悪のバイオリズムだったが、過去の実績で起用された)、起伏のない打線など、選手の現状を何も見ていないし、臨機応変の攻撃も出来なかった。こういう采配なら星野でなくてもできる。彼は今はない“過去”、たとえば王監督が成し遂げたWBCでの活躍など(彼らはどれだけ真剣に戦ったか!)を無条件に信じ、その幻を夢見ていた。ちょうど、安倍前首相が“戦後レジームからの脱却”などと言って、戦前の幻影に取り付かれていたのと同じように。

日本の野球がキューバに負けて、ダルビッシュや田中が丸坊となり星野監督に詫びを入れるようなマネをしたときむしろその忠誠を喜ぶような受け止め方をした監督を見たとき、正直なところ“これはダメだ”と思った。前時代的な根性論がまだ通用するような高校野球じゃないのである。個々の選手の持ち味や能力を最大限に発揮させてこその近代野球であろう。そんな時代錯誤の感覚で、世界の野球の現状が曇りなく見えるはずがない。“死者に鞭打つな”という言葉があり、敗軍の将を責めたくはないが(お前はなにをした?)、野球が世界に通用するスポーツと認められるには、技能だけではなく、それに相応しい感覚の養成もまた欠かせまい。



リエゾン法による語学学習のすすめ

2008年08月23日 | 教育全般
リエゾン法による語学学習のすすめ

フリースクールの視点から教育を考えることがこのサイトの一つの意図です。 従って、日本の学校教育の方法には必ずしもとらわれて考えてはいません。

日本人の英語力、特にその会話力をあげることを目的とした本は巷間に溢れている。ネイティヴ並みになるには英語の早期教育が必要だとか、“聞こえないものは理解できない”からまず「英語耳」を作るべきだと主張してその訓練法を説くものもあれば、いくら勉強しても英語の環境がなければ使えるようにはならないからと“聞き流し法”を奨励するものもある。そして、そのどれもがそれなりの説得力を持っている。だが、これだけ国際化が進み、語学を習得する様々な機会に恵まれていながら、日本人の英語の苦手意識は依然として強い

自国の独立を貫き英語文化圏の国の植民地にならなかったことの報いであるとまで言う人もいる。中には、確かに英語はもはや世界の共通語には違いないが、実際は非英語文化圏の国が圧倒的に多く、それらの国の多くがその国特有の“方言”の英語を駆使しており、逆に英米人の英語の方が通じにくい現象さえ起きているのだから、日本人は日本語訛りのある英語で結構であるという主張もある。英語を日本人にどう習得させるか――それについては実に百家争鳴の感がある。

ここで1冊の本を紹介したい。
英語は発音力』(奥村真知著 中経出版 1600円+税)という本である。

本書は基本的には英語の発音のネイティヴ度を上げるための本である。数ある英語発音力向上を目的とする本の中で、本書は、あまり苦労をしなくても実践できるよう、上達の方法を非常にコンパクトにまとめてある。今流の語学教材では当たり前の訓練用のCDも2枚ついている。なるほど、「英語耳」を鍛える類の本もたくさんあり、中には内容が物凄く学問的であるとか、何冊にもわたり「これでもか」というほど詰め込んであってやる前から辟易させられるものまでいろいろである。そういう中で、これは実にコンパクトな本である。では、結局はそれだけの本かと言えば、どうしてどうして、著者は音声学の研究者であり、現場で長く実践を通して実績を上げてきた人である。

この本には二つの特色がある。一つは「12日間の発音サプリ」。これは著者が音声学と20年間の指導経験から導き出した方法であり、楽しみながら上達できるものになっている。さらにこれは著者が“画期的”というところの「発音矯正ソフト」に対応している。下手な理屈は言わずくトレーニング重視なのがとてもいい。この12日間の発音の基礎をクリアーして、さらに本格的に挑戦すれば努力に見合った上達は確実に得られそうだ。しかし、私が敢えてこの教材をお勧めしたいと思うのはそのことだけではない。それは、本書の後半に「ネイティヴみたいに話せる秘薬・リエゾン法」が取り上げられていて、語学の方法論としてもとても斬新で効果的だと思うからである。それにこういう類の本に関しては、単に字面の内容からだけでなくある程度自分で試してみてから発言することにしている。無責任なことは言えないからである。

