経済にせよ健康保険にせよ、格差を拡大させたままで、人間が社会生活を営む上での基本的なセーフティネットのない社会が、如何にコロナウイルスの攻撃に脆い社会であるか、アメリカは具体的事例をもって明らかにしたと言えよう。
もはや、アメリカ社会は唾棄すべきモデルであり、目指すべきモデルではない。
経済にせよ健康保険にせよ、格差を拡大させたままで、人間が社会生活を営む上での基本的なセーフティネットのない社会が、如何にコロナウイルスの攻撃に脆い社会であるか、アメリカは具体的事例をもって明らかにしたと言えよう。
もはや、アメリカ社会は唾棄すべきモデルであり、目指すべきモデルではない。
******************************************************
井上ひさしさんに合掌
▼「ひょうたん島」で言葉の表現に出会う
当時子どもだった私がテレビドラマの楽しさを知ったのはたぶん「ひょっこりひょうたん島」が最初ではなかったかと思う。軽快な音楽に乗ってひょうたん島が海の上を移動しながら様々な事件に遭遇するという奇抜な発想のドラマは、子どもの私の気持ちを沸き立たせた。ドラヒゲ、ドンガバチョ、博士…当時としては斬新なエンターテインメント性に裏打ちされた豊かな日本語の表現の数々がそこにあった。日本語という言語がこんなに素敵な表現力を内包していること、そして人と言うものはこういう言葉を通して生き思考するのだと言うことを、井上ひさしさんの「ひょうたん島」は子どもの私に身体を揺すぶるような感覚の覚醒=感動を通して教えてくれたように思う。今思うと、それがその後の私の行動原理の基板のひとつになったのではなかったか。
▼一番ノーベル賞をとってほしかった人
残念ながら私は作家・井上ひさしさんの忠実な読者ではなかった。しかし、机上の勉学を通してではなくその生きざまの中から叩き上げ開花させた類まれな日本語の才能はいつも畏敬の対象であった。だから、何人かの日本の文学者がノーベル賞を受賞したりその候補に上がる度に、「井上ひさしさんこそノーベル賞にふさわしい」と密かに思い、それが実現することを願っていた。しかし、何語にも置き換え可能なグローバル性のある日本語を駆使する作家が国際評価を得る中で、井上さんの日本語の仕事の偉大さはあまり海外では評価されていないようにも見えた。そのひとつの要因は、井上さんが紡ぎ出す日本語による表現の見事さは、その還元不能なほどの見事さにおいて、外国語への翻訳はとても難しかったのかもしれない。一時は翻訳家の怠慢とも考えたが、詩の言葉が翻訳不可能な場合が多々あるように、遅筆堂・井上ひさしさんの戯曲や小説の言葉も同様の困難さにぶつかったのだろうと考え直した。
▼ただ合掌
井上ひさしさんの評伝的なことはここでは語らない。私の柄ではない。一読者としての私的な思いに留めておきたい。あの飾らない人懐っこそうな笑顔を思い浮かべながら、ただ合掌するだけである。それにしてもちょっと早過ぎはしないかい。もっともっと豊かな日本語を紡ぎ出してほしかった。井上ひさしさん、あなたが去った今、あなたが残した日本語をできるだけ私の身体を通して響かせてみたいと思っている。
にほんブログ村
“貴乃花つぶし”に文科省が待った!理事選に異例の介入(夕刊フジ) - goo ニュース
貴乃花、頑張れ!
