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教科書の電子化で日本の教育が変わる!?
▼電子辞書の普及と現代社会
日本で電子辞書が普及し始めたのはいつからだったでしょう。私が子どもの頃は<岩波の「広辞苑」を枕にして寝る>なんて自慢していたものですが、この頃はすっかり電子辞書化して、あの分厚い辞書をほとんど見なくなりましたね。その代わり、かつて「辞書は読むもの」と言われてきましたが──その延長に「明解」さんもあったように思う──、今、辞書は完全に調べる物になりました。でも、その産物でしょうか、検索機能がとても充実していて重宝になりました。忙しい現代人にはピッタリかもしれません。
▼新学習指導要領で分厚くなる教科書
ところで、新しい学習指導要領では「ゆとり教育」から完全に脱却して──「ゆとり教育」をどこまで徹底して実施し考察したのだろう?何かいつも中途半端で場当たり的な対応ばかりが行われている気がしてならない──削減された内容も復活し、場合によってはさらに積み上げた学習も行われるらしいですね。大人は「このままではいかん。何とかしなくちゃ」ということかもしれませんが、子どもにしてみれば「やれやれ、もっと大変になるんだあ~」というところでしょうか。その中で、一番大変なのは教科書が3割ほども分厚くなることでしょうか。子どもの側にしてみれば、毎日「広辞苑」を持ち帰りしているような感じかもしれませんね。
▼教科書を止めて電子ブックに換えたら?
最近、「iPad」が話題ですね。アマゾンの「Kindle」と同じく電子書籍が読める端末ということで。日本での発売には行列もできたとか。これ、学校で使うのに良くないですか?新学習要領の改訂に合わせて教科書を持ち歩くのを止めて、いっそのこと全部キンドルかiPadのような電子ブックに替えてしまってはどうでしょうね。今後は何も重たく分厚い教科書を持ち歩くことはないんです。義務教育で教科書が無償配布ならば、その教科書を電子ブックに替えればいいだけのことですから。
▼教育界には一大事業仕分けが必要
これって、教育界の大きな事業仕分けですよね。学校と家との往復には、重たい教科書を持ち歩く代わりに電子ブック一冊を持っていればいいんです。これを生徒全員に無償配布するか貸与するんです(宿題もノートも全部この中かSDカードの中です)。そして、卒業時には返却してもらうか安い値段で買い取ってもらうことにします。会社でやっているリースみたいなものですね。
これでは教科書会社が悲鳴をあげるですって?それは時代の変化でやむを得ないですね。ランプから白熱電灯に代わり、さらに蛍光灯にかわり、さらにまたLEDに代わったように。いつまでもコバンザメ商法の言いなりになっている方がおかしいのです。他のもっと発展した道を考えてくださいと言うしかないですね。
それよりも注目すべきは、これによって教育界に一大変革がもたらされる知れないってことです。学校教育のあり方そのものが大きく変わるかもしれないということです。
▼「教える教育から考えさせる学習へ」
その一つは、教材は自分だけのもではなくなるということ。教科書にもうイタズラ書きは出来ないんです(もう、教科書そのものがないですね)。そして、生徒の勉強は教科書だけの学習に限定されなくてもよくなるということです。教科書に書かれていることだけが学習する全てではなくなるということです。必要なら他の出版社の内容を参照することもできるようにもなります。興味の旺盛な子は、学年単位に縛られることなくどんどん勉強してもいいんです。
そして、教員側の変化も顕著です。学校での教育は「教科書を覚えさせる勉強から生徒に考えさせる勉強へ」と大きくかわることになります。もちろん、教員の役割も変わります。学習内容を上から強制し覚えこませる指導から、生徒の伴走者として関わり、生徒の学習の援助者として関わるようになります。そういう教員側のメリットとしては、もう「何でも知っている先生」を演じなくてもよくなることです。生徒と一緒に考える存在になればいいんです。あっ、でも、こういう風に生徒の考えをうまく引き出したり、コーディネートしたりする役割の方が先生には大変だったりして。
いずれにしても、先生には「ゆとり」ではなく今まで以上に自己研鑽に励んでもらわなくてはなりませんね。先生は親に教育を委託されているプロなんですから。それで生計を立てているわけなんですから。
ある市P連の会報とコロンブスの卵:10年前に話したことが(2)
▼学校的時間と空間
一方的に批判するのは私の趣味ではないが、「学校というところでは、どんな時間が流れているのかなあ」ということがとても気になる。私も消費期限や賞味期限のある話をしたつもりはないけれども、10年前に話したことを、今炊き上がったご飯や年代物の極上のワインのように話すことには抵抗がないわけではない。いや、これは話し手の問題ではなく聞く側により問題があるのだろう。その人たちは多分、話し手の地位や権威まで調味料に加えて美味しくいただくのだろうから。
でも、万人に受けるどんなに素敵な話をされても、あるいは逆に極めて個性的な話をされても、あるいはまた心血を注いだ訓話を語ったとしても、「とっても結構なお味でございましたわ」的なまとめ方をされるならば、そこには保守もなければ革新もない、ただ「別に、どうってことも…」という事なかれ的な時間が流れ続けるだけであろう。おそらく学校というところもそういう時間の流れているところなのだろう。だから、10年前も今も大して変わりもなければ、変換可能なくらいなのだ。