もともと語学の環境に恵まれない片田舎で、今ほど語学熱が高くなかった時代に育った私は、そのせいかその後の語学学習の過程でもたくさんの苦い経験をしてきている。だから、巷でいくら“画期的な語学学習法”と騒いでも、自分をその場において実際に取り組む場面を想定した場合、かなり冷めてしまう部分もある。

それに昔の日本の学校での英語学習は実践の学ではなく全くの教養の「英語学」であり、その英文は英米人でもびっくりのやたら難しいものであったりするが、音声学的な訓練はゼロに等しかった。つまり、生徒だけでなく英語の教師も呪文のように唱えるだけでちっとも喋れない。そういう中で習ってきた。

だが、こういう音声学に基づかない言葉の理解は同時通訳の国弘正雄さんに言わせれば「サル」並みの理解ということになるようだ。 それに、これは今の「英語耳」作りの訓練でも言えることだが、日本人の英語の発音の訓練はほとんどが“単語レベル”の訓練に終始している。だが、音楽に喩えればいくら絶対音感が身に付いたからといってそれで歌が上手に歌えたり、楽器が上手に弾きこなせるようになるわけではない。実際には、私たちは単語レベルではなく「文レベル」で考え、「文レベル」で言葉を交わしている。たとえそれが、“あ”という一字であったとしても、それが理解可能なのはそれが文だからである。だが、日本の語学学習ではなぜかそういうことが等閑に伏されてきた。言語に対するそういう意識が英語教育に携わる教師にはなかったのであろうか。

しかし、たとえばフランス語の学習の場合には、その言語独特の発音の仕組みもあって、リエゾン、エリジオン、アンシェヌマンなどの訓練は必須の事柄である。これは単語レベルでは問題はなくても文として考え表明する時には欠かせない理解である。ところが、学校の英語教育の現場ではこういう方法論が取り上げられることはほとんどないのではないか。本書の優れた点は、語学理解の重要な方法論としてそれを意識的に導入したことにある。これによって、日本人が苦手とする英語理解に大きく貢献することになるのではないか。

英語の上達には“音読”が一番」とはNHKの同時通訳者でもあった国弘正雄氏の持論で、「英会話・ぜったい 音読」シリーズ(全6巻)(講談社)での訓練も中学・高校の英語教材をもとにそれを実践するものである。だが、「なぜ音読が大事か」といえば、結局のところ「英語耳」を作ることだと言えるだろう。ではそういう「英語耳」を作るにはどうしたらいいかと言えば、それは単語レベルでの発音力を磨くと同時にこのようなリエゾン法を駆使して、文レベルでの英語の発音力をマスターすることだと言えるだろう。もし、国弘正雄氏の『英会話・ぜったい 音読』でも本物の英語力を鍛えるためには、国弘正雄氏の“音読”の方法論に加えてこのリエゾン法を積極的に導入することがより効果的なのではないかと思われる。

本書の後半には、「魔法の秘薬」でありネイティヴスピーカーの自然な発音であるこの「リエゾン法」訓練のための練習教材が10編紹介されている。その文章自体は最も初歩的なレベルのものであり、英語学習の初心者でも高校生くらいの生徒でも、あるいは『英会話・ぜったい 音読』シリーズの“false beginner”でも十分使いこなせるものになっている。後は技能を磨くという点においては語学の訓練もスポーツの練習の場合も大きな違いはない。野球で打者がバットの素振りをするように、基礎となる持続的な努力は絶対に欠かせない。英語学習を山登りに喩えるならば、その登り方はいろいろあるだろうと思う。後はそれぞれ個人の条件に合わせて試みればよいだろう。

しかし、やはり今までの日本人の語学学習がなぜダメだったのか、とくと考えてみるべきであろう。かつての漢文の訓読のような英文購読から、「英語学」とでも呼ぶべき文法重視の英文への取り組み、そしてその反動からか“基本英会話”教室のような英文法無視のでたらめな指導などを経て、ようやく音声学等に裏付けられた英語習得法が始まったとも言える。今はCDやDVDをはじめインターネットに至るまで語学教材には恵まれている。そのような合理的な英語習得法と音読をベースとした語学トレーニングを積むならば、日本人が苦手とする語学学習ももっと効果的で楽しいものになるのではないかと思われる。学校の語学教育にもこういう方法の積極的な導入を期待したい。 