▼日本相撲協会のおかしな体質
このブログでも何回か、「朝青龍のどこが悪い?」というような内容で、日本相撲協会のおかしさ、その古い体質の改善を訴えてきた。それが今回は理事戦の話題である。
その前に、横綱審議会委員として大いに発言し話題を集めた内館牧子さんの退任に心からお疲れ様と言いたい。やくみつる氏と同じく横綱に対して辛口の批評・批判する姿勢が印象的であった。その辺のことは、朝青龍に対して「アスリートとしては150%好きだが、横綱としては…」という感想が全てを物語っているかもしれない。ただその姿勢は日本相撲協会が今の時代の人々に親しまれ愛されるのに相応しいものであったかというと首を傾げるような発言もあったと私は感じている。
▼内館牧子さんのやり残したもの
大相撲がこのままでは行き詰まりを見せていること、日本伝統とも言える相撲(国技と言っていいのだろうか?)が国際化しトップ陣は全て外国人が占めるようになった現実があるということ、伝統を受け継ぐこととはどういう事なのか、そもそも旧来のものをそのまま墨守することが伝統を受け継ぐことなのか、それを伝統も文化も違う外国出身の力士に理解させ体現させることが可能なのだろうかということ、それとも中身はともかくそういうポーズだけでもとらせればそれでOKだということなのか、というような問題にどれだけ切り込めたのかという思いがしている。
▼貴乃花親方の理事選出馬の波紋
そこに貴乃花親方が自己の信念を貫くために「慣例」を無視して財団法人相撲協会の理事戦に出馬すること、しかし一門の反対にあって二所ノ関部屋を飛び出し6人の親方がそれに追随し破門になったこと、ところが貴乃花親方が理事選に当選するには3票足りないこと、しかし二所ノ関部屋だけでなく時津風部屋をはじめどの部屋も貴乃花親方に投票するシンパを出さないために暴力団の親分選びまがいの規制をかけていることなどが、次々と明らかになってきた。どうもこれが伝統を重んじるという日本相撲協会のやり方らしい。しかし、これでは大相撲に八百長の疑惑が生まれたり、若者に愛想を尽かされたりするのもむべなるかなという感じがしないでもなかった。
▼大相撲の将来を憂い改革を唱えること
相撲協会の武蔵川理事長は、相撲協会の改革を唱える貴乃花に、「改革、改革って、何を改革するというんだ」というようなことを言っていたようだが、現状を良しとし、問題意識を持たない人間にとっては改革を唱える人間の言は難癖を付けているようにしか見えないのかもしれない。しかし、貴乃花親方の大相撲を思う気持ちはとても真摯なものに思える。一本気で融通が利かない面もあるようだが、彼は真剣そのものだ。体面ではなく、日本の大相撲の行く末を本気で憂えている。
▼文科省の監視の下での選挙に賛成
そこに今回、初めてのことだろうけれども、監督権限を持つ文科省の監視が入るとのこと。厳正な選挙を実施するためである。日本相撲協会の健全な発展を願うためである。逆に言えば、今までの相撲協会のあり方がボス同士の手打ち式で決まるように、余りにも非民主的であり過ぎたのだ。それに、いじめ・リンチの結果、死者まで出すに至ったのに、自力ではなかなか変われない体質を持っている。
現在の理事の面々を見ても、横綱・大関等の経歴者が必ずしも主要メンバーとなっているわけでもない。どういう経緯でこういうメンバーが協会を運営するに至ったのか外部からは皆目見当がつかない。
貴乃花親方が理事選に出馬することについては賛否様々な声があるようだ。だが、協会のボスたちの声に従っていたならば、おそらく改革は無理であろうし、貴乃花のような若手は今後長らく出番が回って来ないだろう。つまりは相撲協会は何ら世間の批判に応えることなく旧態依然のままであり、その結果衰退の一途を辿ることになるだけだろう。
▼貴乃花親方の真摯な思いを支持する
では、貴乃花にそれだけの才覚があるのか?そう問われれば疑問な点が少なくない。学歴を積まずに中卒後相撲の道に入ってしまった結果、その言動がエキセントリックでに偏りがあったり、相撲場経営がうまく行かなかったり、人間関係のまずさもいろいろ指摘されている。実際、彼は優れた強い横綱ではあったが、ただそれだけのことで個人的には好きにはなれない相撲取りであった。しかしそれしかない相撲バカであったからこそ、相撲に対する思いは誰にも劣らない強さを持っていることも同時に感じられた。
今、相撲協会に求められているのはそういう若い改革者の熱い溢れ出るエネルギーなのではないかと思われる。公正な選挙の結果敗れるのであればそれは致し方ないが、それ以前の工作によってひねり潰そうという発想や行動(投票の小細工や締め付けによって貴乃花潰しを画策していたようだ)はいただけない。それではいくら熱心な相撲ファンでも愛想を尽かすというものだ。
▼人は挑戦を通して成長する動物
現段階では貴乃花を理事に推すメンバーが不足である。彼が当選するには更に数名の賛同者・支持者が必要である。投票日までにその人数が確保出来るかどうか。もしかして、彼は理事としての資質に欠けていると考えている人がいるかも知れない。それも一理ある。しかし、「あいつはダメだから…」とその人間に挑戦させる機会を与えないでいれば、その人はずっと批判されるレベルの人間に留まることであろう。はじめから出来る人はいないのだ。それに人は挑戦することで成長する動物である。だから、彼を成長させるためには彼に挑戦させることが必要なのだ。もしかして、失敗ということもあるかも知れない。ならば、次はそこから出発すればいいのである。失敗を通して人は成長するのだ。貴乃花、頑張れ!
