教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

オバマよ、怒れ!

2009年01月31日 | 「大人のフリースクール」公開講座
オバマ大統領「恥ずべき」、金融トップの巨額ボーナスに(読売新聞) - goo ニュース

米紙ニューヨーク・タイムズが29日、公的資金を注入された金融機関の経営者らが08年に受け取ったボーナスが合計約184億ドル(約1・6兆円)と推計され、過去6番目の高さだったと報じた。これを知ったオバマ大統領は、「無責任の極みで、恥ずべきことだ」と激しく怒った。「金融機関は崩壊の瀬戸際で、納税者に助けを求めた。自制心、規律、責任感を求めたい」というわけだ。

この怒りはもっともだ。ドル神話の崩壊は構造的なものであるとはいえ、公的資金の導入を招いた巨大企業経営者の責任は大きい。その国民の血税を過去6番目の高さのボーナスに流用するとは失敗を招いた経営のトップの考えられない感覚である。これもまたアメリカ資本主義の現状の一面である。

ベルリンの壁が崩され、社会主義経済は破綻し(本当に社会主義と呼ばれるシステムはあったのか?)、資本主義経済の一人勝ちのようにも見えるが、これは必ずしもアメリカ型資本主義経済が最高のものと信認されたわけではない。よりベターなものとみなされただけのことである。事実欧州型の経済システムはアメリカ型とはずいぶん違っているように見える。

オバマ米大統領がどこへ向かおうとしているのか、まだよく分からないところがある。しかし、彼が大統領予備選で掲げていたスローガンや理念、大統領に就任する前やその後の矢継ぎ早の政策決定などから、歴代の大統領にはない視点と方向性を持っていることだけは窺い知れる。彼の唱える「チェンジ」というものもそこにつながるのだろう。

彼の登場によって、それまでは単なる「理念」や「夢」に過ぎなかったものが「現実」となることを証明して見せた。やろうさえと思えば思いは叶う─これこそはアメリカン・ドリームの再現というものだろう。彼は身をもってそれを実現すると同時に、アメリカはそういう国であることを実証して見せたのである。

所詮は人間のやること、誤謬のない社会主義もなければ誤謬のない資本主義というものもない。社会主義は大きな政府を、資本主義は小さな政府を想起させる。だが、オバマ氏は。「我々が今日、問うているのは、政府が大きすぎるか、小さすぎるかではなく、機能しているか否かということだ。まともな収入を得る仕事、手が届く保険、尊厳ある老後の生活。これらを各家庭が手に入れられるように、政府が手をさしのべているかだ。」と言ったそうだ。これを一言で言うならば「機能的なスマートな政府」ということだ。確かにその辺りが妥当なところかもしれない。

そもそも人間はなぜ社会や国家を形成するか?それは自然界の中では、人間はとてもひ弱な裸のサルであるからである。人間は裸の体に保護するための衣服をまとったように、自分達を保護する環境として社会を築き、国家を建設してきたのである。だから、もしそれが弱い人間を保護する役割を放棄し、自然界と同じく弱肉強食の成り立つ世界であるとするならば、そんな社会や国家は必要ないのである。

確証はないが、オバマ氏は今までのような大企業主体でもなく、官公主体でもなく、第3の道として、インターネットを駆使した今回の選挙にもその片鱗が見えるが、「民主体」の政治を考えているのではないか…と思っている。

だから、─冒頭に戻る─そういう意味でも一部資本家達の専横を許してはならないのである。オバマよ、怒れ!そういう連中はその社会や国を愛しているわけではない。結局のところ、国や人々を食い物にしているだけなのである。

「いじめは許さない!」の実効性はいかに?

2009年01月22日 | 「大人のフリースクール」公開講座
埼玉県の自民党の県議団が4月からの実施を目処に「いじめ防止プロジェクトチーム」を結成し「県いじめ防止条例」の制定を目指すという。県・学校・県民・保護者の役割と責務を定め、県全体でいじめを許さない環境を作るのだという。そこには、子どもの教育の第一義的責任を有するのは保護者であり、ネットいじめについての言及もあるという。こういう県をあげての取り組みは都道府県で初めてだという。

大変結構なことであり、そのこと自体については異論はない。県議もようやく県の教育について真剣に考えるようになったのかなと思った次第だ。 だが、ちょっと待てよ。

ここには「いじめは許さない!」という取締りの発想に基づくアピールはあるが、なぜいじめが起きるのか、いじめたりいじめられたりする人間の心理状況に対する言及は全く見られない。これでは警察的発想と同じであり、「臭い物には蓋」の処理の仕方である。これではいじめはなくならない。いじめ防止条例を交付するつもりなら、そこまで踏み込まなくては意味がないだろう。絵に描いた牡丹餅に過ぎなくなる。

そう思っていたところ、とんでもない事件が発覚した。昨年の10月、さいたま市内の中学3年生が携帯電話サイトでいじめを受け、自殺していたことを学校側が伏せていたというのである。そして学校側から聞こえるのは相変わらずの弁明であり、お定まりの実態調査とやらであり、生徒へのスクールカウンセラーは派遣である。これで学校でのいじめは解明され、いじめ問題は解決されるのであろうか。 先の自民党県議団によるいじめ条例の交付の問題も、もしかするとこの事件との絡みで出てきたものなのではないのか、という気がしないでもない。