タモリの赤塚弔辞から思うこと…タモリ一流のギャグかも

2008年08月21日 | 教育全般

タモリと赤塚弔辞…タモリ一流のギャグかも

2008年8月7日、タモリこと森田一義は赤塚不二夫の葬儀で弔辞を読んだ。手には白い紙を持ち、時折それで確認するような仕草をしながら、約8分間の弔辞を読んだ。赤塚不二夫とタモリとの出会い、タモリの今があるのも赤塚のお陰であること、その人柄などが語られ、最後に「私もあなたの数多くの作品の一つです」という言葉で結んだ。

感動的な弔辞であった。

ところが、タモリが手にしていた弔辞は実は白紙であり、あの弔辞は原稿なしの全くのアドリブであったのだとか。実は、前の晩にタモリは酒を飲み、原稿を書くのが面倒になり、結局アドリブでやることになったのだとか。ギャグを生きた赤塚の葬儀にはそれでも良かろうという思いもあったようだ。

だが、この場合、タモリの言葉を額面通りに受け取らない方がいいだろう。これもまた、タモリ一流のギャグなのではないか彼は敢えて白紙で臨んだのだと考えた方がいい。 タモリの「笑っていいとも」は連続放映記録を塗り替えているとのことだが、これも偶然でも奇跡でも何でもあるまい。彼の才能の賜物であろう。

かつてタモリが芸能の世界に登場して来たとき、その多彩な才能に驚いたものである。だが、彼は年輪を深めると共にその爪をひけらかすのを控えるようになった。「笑っていいとも」の最長不倒さはそこにある。だが、それは決して単に若者におもねているというわけではない。タモリはやはりタモリである。

彼が読んだ弔辞の中で、私が特に惹かれた一節がある
「あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一語で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。」

ここに共鳴する二つの魂がある。見出した魂と見出された魂と。互いに照らし合い、共に相手を認める共鳴体がなければ出来ないことである。ならば、これは赤塚不二夫への言葉であると同時に、またタモリ自身の思いでもあるのだ。そういう共鳴体を持ったもの同士は幸いである。

それとこれは余談だが、本音で語ろうとするときにはかえって原稿がない方が話しやすいということもある。国会での所信表明演説でも述べるならカキンなくまとめるために原稿が絶対に必要だが、逆に言えばそれでは真情は吐露しにくいのだ。

私のアホな経験から言うのだが、原稿から顔を上げて話していて再び原稿に戻ったら、原稿のどの箇所まで喋ったのか分からなくなり、その後は原稿なしで通したという経験がある。それからというもの、私は喋る前には原稿を持たず、状況によってどうにでも展開できるようにメモだけを用意して、原稿が必要な場合には喋ったことをもとに後から原稿を起こすようにした。当意即妙とでもいうのか、その方がその場の雰囲気に合わせて自在に語れるのである。

タモリの場合も、もしかしたらそういうことなのかもしれないと思った。そういう意味では、彼は出来合いの言葉で弔辞を読みたくなかったし、その場での心情のままに自分を語ろうとしたための確信犯的行為なのだと言えなくもない。ただし、メモもなくよどみなくあそこまで語れるとは流石にタモリさんである。白紙の弔辞を持って臨んだタモリにそんなことを感じた。


川口中3女子父親刺殺事件から…狂気と正気の間で

2008年08月08日 | 教育全般

「成績知られる前に家族殺し自殺しようと」父刺殺の中3少女(読売新聞) - goo ニュース

「やっぱり」というか「とうとう」というか、“この事件はこういうところに落ち着いてしまうのかなあ”という気がする。私なりにこの事件に注目してきたので、「大人たちは自分たちの常識で理解可能な範疇で処理したいのだ」「そういう形で安心したいのだ」と思わざるをえない。

長女は「人の顔色を見ながら、人に嫌われないように生きていくのに疲れた」とか「成績が下がったことが親に知られるのが嫌だった」とか、彼女が学校の成績や人間関係の悩みでストレス抱えていたことが強調されている。そのストレスの爆発が今回の事件となったと周りの大人は言いたいのだろうか。でも、それが家族全員を皆殺しにしたいという行動に結びつくだろうか?この間には常識的な理解では超えがたい大きな飛躍がある

問題は、現に父親を刺殺した中3の長女という人間がいるということ、そして可能であれば母や弟も含めて(自分も含むのか?)家族全員を殺したかったという願望を持っていたということである。その動機が「学校の成績」とりわけ「学校の成績の下落という事実」であるということである。

