教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

「フリースクールの重要性」ということが初めて教育の課題に

2015年04月16日 | 学校教育と不登校

▼NHKがいち早く報道したように、政府の有識者会議が、「フリースクールの重要性」ということをはっきりと打ち出してきた。フリースクールとしてはこの動きを歓迎すべきなのかどうか…悩むところである。

有識者の間ではフリースクールの位置付けを(1)学校復帰のためのオルタナティブスクール、(2)学校では落ちこぼれる子ども達の受け皿……のように考えているようだが、第(3)の道として、「学校という枠に収まらない個性や能力のある子もやってくる場」という言い方も付け加えるべきかもしれない。

今までも、ぱいでぃあに、IQが140もあったり有名進学校に進んだ子もやって来ている。他のフリースクールでもそういう子ども達はいるのではないか。

 

▼本来ならこういう「フリースクール再評価」の動きは、文科省主導の教育行政の動きに少なからず批判的な日教組や全教の組合などの組織が、日本の教育界に蔓延している「学校教育の危機」を体現したものとまずは理解し、広く世に問い、警鐘を鳴らすべきものではなかったのかと思う。

 

▼ところが、実際には教職員等は相変わらずの組合員同士の馴れ合いや保身にばかり終始していたのではないか……と外部の人間には映ってしまう。不登校への対応の実際も、組合等の組織は文科省を批判はすれども彼等が主導権を取ることはなく、教育委員会任せの実態は否定できなかった。親の会等への対応を見ても、根本から不登校問題を共に考え現在の教育のおかしさを正していくというよりは、なるべく親御さん等の批判の矛先が教職員へ向かって来ないようにするものであった……と少なくとも部外者には見えたのである。

 

▼文科省では昨年の中頃から暮れにかけて不登校支援に関する対策が活発に議論されてきていた。最初は安倍総理の例のいろいろな「やります」発言の一つに過ぎないのかとも思っていたが、日教組等への組合対策(組合潰し?)としても非常に有効と考えたのか、本気度が次第に増してきている。

 

▼我々フリースクールの側に対しても、文科省が主催したフォーラムへの参加呼びかけだけでなく、数度にわたって実態調査やアンケート調査の用紙が回ってきている。「これはかなり本気じゃないか?」と思わせる。それは下村博文文科相が敢えて旧民主党の鈴木寛副大臣をブレーンとして起用し続けることにも現れている。

これは、言い換えれば、「日本の教育は不登校問題を抜きには語れないところまで来てしまった」ということになるだろうか。

 

▼実際に今後どう展開するのかはまだよく分からない。しかし、教職員組合等が不登校の子どもの母親達を巧妙に懐柔していたのとは違って、今までは各地方の教育委員会に対応を任せていたようなことはあったが、一気にアクセルを全開にしたような趣がある。

 

▼正直なところ、「遅すぎだ!」「今まで何をやっていたの!」という声はある。当たり前である。当事者の血の滲むような努力は一顧だにされて来なかったのだから」。

しかし、ここにも、前例に囚われず、時には慣例さえも押しのけて突っ走ろうとする安倍政権独特の性格を見る思いがする。

よくぞこれほど「役立たずの学校知」が教育界に蔓延したものである。良くも悪くも、安倍首相にせよ麻生財務相にせよ、 「漢字が…漫画が…コスプレが…」と揶揄され嘲られながらも、 「学校知がいかに役立たないか」を、見事体現して見せてくれたのである。

 

▼不登校になる子どもにはいろいろなタイプの子ども達がいる。だから一概に論じることはなかなか難しい。

しかし、そのどれもが学校が子ども達の生きる場ではなくなっていること、不登校はそういう学校から必然的に生まれたものであることを象徴的に物語っている。そういう意味で、不登校は子どもの側からの身体を賭けた教育の危機の表明なのである。

その欠陥については下村博文文科相自身が触れられている。ところが教職員の間にそういう認識がどれだけあっただろうか?むしろ教育を管理する立場にある者達の間に、先にその感覚が共有されたのかもしれない。

 

▼どちらが正しく、どちらが間違っているという種類の議論はここではしない。しかし、しばらくはブレインストーミング的な状況や篩いに掛ける試行錯誤のブレや揺り戻しが続くのかもしれない。

だからこそ、当面はそれを横目で眺めながら、子ども達と真摯に向き合って行くしかないのかもしれないとも思う。

今度こそ教育変革の動きが政治家や専門家の単なるパフォーマンスや独善に終わらないことを願うばかりだ。

 

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「子どもを元気にする」教育を目指して----暗すぎる日本の学校教育

2015年04月01日 | 日本の教育

▼ふと目にした残紙の一面に、毒蝮三太夫さんのインタビュー記事が載っていた。御年78歳。「まだまだ若い者には負けないぞ」という元気さに満ちている。(ちなみに、「毒蝮」という芸名は、彼が「笑点」で座布団運びをしていた時に、故・立川談志からもらったものらしい。)

▼「高齢者を喜ばせ、元気づけて45年」になるとか。高齢者の孤独死などを見るにつけ、今の世の中には「人と人とのかかわり」が足りないと感じていた。人と人とのかかわりで大切なのは「三つの‘かける’」だという。「肩に手をかける、笑顔で話しかける、気にかける」。しかし、その前にまず大切なことは「目を見て話す」ことだと言う。

▼彼は「TBSラジオ・大沢悠里のゆうゆうワイド」のコーナーで、高齢者のアイドルとして知られた。「ジジイ、ババア、元気か!」の毒舌が彼の売りだった。一見、高齢者をバカにしているようにも見えるが、そんなぞんざいな言葉の奥にあるのは確かな思いやりの心。だから、わざわざ彼に毒舌を言ってもらいたくてやって来るファンもいる。
しかし、一方ではウルトラマンやウルトラセブンといった子ども番組でも同じく人気者であった。高齢者から子どもまで、彼のファンは幅広い。おごらず高ぶらず、いつも高齢者や子どもたちの目線で考え、行動している姿がある。

▼そういう彼の変わらぬ姿は、日々子どもと接している私たちの教訓ともなる。特に学校を離れて不登校となった子どもたちに最も必要なのは、言わば「ジジイ、ババア、元気か!」の子ども版なのである。どこかの書物から仕入れたような出来合いの知識やカウンセリング理論などではない。ましてやカウンセリング・マインドなどというマガイモノの思いやりや共感の仕草などではない。「子どもたちを元気にする」言葉がけとか思いやりの心。それに尽きる。

▼今、「日本の子どもがおかしい」と言われる。どうも子ども達に元気がない。小さくまとまり、冒険をしない。大きな夢や希望を持とうとしない……そういう子ども達が多いのだ。これは海外と比較した日本のこどもたちを判断する統計の数値にもはっきりと表れている。そういうグレーゾーンがあり、そこから学校に希望を失った子どもたちの不登校も増えているようだ。
しかし、それは子どものせいだけでは決してあるまい。良くも悪くも大人がこれでよしとして推し進めてきた戦後教育の結果として起きてきていることである。

▼確かに戦後、日本は一度は驚異的な復興を遂げた。でも、今は再び深い低迷の中にいる。今度こそは、一見、出口なしの状況にも見える。だが、必ずしもそうではあるまい。
ここは何としても「子どもたちを元気をする」学校を再構築する必要がある。それできない学校があるなら、さっさとトップを交代した方がいい。それは教師のための学校ではあるかもしれないが、もはや子どものための学校ではなくなっている。我が子を学校に通わせている保護者は、そこのところをとくと検証しなければならない。お任せでは子どものための教育にならない。

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