現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から
▼驚くべき政治家の事務所の経理の杜撰さ
とうとう鳩山首相の元秘書二人が偽装献金事件で起訴され、首相は「誠に申し訳ない」と陳謝した。これは今後の政権運営にとって相当の痛手であろう。人が集まり人が動くとなれば、どんな組織でも金銭も動く。ポスター一枚作るにしても費用がかかる。だから、組織と名の付くところでは、法人のような公的な組織ではなくても経理は大事な仕事である。これなしには組織は動けない。だから、組織のあるところにはその大小にかかわらず必ず経理の責任者が必要であり、規模が小さくて大して金額の出入りがある仕事ではなくても経理に弱ければ税理士など経理の専門家に依頼することも多くなる。それが天下の政治を司る組織であれば当然、事務所には経理の責任者がいるはずであり、それが出来なくてどうして税金に基づく政治を行うことができるだろうか。
▼日本の政治の変化の兆し
ところが、驚くことに今回の鳩山氏の場合に限らず、政治家の事務所というのはその金額が数百万、数千万、時には数億万の単位になろうとも、経理に関してはまるでザルで杜撰な場合が多いのはなぜか。あえて明確に処理しない方策がとられていると言えなくもない。こういう膿は今後至る所で出していかなければならない。しかし、なぜこういうことが今までまかり通ってきたかといえば、それは結局のところ国民がそれを許容してきたからである。やはり、国は国民に合った政治や政府しか持つことは出来ない。それが今回、小沢氏や鳩山氏の献金問題を契機にして脚光を浴びるようになったということは、ある意味政治の進歩であり、おそらく自民党政権では不可能であったことであり、政治のチェンジを示す出来事として評価すべきことかもしれない。
▼旧態依然のマスコミの悪アガキの姿
マスコミはこの時とばかりに鳩山政権叩きに奔走し、民主党と言えども自民党と何ら変わりはないということを国民に示そうとしているかのように見える。しかし、大事なのは相手を批判すればそれで批判者の株が上がるわけではないということ。言い換えれば、批判するということは、やがてはその何倍もの風圧となって自分に返ってくる覚悟を持つことでもある。こういう一連のマスコミの報道の姿勢が、逆に旧態依然たる物差しを抜け出ることのできないマスコミの悪アガキの姿にも見えてくるから不思議だ。
▼政治的貧困の日本の風土の中で
見方を変えてみよう。今、鳩山氏の偽装献金が問題になっていて、さすがは大資本家のボンボンの金銭感覚は庶民とは違う、という側面は大いにある。しかしそれでも、貧乏人の私がそういう彼を庇うところがあるとすれば、その金は私腹を肥やすために使われたものではないということに尽きる。我欲に長けた他の政治家のように彼は闇金を肥やす術を知らなかったのかもしれない。また、そんな発想を持つ必要もなかったのかもしれない。だから、彼にとって政治は算術ではなかった。しかし、実際の政治には莫大なカネがかかる。それに、彼がいくら企業献金から個人献金への変化を訴えても、そもそも殆どの日本人は私腹を肥やすことには熱心でも他人のためには金を出そうとはしない。この傾向は特に資産家に強い。だから、彼は何億ともいう金を新しい政治の実現のためにつぎ込まざるを得なかったのだ。改めて問う。鳩山氏批判を繰り広げるマスコミを支持する資産家や小金持ちのうち、一体どれだけの人が他人のためや、この国の政治のために自らの資産を投入してきただろうか。
▼政権交代の必然性
キリストの聖書のヨハネの黙示録の一節には、イエスの言葉として「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という有名な言葉があるが、そういうことが今の鳩山由紀夫首相批判にもそのまま当てはまるのではないか。鳩山首相の所信表明演説に対する各党の代表質問で、民主党の財政試案に対する自民党の谷垣氏の批判に対して「あなた方に言われたくない。(中略)こんな財政にしたのは誰なんだ」と言い、普天間飛行場の移設問題に関しても「今まで10年以上結論を出さなかったのは、どの政権なのか」と言い放ったことがあった。言うまでもなく、政権は交代すべくして交代したのだ。
▼マスコミの「正義」を検証しよう
これは資産家か否かの歪曲された話(もちろん大きな命題だが)ではない。この国は何を求めどこへ向かおうとしているのか、何を選択し何を行おうとしているのか、という問題なのだ。そこで、マスコミも何を目的に、何を言おうとしているのか…とくと検証する必要がある。もしかして、それは古い物差しを振り回しているだけなのではないか…ということもなくはない。それに、場合によっては、マスコミの報道は国民を覚醒に導くのではなく、洗脳によって固定的な見方に導くことだってないわけではない。思えば60数年前、私たちは大政翼賛的なマスコミの「正義の報道」によって、戦争・敗戦という苦い経験を舐めている。
▼現代に相応しいマスコミの報道のあり方
マスコミはなるべく事実を客観的に報道することに徹するべきだ。それが難しいなら、自分たちの報道の姿勢を明らかにし、必ずしも客観的報道ではないことを素直に認めるべきだろう。それが現代に相応しいマスコミの報道姿勢のあり方だと思う。マスコミには報道の自由だけでなく、報道の価値付けの自由も、報道しないで見ぬ振りをする自由もある。だから、今さら言うまでもないことだが、マスコミの報道=客観的ではないのである。それに、もはや国民の声(=頭)をマスコミに代弁してもらう時代でもない。我々もまずはそういうマスコミの言葉や報道をしかと検証することから始めなければならない。