現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から
▼驚くべき政治家の事務所の経理の杜撰さ
とうとう鳩山首相の元秘書二人が偽装献金事件で起訴され、首相は「誠に申し訳ない」と陳謝した。これは今後の政権運営にとって相当の痛手であろう。人が集まり人が動くとなれば、どんな組織でも金銭も動く。ポスター一枚作るにしても費用がかかる。だから、組織と名の付くところでは、法人のような公的な組織ではなくても経理は大事な仕事である。これなしには組織は動けない。だから、組織のあるところにはその大小にかかわらず必ず経理の責任者が必要であり、規模が小さくて大して金額の出入りがある仕事ではなくても経理に弱ければ税理士など経理の専門家に依頼することも多くなる。それが天下の政治を司る組織であれば当然、事務所には経理の責任者がいるはずであり、それが出来なくてどうして税金に基づく政治を行うことができるだろうか。
▼日本の政治の変化の兆し
ところが、驚くことに今回の鳩山氏の場合に限らず、政治家の事務所というのはその金額が数百万、数千万、時には数億万の単位になろうとも、経理に関してはまるでザルで杜撰な場合が多いのはなぜか。あえて明確に処理しない方策がとられていると言えなくもない。こういう膿は今後至る所で出していかなければならない。しかし、なぜこういうことが今までまかり通ってきたかといえば、それは結局のところ国民がそれを許容してきたからである。やはり、国は国民に合った政治や政府しか持つことは出来ない。それが今回、小沢氏や鳩山氏の献金問題を契機にして脚光を浴びるようになったということは、ある意味政治の進歩であり、おそらく自民党政権では不可能であったことであり、政治のチェンジを示す出来事として評価すべきことかもしれない。
▼旧態依然のマスコミの悪アガキの姿
マスコミはこの時とばかりに鳩山政権叩きに奔走し、民主党と言えども自民党と何ら変わりはないということを国民に示そうとしているかのように見える。しかし、大事なのは相手を批判すればそれで批判者の株が上がるわけではないということ。言い換えれば、批判するということは、やがてはその何倍もの風圧となって自分に返ってくる覚悟を持つことでもある。こういう一連のマスコミの報道の姿勢が、逆に旧態依然たる物差しを抜け出ることのできないマスコミの悪アガキの姿にも見えてくるから不思議だ。
▼政治的貧困の日本の風土の中で
見方を変えてみよう。今、鳩山氏の偽装献金が問題になっていて、さすがは大資本家のボンボンの金銭感覚は庶民とは違う、という側面は大いにある。しかしそれでも、貧乏人の私がそういう彼を庇うところがあるとすれば、その金は私腹を肥やすために使われたものではないということに尽きる。我欲に長けた他の政治家のように彼は闇金を肥やす術を知らなかったのかもしれない。また、そんな発想を持つ必要もなかったのかもしれない。だから、彼にとって政治は算術ではなかった。しかし、実際の政治には莫大なカネがかかる。それに、彼がいくら企業献金から個人献金への変化を訴えても、そもそも殆どの日本人は私腹を肥やすことには熱心でも他人のためには金を出そうとはしない。この傾向は特に資産家に強い。だから、彼は何億ともいう金を新しい政治の実現のためにつぎ込まざるを得なかったのだ。改めて問う。鳩山氏批判を繰り広げるマスコミを支持する資産家や小金持ちのうち、一体どれだけの人が他人のためや、この国の政治のために自らの資産を投入してきただろうか。
▼政権交代の必然性
