教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

マスコミの報道に見る言語感覚

2010年07月21日 | 学校教育

前歯にペンチ・給食に唐辛子 養護学校で「不適切」指導(朝日新聞) - goo ニュース

▼養護学校での教育の一端が漏れ出た事件
滋賀県教育委員会の発表によると21日、県立野洲養護学校(同県野洲市)である教諭(54)は男子生徒の前歯にペンチを当てるなどし、また別のある教諭(47)もペンチを持って「これで乳首を挟んだら痛いやろな」と言って脅したという。
 また、ほかの2教諭は生徒の下半身を足で触れたり、給食に私物の一味唐辛子をふりかけたりしたという
 被害を受けた生徒たちは同校高等部に所属している身体に障害があり子ども達である。

▼学校の教育的指導とは何なのか
 これに対して、滋賀県教育委員会は同校の当該の男性教諭4人を停職1カ月の懲戒処分にしたと発表。末松史彦教育長は「行き過ぎた指導。大変申し訳ない」と話したという。そして、それを伝える朝日新聞の見出しにも、<養護学校で「不適切」指導>とある。
 おお、教育という営みは何と素晴らしい美辞麗句で飾られることか! たとえば、「体罰で骨折」させても「指導」なら、このような「実に陰湿なパワーハラスメントによるいじめ」も「指導」となるらしい。そういう語を用いて言い訳をすることに何ら恥じらいもない

▼教育的指導という名の犯罪行為
 教育現場を離れれば、それは歴とした犯罪行為である。傷害事件であったり、パワハラによる陰湿な虐待行為である。だが、「教育」というオブラートで包むと途端に「指導」になってしまう。この逆であったらどうか、生徒が教師の指導に少しでも歯向かえば、教師たちは火の付いたように喚き、即警察に通報するだろう。この落差は何なのか。

▼マスコミの感覚にも問題はないか
 さらに問題なのは、これを報道するマスコミの姿勢である。何もマスコミに「正義の使者」を演じてくれとは言わない。迷惑なことだ。ヤメテ欲しいと思う。しかし、社会的な常識の感覚というものはあるだろう。単なる権威や権力の使い走りではないはずだ。
 だとすると、この報道の仕方は何なのか。言語使用のプロを任ずるマスコミ・朝日新聞のこの言語感覚は何なのか。おいおい朝日新聞さんよ、あんたの報道姿勢は大丈夫か?そんな心配さえ覚える朝日新聞の見出しであり、記事内容である。ここで中立を装うことにどんな意味があるのか。答えて欲しいものだ
 こういう報道姿勢では、マスコミの共犯と言われても仕方あるまい。

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不登校・フリースクールを取り巻く現実と理想と(2)

2010年07月05日 | 不登校
▼教育行政の行った「不登校理解」の実績はどこに
学校には「不登校理解」のための様々な研修があるそうな。でも、実際に学校を離れた子ども達のために、不登校生がいなくなった学校で、どんな不登校理解が出来るというのだろうか。私達が不登校の子ども達のための本格的な活動をはじめて15年になるが、「不登校理解のため」と称して、この15年の間に一体どれだけの教育公費という名の税金が教育行政の側に注ぎ込まれただろうか。そして、一体どんな成果を上げただろうか。
埼玉県の「不登校対策事業」の作成に民間のフリースクールからはじめて参加してその叩き台を作り上げたり、不登校生のための「スーパーサマースクール事業」の設立に参画した者の立場からもそんな思いが拭い去れない。
もし、それだけの不登校対策費が実際に不登校になった子ども本人やその親御さんや我々フリースクールのような不登校生を支援する現場で有効に使われていたなら、今よりは不登校の人数はずっと減り、不登校というものの理解ももっと進んでいたのではないかと思え残念でならない。
▼新聞記者の「高校無償化」の取材
そういうこともあってか、今は総選挙の真っ最中、それぞれの政党のマニフェストや今までの実績等が主要な争点となっている。だが、ここでも「言うは易く行なうは難し」で、その言葉の中身を検証してみなければならない。そういうこともあってか、ある新聞記者が電話をかけてきて、「高校無償化」についてフリースクールの意見を聞きたいとのことであった。電話で長話もなんだから…とよければ取材に来てもらうことにした。
▼実際の新聞の記事の作られ方
世の人々は新聞に対して大いなる幻想を持っていらっしゃる。専門家(あるいはそのレベルの人)が取材し専門的な視点から記事を書いているのだろうと。ああ、本当にそうならいいですねえ。でも、実際は、記者といえども(いや、記者だからか)なんにも知らない。特に教育関係は昨日まで警察回りをしていたような記者さんが「今度、教育担当になりまして…」などと言ってやっている。
私も10年近く教育雑誌の編集&発行を行って、何人かのそういう記者さんたちを身近に見知っている。現場での出来事や問題がどういうフィルターを経た後、どういう記事になっていくのかも。「そんなに教育に疎い人たちが実際に新聞の記事を書いているの?」というのが率直な感想だ。これでは現場から記事を掘り起こすなんて無理な話。せいぜい役人の大本営発表を垂れ流すことくらいしか出来ないだろう
▼編集方針に適ったものだけが記事になる
我々専門雑誌などの場合と違って(同じ場合もあるが)、新聞には既に出来上がっている枠(編集方針)がある。世の人々よ、驚くなかれ、多くの新聞記事は現場から吸い上げられ記事化されるのではなく、その新聞の編集方針に沿う形で記事が創作され、その出汁(ダシ)として現場での出来事が利用されるのである。だから、新聞の取材とは言っても、既に出来上がっている記事の味付けに現場での実際の材料が欲しいだけである。だから、もし、こちらの答弁がその新聞の趣旨に合わないものであれば一行も載らないこともあるし、よければ尾ヒレがついて報道されることもある。素材はあってもどう味付けし料理するかはその新聞社の方針一つである。(これは新聞に限らずマスコミの常套手段である)
▼「高校無償化」はどれだけメリットがあるか
さて、実際に来られたある新聞の記者さんは、大学を出てまだ間もないのではないかというように若い。だから、ここはどういうフリースクールかという多少の下調べはしてきたようだが、専門的なことになるとまるで何も知らない。正直言って親御さんほどの問題意識もない。
そういう若い記者さんが「高校無償化」についてどう思うか、実際にフリースクールに通っている高校生はそのメリットをどう感じているのか…と聞いて来た。高校にはいろいろなタイプがあり、それによってメリットの多少がある。しかし、うちで扱うような通信制や高認レベルの高校生にはあまり喧伝されるほどのメリットはない、というのが実際のところだ。