もしかすると、この子の論理の中では何の矛盾も飛躍もないのかもしれない。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理展開をそのまま常人の論理として受け入れるわけにはいかない。では、彼女は常人ではないのか?どうもそうとも言えない。では、何が問題なのか。それは、私流に言うならば、「彼女のような常人を実は我々の社会は当たり前の普通の人間として育てて来ている」ということである。言い換えれば、今回の事件はたまたま事件という形をとって報道されることになったが、彼女のような人間は当たり前にどこにでもいるということである。

だから、今回の事件を私流にまとめるならば、「普通の人間が引き起こした異常な犯罪」ということになる。

よく“宮崎勤の事件以来、事件の質が変わった”と言われるが、今の時代、狂気と正気は紙一重なのかもしれない。そういう危うい時代に我々は生きている。では、「あれはおかしい!」と誰が判断するのか

ボーダーとは何か。ボーダーレスとは何か。ここからはいろんな問いが生まれそうである。

※この項はさらに考察してみたい。


高2の男子生徒の自殺から…何という命の軽さ!

2008年08月08日 | 教育全般

高2男子が自殺、携帯掲示板の中傷で教師に事情聞かれた後(読売新聞) - goo ニュース

北海道の高2の男子生徒が携帯電話の掲示板に他の生徒の中傷を書き込んだことについて、同校の教師たちから指導を受けた後、自宅で自殺を図り、死亡した。ノートには「おまえの罪は重い。死ね」と言われたとあったとか。

さて、とても困ったことになったものだ。学校から自宅に「停学処分」の電話をしたそうだが、「『死ね』と言った事実はない」と校長は弁明している。

まあ、「はい、言いました」とは口が裂けても言わないだろうが、実際には厳しく叱責する過程でそのような言葉に類するものがあったとしても別におかしくはない。しかし、そういうことを差し引いて考えても、おそらく学校側の言うことには、今回あまり矛盾はないように見える。問題はそう言って自殺してしまった当の高校生の側にある。

もし教師に問われることがあったとすれば、そういう高校生の心理状態をあまり考えずに(なぜ彼は携帯で他人を中傷するような真似をしたのか?)、一方的に非難してその高校生を逃げ場のないところまで追いつめてしまったことではないか。軽々しく「殺す、死ね」という言葉を遣う高校生である。彼の行為への厳しい叱責(たぶん他の高校生にはさほど厳しくは感じない程度であったかもしれない)を彼は「死ね」という意味と受け取ったかも知れない。

さらに問題があったとすれば、「停学処分」はまず口頭で伝え、本人の様子を見るべきであったということ。やはり学校の教師から咎められて、処分を電話で伝えられた後に自殺してしまったという似たようなケースがある。電話での通知はこれで人間的な繋がりが途切れてしまったように当人には思われるのだ。

その意味でー結果論ではあるが、教師たちはその高校生の心のありように対する想像力と配慮に欠け欠けていたと言われても仕方がない。たとえ厳しく断罪すべき事柄であったとしても、口頭での触れ合いをないがしろにし、非人情的な形で一方的に電話で伝達した場合、どういう事態が想定されるか、たとえカウンセリングのプロではなくても、教育のプロなら当然考えていてしかるべきである。

何が正しく何がいけないか、成長期の子どもたちに大人や教師の責任において厳しい叱責も時には必要である。しかし、叱るだけなら誰でもできる。相手はまだ年端の行かない高校生の子どもである。厳しい叱責の後には彼のどうしようもなく悶える心を受け止め、フォローすることは絶対に欠かすことは出来ない。それが出来なければ子どもの専門家とは言えない。

それにしても、その高校生男子の何という命の軽さだろう。それはある意味我々の想像を超えている。ここで敢えて「今時の高校生は…」と一般化はしないが、そのように言い切ってしまいたい誘惑に駆られる事件である。自分を殺すにせよ、相手を殺すにせよ、「今時の子どもたち」の命に対する感覚の軽さは驚くべきものがあると言わざるを得ない。

これはまた、項を改めて考えたい事柄である。

 


東川口中3女子父親刺殺事件から(4)…バカをつくりだす日本の教育システム

2008年08月03日 | 「大人のフリースクール」公開講座

「家族殺し死のうと思った」と父殺害の長女(読売新聞) - goo ニュース

やはり、長女が父親殺害に至った動機として語った弁明はウソであったか。辛く悲しいことだが、家族や学校関係者には彼女の心が見えていなかったのではないか、この事件は教育の常識的な「普通」の感覚からは見えないのではないか、と言った私の予想は概ね当たってしまったようである