キリストの聖書のヨハネの黙示録の一節には、イエスの言葉として「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という有名な言葉があるが、そういうことが今の鳩山由紀夫首相批判にもそのまま当てはまるのではないか。鳩山首相の所信表明演説に対する各党の代表質問で、民主党の財政試案に対する自民党の谷垣氏の批判に対して「あなた方に言われたくない。(中略)こんな財政にしたのは誰なんだ」と言い、普天間飛行場の移設問題に関しても「今まで10年以上結論を出さなかったのは、どの政権なのか」と言い放ったことがあった。言うまでもなく、政権は交代すべくして交代したのだ。
▼マスコミの「正義」を検証しよう
これは資産家か否かの歪曲された話(もちろん大きな命題だが)ではない。この国は何を求めどこへ向かおうとしているのか、何を選択し何を行おうとしているのか、という問題なのだ。そこで、マスコミも何を目的に、何を言おうとしているのか…とくと検証する必要がある。もしかして、それは古い物差しを振り回しているだけなのではないか…ということもなくはない。それに、場合によっては、マスコミの報道は国民を覚醒に導くのではなく、洗脳によって固定的な見方に導くことだってないわけではない。思えば60数年前、私たちは大政翼賛的なマスコミの「正義の報道」によって、戦争・敗戦という苦い経験を舐めている。
▼現代に相応しいマスコミの報道のあり方
マスコミはなるべく事実を客観的に報道することに徹するべきだ。それが難しいなら、自分たちの報道の姿勢を明らかにし、必ずしも客観的報道ではないことを素直に認めるべきだろう。それが現代に相応しいマスコミの報道姿勢のあり方だと思う。マスコミには報道の自由だけでなく、報道の価値付けの自由も、報道しないで見ぬ振りをする自由もある。だから、今さら言うまでもないことだが、マスコミの報道=客観的ではないのである。それに、もはや国民の声(=頭)をマスコミに代弁してもらう時代でもない。我々もまずはそういうマスコミの言葉や報道をしかと検証することから初めなければならない。
現代のマスコミ報道のあり方を考えるー偽装献金問題の報道から
▼驚くべき政治家の事務所の経理の杜撰さ
とうとう鳩山首相の元秘書二人が偽装献金事件で起訴され、首相は「誠に申し訳ない」と陳謝した。これは今後の政権運営にとって相当の痛手であろう。人が集まり人が動くとなれば、どんな組織でも金銭も動く。ポスター一枚作るにしても費用がかかる。だから、組織と名の付くところでは、法人のような公的な組織ではなくても経理は大事な仕事である。これなしには組織は動けない。だから、組織のあるところにはその大小にかかわらず必ず経理の責任者が必要であり、規模が小さくて大して金額の出入りがある仕事ではなくても経理に弱ければ税理士など経理の専門家に依頼することも多くなる。それが天下の政治を司る組織であれば当然、事務所には経理の責任者がいるはずであり、それが出来なくてどうして税金に基づく政治を行うことができるだろうか。
▼日本の政治の変化の兆し
ところが、驚くことに今回の鳩山氏の場合に限らず、政治家の事務所というのはその金額が数百万、数千万、時には数億万の単位になろうとも、経理に関してはまるでザルで杜撰な場合が多いのはなぜか。あえて明確に処理しない方策がとられていると言えなくもない。こういう膿は今後至る所で出していかなければならない。しかし、なぜこういうことが今までまかり通ってきたかといえば、それは結局のところ国民がそれを許容してきたからである。やはり、国は国民に合った政治や政府しか持つことは出来ない。それが今回、小沢氏や鳩山氏の献金問題を契機にして脚光を浴びるようになったということは、ある意味政治の進歩であり、おそらく自民党政権では不可能であったことであり、政治のチェンジを示す出来事として評価すべきことかもしれない。
▼旧態依然のマスコミの悪アガキの姿