▼義務教育の完全徹底を─高校無償化の前にやるべきこと
しかし、こちらで話したかったのはそういうことではない。「子ども手当」にせよ「高校無償化」にせよ、現実に経済格差で苦しんでいる人がいる以上、基本的には賛成であると。が、「その前にまずやるべきことがあるのを忘れてはいませんか」と。義務教育は無償と言いながら、不登校の子ども達は教育公費を受けられず教育棄民の状態にある。これをまず何とかするのが先ではないか。そうでなければ、また<それ、やりました>と公務員の免罪符の言葉を増やすだけに終わってしまう。バラマキではなく、必要とされる人に確実に届く税金の使い方をして欲しい
その他、使い走りの取材に来たような若い記者には、すべてが初めて聞くような事柄であったようで、教育を考える様々な情報を彼の時間の許す限り話した。が、果たして「高校無償化」の話を含め、その新聞の記事に使える情報はあったであろうか。恐らく、何も記事には使われないだろう─そう思った次第である。
「教育が問題だ」─とマスコミも言うけれども、今のマスコミはぶら下がり報道とか記者クラブからの報道はするが、一体どれだけ現実を腑分けした報道をしているであろうか。現場に生きる人間にはそう感じられて仕方がない。
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不登校・フリースクールを取り巻く現実と理想と(1)