事件の性格としては、秋葉原での無差別刺殺事件に代表される「誰でもよかった」といった言葉に象徴される一連の事件とほとんど同系列のものではないだろうか。己の命を筆頭に人の命の重みを理解する思考回路を築けず、あたかも人生ゲームをリセットするような感覚で、自分のストレスを解消するために(そのことで自分の人生や人の人生がどうなってしまうかなどという想像力はまるで働かない)、ゲームのボタンを押すような感覚で押してしまう。今回の事件は基本的にそういう性格のものではないかと感じている。

しかし、現今の教育の方針を是と考え、そこに何ら疑問符を持たない教員の集団の中では、今回のこの長女の心のありようは全く見えていないだろうし、その路線でしか長女の育ちや勉強を見ていなかったとしたらその家族にもまた同様に全く彼女の心の様子は見えていなかっただろうとも思う。もし、そういう彼女に気付いている人間がいるとしたらそれは、彼女が心を打ち明けられる親友か、心の相談などを持ちかけられた人間ではなかったかと思う。あるいは、現今の学校の路線や教育の価値観から自由に物を見られる立場にいる人間なら分かったかもしれない。でも、事件前に彼女からそういう告白を受けた人間は誰もいなかったようだ。

ここに今、学校に行けなくなったある特別な事情の子がいる。その子の場合、学校に行けなくなった原因の大部分は大人の世界の崩壊にあると言っていいだろう。彼は今、自分がまともであろうとして、それが適わないが故にもがき、苦しんでいる。で、その結果、彼の家は壁が破られ、柱は鉄骨がむき出す廃墟のような様になった。彼は今、惑乱の真っ只中にいる。その状態では自も他も何も正確に見えて来ない。何も論理的に捉えられない。そこで彼に、まずは自分を取り戻し、立て直すための自らの課題として取り組んでもらっていることがある。

それは「家族って何か?」ということ。書き手は、口で喋るのは流暢だが、言葉として書くのはとても苦手な中学の男子生徒である。この作業を通さないことには彼は自分の足で立ち、自分の足で歩き、自分の足で考えることは出来ない。それは別の側面からすれば彼が子どもから大人へと脱皮を遂げるための避けて通ることの出来ない通過儀礼だと私は思っている。今、惑乱状態にあるとはいえ、現代の子どもである。小型のパソコンを貸し出し、それで夏休み中に入力してもらう。

そうすることで、彼は少しずつ自分の言葉を獲得し、その言葉で自分の心や思いを明確な形にし、自分の心を自分で客体として考察することが出来るようになる。おそらくそういう行為を通して(これだけではない)、彼は自らの生きる方向を獲得していくことだろう。これは書くという行為の優れた効用の一つである。

このケースは、川口の父親刺殺事件の長女の場合とは全く交わらない別のケースのように見えるかも知れない。ある意味、現象だけを見るならば、ベクトルが全く逆の方向を向いている事件のようにも見える。しかし、私はこの両者から共通の問題点が見えてくるように思う。それは、以前私は『バカをつくる学校』というアメリカのニューヨークの教師の著作を紹介したことがあったが、その共通のものとは、“このようなバカを作り出すようになった日本の教育システム”ということである。

問題を抱えた多くの子どもたちは、彼ら自身のせいで問題となる例は多くはない。一見、子どものせいのように見えて、価値の崩壊した大人たちの世界が透けて見える。いや、透けて見えるどころか、その子どもたちはその激流に否応なく押し流されてしまった子どもたちでもある。だが、大人たちの変化を待つことは百年河清を待つに等しい。子どもたちは日々成長の途上にある。一日として待つことは出来ない。

ならばどうするか。応急の措置ということも含めて、まずは子どもを保護しなければならない。事件が起きるとこの頃はよくPTSDが口にされるが、大人の社会の中で生きる子どもたちはいつもPTSDの危険に晒されていると言っていい。そして、長期的にはともすればPTSDになりかねない環境の中においても自分を保持し続ける術を身に付けるために、少しずつ強さを付与していかなければならない。もし、それに失敗した時には、いわゆる引きこもりのようになって、なかなか社会参加が難しくなるということも想定しなければならなくなる。

このことについては、また別の項で論じたい。