マスコミはこの時とばかりに鳩山政権叩きに奔走し、民主党と言えども自民党と何ら変わりはないということを国民に示そうとしているかのように見える。しかし、大事なのは相手を批判すればそれで批判者の株が上がるわけではないということ。言い換えれば、批判するということは、やがてはその何倍もの風圧となって自分に返ってくる覚悟を持つことでもある。こういう一連のマスコミの報道の姿勢が、逆に旧態依然たる物差しを抜け出ることのできないマスコミの悪アガキの姿にも見えてくるから不思議だ。
▼政治的貧困の日本の風土の中で
見方を変えてみよう。今、鳩山氏の偽装献金が問題になっていて、さすがは大資本家のボンボンの金銭感覚は庶民とは違う、という側面は大いにある。しかしそれでも、貧乏人の私がそういう彼を庇うところがあるとすれば、その金は私腹を肥やすために使われたものではないということに尽きる。我欲に長けた他の政治家のように彼は闇金を肥やす術を知らなかったのかもしれない。また、そんな発想を持つ必要もなかったのかもしれない。だから、彼にとって政治は算術ではなかった。しかし、実際の政治には莫大なカネがかかる。それに、彼がいくら企業献金から個人献金への変化を訴えても、そもそも殆どの日本人は私腹を肥やすことには熱心でも他人のためには金を出そうとはしない。この傾向は特に資産家に強い。だから、彼は何億ともいう金を新しい政治の実現のためにつぎ込まざるを得なかったのだ。改めて問う。鳩山氏批判を繰り広げるマスコミを支持する資産家や小金持ちのうち、一体どれだけの人が他人のためや、この国の政治のために自らの資産を投入してきただろうか。
▼政権交代の必然性
キリストの聖書のヨハネの黙示録の一節には、イエスの言葉として「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という有名な言葉があるが、そういうことが今の鳩山由紀夫首相批判にもそのまま当てはまるのではないか。鳩山首相の所信表明演説に対する各党の代表質問で、民主党の財政試案に対する自民党の谷垣氏の批判に対して「あなた方に言われたくない。(中略)こんな財政にしたのは誰なんだ」と言い、普天間飛行場の移設問題に関しても「今まで10年以上結論を出さなかったのは、どの政権なのか」と言い放ったことがあった。言うまでもなく、政権は交代すべくして交代したのだ。
▼マスコミの「正義」を検証しよう
これは資産家か否かの歪曲された話(もちろん大きな命題だが)ではない。この国は何を求めどこへ向かおうとしているのか、何を選択し何を行おうとしているのか、という問題なのだ。そこで、マスコミも何を目的に、何を言おうとしているのか…とくと検証する必要がある。もしかして、それは古い物差しを振り回しているだけなのではないか…ということもなくはない。それに、場合によっては、マスコミの報道は国民を覚醒に導くのではなく、洗脳によって固定的な見方に導くことだってないわけではない。思えば60数年前、私たちは大政翼賛的なマスコミの「正義の報道」によって、戦争・敗戦という苦い経験を舐めている。
▼現代に相応しいマスコミの報道のあり方
マスコミはなるべく事実を客観的に報道することに徹するべきだ。それが難しいなら、自分たちの報道の姿勢を明らかにし、必ずしも客観的報道ではないことを素直に認めるべきだろう。それが現代に相応しいマスコミの報道姿勢のあり方だと思う。マスコミには報道の自由だけでなく、報道の価値付けの自由も、報道しないで見ぬ振りをする自由もある。だから、今さら言うまでもないことだが、マスコミの報道=客観的ではないのである。それに、もはや国民の声(=頭)をマスコミに代弁してもらう時代でもない。我々もまずはそういうマスコミの言葉や報道をしかと検証することから始めなければならない。