2010年07月04日 | 不登校
▼フリースクールでの現実の対応に追われて
本当は、「漫画で作文」の実践を具体的かつ理論的に理解して頂くためにも、「視覚的映像認識から論理的言語表現へ」などのテーマのもとに話を進めたいところ。しかし、子ども達の勉学等の活動に接したり、外部から来られる様々な悩みを抱えた方々の相談にのったり、現場で日々の業務を行っていると、一つの文書を作るにせよ、活動の狭間でしたためるしかなく、研究者然とした時間はまず取れない。
▼学校の先生とは「忙しさ」の実態が違う
いや、「毎日が忙しい」と悲鳴をあげておられるという学校の先生と比べても、ずっとずっと私達の方が時間の余裕がないのではないだろうか。「忙しい」と不平は言っても、学校の先生方は少なくともそれで生活が保証されている訳だ。自身が「登校拒否」の先生であっても、バカな事件を起こして首にでもならない限り、その生活は保証されている。我々のようにスクールを維持するために身銭を切るなどという愚かしいことを一切する必要はないわけだ。
だから、学校の先生が「忙しい」という事態は決して喜ばしいことではないが、教育公務員の贅沢な不満に聞こえなくもない。「政権交代」が実現しても一向に変わらないばかりか、出来なかったことを免罪符とするような動きを見て尚更にそう思う。
▼「不登校」という現実に向かい合う
というわけで、何ら教育公費の支援を受けていない我々フリースクールの運営者やスタッフにとって、自分たちの教育活動を維持することだけでも大変な状況にあるが、これはどこのフリースクールでも同じ様だ。しかしこれは、我々だけの問題ではなく、実際に不登校となった本人やその親御さん達は「アンビリーバボー」な現実に直撃されることになる
我が子が学校を離れるというそれだけの行動をとっただけで、親の委託によって教育権を国家が保障する義務教育制度から我が子は放り出されることになるのだ。日本では─外国では考えられないことだが─「教育を受けること」=「学校に通うこと」と同義だからである(「これ、とてもおかしい」)。
その結果、子ども達は教育公費による一切の援助を受けられなくなり(学校に回されている不登校生分の教育公費は教員の人件費等に消えているようだ)、いわば「教育棄民」とでも言うべき状態に置かれてしまい、下手をすればこのまま引きこもってしまうのではないか、という不安で一杯の現実に初めて直面するわけである。
▼認められない子は自分を責め他を責める
そういう不安を抱いたご家庭の中で、ある程度経済的に─我が子のためならば─支えられるとお考えになった方々が、私達「ぱいでぃあ」のようなフリースクールの門を叩いて来られる。でも、そういう親御さんは全体の不登校生のうちの何%かに過ぎない。大部分の不登校生の親御さんはまだ若く、経済的に独自に支援することは大変なことである。
だから、圧倒的多数の子ども達は、最初の頃は相談室や保健室通いをしたとしても、フリースクールに通えるだけの経済的余裕はなく、やがて自虐的なマイナス感情で一杯になり家に引きこもるしか選択肢がなくなる。家でも家人からも理解が得られない場合には自室に鍵をかけて閉じこもるか、自傷行為に走るか、家の壁が突き抜け鉄骨が剥き出しになるような破壊行為を見せたりもする。現場で撮ったそういうリアルな映像もある。
▼自死を遂げた子ども達も…
そして、時には、自死を遂げるに至ることもある。今までにも、何人もの親御さんが我が子が身を投じたり、自死を遂げた後に私どものところにやって来た。でも、事前にフリースクールにでも救いを求め判っていれば食い止められたかもしれないその子の命も、行為の後ではどうにもならない。
その子が自死した後、その親御さんが自責の念に駆られ、どんな後悔の手記や出版物を残そうと、その子は戻っては来ない。逆に、そういう手記を書き綴り、記憶の中で反復し、どうにもならない現実に悶々とすることほど人の精神を傷めつけるものはない。
もしかして、その当事者でなかったなら、その事件の現場が学校であろうと、自死のきっかけに教師が絡んでいようとも、言い繕い、言い逃れ、仕事と割り切り、忘却の彼方へ連れ去ってしまうことも出来るかも知れない。だが、親の場合には、一生悔悟の念が脳裏から離れることはなくなる。そして、毎日が生き地獄のような生活になってしまうのだ。そういうことを学校の教員はどれだけ考えていることだろう。
(続く)
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日刊ゲンダイの「民主党への投票呼びかけ」について

2010年07月02日 | 日本社会
■ネットで拾った言葉← W杯日本代表、お疲れ様!
「下向いたってなにも落ちてないぞ
前見てみろ
みんなお前に拍手してるから」
■日刊ゲンダイの民主党への「投票呼びかけ」について
▼日刊ゲンダイの一面の見出し
夕刊紙日刊ゲンダイが一面の見出しで堂々と「民主党への投票呼びかけ」を行っているという。「公職選挙法違反」ではないかとネットでも話題だという。J-CASTニュースが詳しく伝えている。
民主党に投票を呼びかける根拠は、「日本に民主主義を根付かせるために、政権交代を安定的に実現する必要がある」からだという。「争点は消費税ではない 民主党の議席数だ」というのだ。
▼選挙中の個人の行動と公器としてのマスコミ
選挙期間中は何かと行動の制約がかかる。個人が文書を配れば選挙違反に引っかかる。莫大な費用のかかるビラ張りなどよりアメリカのようにネットを大いに活用すればいいではないかと思うが、期間中はサイトの更新もままならない。
だが、新聞の場合には、社会の公器だからその情報提供としての活動は「評論」として扱われ、「表現の自由」の問題もあって、規制の対象にはならないのだという。
▼マスコミは報道姿勢を明確にせよ
ならば、日本の新聞はもっと己の政治姿勢を明らかにして報道してはどうか。社会の公器だからとあたかも公正中立を装うことは、そろそろ止めにしてはどうか。「読売与太者、毎日眉唾、朝日偽紳士」と世に言われるが、それが正しい指摘かどうかは別にして、地金の政治的主義主張をもっと明確にしてはどうか。それが、国民に対しての誠実な姿勢というものだろう。
たとえば、産経新聞や夕刊フジなどははっきりと保守主義墨守を任じて報道すればよいし、読売新聞は自民党支持を鮮明にし、朝日新聞や毎日新聞などは革新に軸足を置きながらも、是々非々のどっちつかずの「大所高所」からの報道姿勢を心情とするなど、明らかにすればいいだろう。
▼新しい時代の嚆矢となる日刊ゲンダイの行動
その意味では、日刊ゲンダイの今回の行動は、」マスコミの報道のあり方に新境地を開くものとして、大いに評価すべきことではないかと思う。もし、今回の報道に何か問題があるかのような取り扱いがされるならば、そう扱わざるを得ない公職選挙法の方を問題にしなければならない。「国際社会の一員としての日本がある」という時代に合うように、その法律を変えなければならない。
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