だから、その空間に「ノー」と言って飛び出して行った生徒や死を賭するほど悩みに悩む生徒がいるなどということは、「何かの間違い」で我が子が不登校にでもならない限り(不謹慎な言い方でゴメンなさい)、到底思い浮かぶ事柄ではないのだと思う。
▼「遊びの教育学」と「オリジナル」ということ
「ところで、いったいお前は何を話したんだ?」と聞かれそうである。そう、肝心のことをみなさんにお話するのを忘れていた。それは「遊びの教育学」という話である。そう聞けば、ある人は「何だ、そんなことか」と思ったかも知れない。
10年前と違って、今では幼児教育の園長さんや障害児教育の実践家だけでなく、大学で学生に教えを垂れる立場にいる方まで、本屋や図書館に行けばその実践報告や関係書物が結構目に付くようになった(10年前には、養護教育など、障害児の関わりに焦点を当てたものがほとんどだった)。中には、「遊びでIQ140」なんていうものまである。インターネットでも溢れている。「遊び」の価値がようやく復権されつつあるのかな~とも思う(それでも、まだ「教育」の本質と真正面から向き合ったものは少ない)。
で、ちょっと興味を惹かれて覗いてみると、「あれ~、これは前に自分が言っていたことと…」というようなものもないわけではない。むしろ、市P連に書かれた教頭先生のように礼儀を尽くして連絡をくれるような方が珍しい。でも、自分は売文の徒ではないし、若い頃、「オリジナルとは…、著作権とは…」なんて愚にもつかぬことを考えたこともあるので、普通はあえて目くじらを立てるような野暮なことはしない。
▼「コロンブスの卵」と神話
そう、いつもそうなのだ。「コロンブスの卵」と同じことである。彼はみんなと反対に西へ西へと向かい、アメリカ(西インド諸島)を発見した。「西へ西へ?そんなら俺でもできた」と人々は言ったそうな。そこで、「では、これはどうだ」と言って、コロンブスは卵を見せた。「これを立ててみろ」と。誰も卵を立てられない。横に倒れてしまう。「そんなの立つわけがないじゃないか」。そこでコロンブスは「こうするんだ」と言って、卵の底を割って立ててみせた。すると「何だ、それなら俺でもできる」と人々は言ったそうな。
みなさんも知っているお話だろう。この話と同じである。「人が歩けば道になる」と言うけれども、「道なき原野に道をつける」ことは容易ではないのである。
(後に、この話から今度は「卵は立たない」という神話が生まれたそうな。さらには「立春の日だけ卵が立つ」と言う神話が。が、実は、季節に関係なく、卵は辛抱強くやれば立つのである。何事も実際にやってみなくちゃね)
※お後がよろしいようで(話がエンドレスになりそうです)。
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(文責:ganbarujan)
▼ある市P連の会報に載った講演のお話
もう一昨年のことになるが、県内のある市P連に関わっている方(ある中学校の教頭先生)からご連絡をいただいた。「そちらが公民館で講演されたお話が大変良いので、ぜひ『市P連』の会報に載せる記事に使わせてただけないか」という趣旨のお話であった。
とても誠実な丁寧な依頼であったので、快く了解の返事を差し上げた。その後、しばらく連絡がなかったが、数ヶ月後、こちらが半ば忘れかけていた頃、丁寧な礼状とともにその講演の話が引用された市P連の会報が届いた。
そこに、記事はその方が書いたものだが、私が以前に講演で話したようなことが簡潔に語られていた。その方が私の話に同感し、それを多くの親御さんが手にする雑誌で使ってくれたことはやはり小さな喜びではあった。元々はどこの誰がどんな思いで誰に向けて語った話なのかというようなことは、この際、半ばどうでもいいことである。
▼10年前の話を市P連の会報に
「しかし、…」と、ここで少し考え込んでしまう。私の話を使って下さったのは嬉しいことだが(講演の内容は、今でも「いきいきニコラ」のサイトに載っている)、私がそれを私が在住する市の公民館講座でお話ししたのは、実はその10年も前に遡るのである。
つまり、ある市立の中学校で教頭をやっていらっしゃる方が、インターネットで私の話を読んで、この話を市P連の会報で使いたい、そして、多くの子育て中の親御さん達に是非伝えておきたいと思ったのだろう。だから、その方にとってはそれが1999年初春に話したものだなどということは問題にならないことだったのだ。賞味期限のある話をしたかった訳ではないし、不易流行ということもあるのだから。
でも、それにしても…。10年も前に話したことですよ。その間、私どもはその理念に従って、フリースクールを運営してきて、今があるんですよ。学校では今それを親御さん達に理解してもらおうとしている!
(2)に続く
※長くなるので、一応ここまで。続きは後日。
(字数オーバーで全文が載せられません)
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(文責:ganbarujan)
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