私たちのフリースクール(ぱいでぃあ)には、小中の不登校の子ども達が集うが、その子ども達は過去に何らかの意味でみないじめられた体験を持っている。その深刻さはいじめ自殺(このこと自体はとてつもなく重いが)の二次被害者の精神的なケアのレベルを遥かに超えている。だが、彼らにはそういうケアはほとんどなかったどころか、逆にそういうトラブルの震源とさえ目されもしてきたのである。

こういう事件が起きるたびに学校や教育関係者がとる対策はいつも管理者の対面をつくろうその場しのぎのように見えるのは、偏見であろうか。

オバマ氏に習って、“Yes,I(we)can.”の心意気で

2009年01月12日 | 「大人のフリースクール」公開講座
内閣不支持70%、危機的水準 定額給付金評価せず70%(共同通信) - goo ニュース

今日の新聞の朝刊を開くと、読売や共同等の調査で、麻生内閣の支持率が軒並み70%を割り込んでいますね。まさにブッシュ大統領以下の末期的支持率です。ここまで来るともはやアッパレと言うしかない。

要因としては2兆円の財源による定額給付金のばら撒きに見られるような、2世3世の世間知らずのお坊ちゃま政治家ということもあるが(民衆がパンを求めて暴動を起こしたと聞くと“では、お菓子でも食べたら…”とか言ったというマリー・アントワネットを想起する)、それを超えて、もう自民党の政治家の誰がなっても同じだろうという、自民党の政治手法の賞味期限切れというか、耐用年数が過ぎたというか、まあ、国民から完全に遊離した自民党政治の終焉ということであろう。

(だが、これは何も自民党に限ったことではない。旧来の政治手法を掲げているところは、一見庶民の味方のように見えながら、同様の旧弊を抱えている。どの政党も支持する国民の代弁者を気取っていながら、党利主義に陥っているのには変わりはないとも言える)

もう間もなく、アメリカは新大統領のバラク・オバマ氏に代わりますね。アメリカ型の未曾有(“みぞう”と読みましょうね)の金融危機を称して“100年来の…”とマスコミで言う人がいるけれども、「ちょっと待ってください。日本は60数年前に敗戦のナイナイ尽くしの状態から立ち上がったのじゃありませんか。それをお忘れですか?」という人がいます。我々はこの経験を活かさなければいけませんね。そして、立ち上がってくる過程で何か大事な忘れ物をして来ていたこともね。

そもそも株券や証券が実体経済から離れて一人歩きしていることを不思議に思わなかったこと自体がおかしい。ホリエモン(この名称ももう過去のことか)が“会社は株主に儲けさせるためにある”とほざいていた時からおかしかったのだ。その音頭をとったのは誰だったかな、ねえ小泉くん?会社組織は本来社会的な人格を持ち、社会貢献するためにあるということがまったく忘れ去られていた。もちろんそこで働く人たちのためにもあることを。

今日は成人式。本来ならとうとう成人となり社会的責任を果たせる大人の仲間入りをしたことを誇らしく思う日。そして、例年なら酒を飲んで羽目を外す馬鹿者たちもいた。それも成人式のご愛嬌だった。が、今日の地方紙の4コマ漫画を見ると、若者たちの視線はお祝いの挨拶をする演者の方に向けられていない。みんな足元や下を見ているのだ。まるで“大人の仲間入りをしたことを恥じている”ように

かつて、我々が若かった頃は、根拠があろうとなかろうと、荒唐無稽に未来への希望を抱いていたものだった。爪先立つ背伸びもあったが、それが若さと言うものだった。“大人が何するものぞ、俺が…”という気概があった。あとは現実にぶち当たって修正していけば良かったのだ。そういう“若さ”というものが今の若者にはまるで感じられない。“いつまでも子どもでいたい。大人になりたくない”というのが本音のようだ。だから、成人式で晴れやかな顔をするのではなく、“まずいことになった”というような顔つきになるのだろう。

彼らと対極にいる不登校や引きこもりの若者と“別に…、何も…”という若者の間には、限りないグレーゾーンが広がっている。だから、“普通”の若者も不登校や引きこもりの気持ちが分かると言う。

でもね、出来合いの結果を想定して軽々しく判断しない方がいい。今回、ノーベル賞をとった人たちも結果を見て研究したわけではない。“根気・持続力がすべて”だという。オワンクラゲの発光を研究した下條さんが19年間にすくったクラゲは85万匹、重量5トンにも及ぶという。結果を先に考えたら到底不可能に見えて研究を投げ出していたことだろう。

我々は今、新しい地平に立っているのだと考えて、荒唐無稽でもいい、空騒ぎでもいい、“いま、ここから”始めるしかない。結果は後からついてくるだろう。“それでいいのだ”そこで、私も年頭に当たって、オバマ氏に習って、言いたい。
“Yes,I(we)can.” この心意気で行きたい