教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

市橋は「いい子の非行」の暴発者か?

2009年11月15日 | 教育全般

市橋は「いい子の非行」の暴発者か?

▼誰もが望んだ市橋容疑者の早期の逮捕
「ついに」と言うべきか「ようやく」と言うべきか、英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさんを殺害・遺棄したとして指名手配されていた市橋達也容疑者(30)が逮捕され、関係者だけでなく「ほっとした」人は多いのではないか。それだけ誰もが一日も早い逮捕を望んだ事件であった。まずは被害者とその家族の方々に手を合わせたい。

▼整形でも本質は変えられない
多分、国民の多くは市橋容疑者が既にどこかで自殺しているのではないかと思い、またそうであることを望んでいたのではないか。だから、逆に発見が遅れたのだとも言えそうだ。「もうこの世に生きていないのではないか」と思っていたから、誰も周囲の人間を市橋容疑者ではないかと探るような見方をしなかったのだ。
ところが、整形外科医との協力で新しい指名手配の写真が公表されると、「えっ、彼は生きていたの?」「顔を変えてどこかに潜んでいるの?」ということになり、俄然周囲の人たちの見方も変わり、市民の通報もあって、あっけない逮捕となった。どんなに整形で顔形を変えても、たとえば耳の形とか目の表情とかは変えられないし、人としての本質は変えられない。

▼市橋の生き延びるための知恵
しかし、彼が何度も整形手術を重ね、容貌を変えているとは──必ずしも想定外のことではなかったけれども──やはりかなり意外なことではあった。だから「そんな金は持っていなかったはずだ」「誰か金を渡していたのか」という疑問も新たに生まれた。事件を起こす前、彼は半ば引きこもりのフリーターのような生活を送っていたようだけれども、彼に生きるための能力が乏しかったというわけではなかったようだ。いざとなれば建設現場の作業員をやって整形手術のための金を工面するような知恵までもあったようだ。惜しまれるのは、そういう保身の形でしか生きる知恵を発揮できなかったということだ。

▼自らの夢も才能も踏み躙って
彼に関する別の報道では、事件前彼は似顔絵のイラストが得意で、似顔絵を描いていろいろな外国人と当たりをつけていたことが報じられていた。そのイラストを見たが、素人目にも実にうまい。玄人裸足ではないかとさえ思える。彼はこの才能をリンゼイさんとコンタクトを取るための手段とし、彼女の似顔絵の余白に自分の名前と住所、電話番号を書き込んでいたらしい。こういった才能を彼は何とも悲惨な事件でドブに捨ててしまったが、もっと別の生かし方があったのではないかと思えてならない。
空手部サークルの顧問であった千葉大名誉教授の本山直樹さんの話では「千葉大園芸学部卒業後は、市川か浦安の辺りに住み、設計事務所でアルバイトをしながらデザインの実務経験を身につけたい、と話していた」という。その夢も自ら踏み躙ってしまったことになる。

▼両親が医師の恵まれた家庭の子
なぜこういう酷い事件を起こしたのか!? その核心は本人でなければ分からない。しかし、彼もまた悲劇の人物の一人なのではないか。生い立ちを見ると、彼の父親は医師で、母親は歯科医である。彼は幼いころから裕福な家庭に育っている。そして、中学・高校時代は何の問題もなく活発に過ごしている。高校では陸上部に属し、国立大理系を目指す進学クラスで明るく頑張っていたという。世間的な見方をすれば、順風満帆の人生であったように見える。一体、そんな彼に何があったというのか。

▼期待される人間になれなかった自分
ところが、そんな彼は大学受験に失敗する。浪人を経験し、都内の私立大二部に進学するも満たされず退学し、結局、22歳で千葉大園芸学部に再入学する。多分、千葉大園芸学部に合格したことを「ヤッター」とか「ラッキー」とか喜ぶ人間がいる中で、これを転落とか挫折と捉えるならばそれは本人の心の持ち方から来るものだ。それが彼にはなぜ引きこもるほどの挫折なのか。それは周囲から「期待される人間像」を自分が演じられなかったからではないか
先述したように、彼の父親は医師で、母親は歯科医である。当然、彼もまた医学部に進み、医師になることを期待されたことだろう。そして、彼も当然そうなるべく夢見て育ったことは想像に難くない。だが、現実は甘くなかった。残念ながら医者になる才能は彼にはなかったようである。そして、彼自身もまた自分の才能は別にあると感じていたのではなかったか。先の空手サークルの顧問の教授はそれにいみじくも触れていた。そして、とても残念な形ではあるが、リンゼイさんに渡した彼の描いたイラストがそれを雄弁に物語っているように私には思える。

▼子どもの独自性を認めない日本の親
ここからは彼自身の話というよりは日本の教育の話になる。日本の親たちは姿形が親に似るからか、子どもの才能や資質までも親と同じであると思い込みがちである。子どもを親とは違う独自の個性を持つ存在とは考えず、親と同じであろうと思い込む。もしそれが本当に親の思い通りであれば問題はないが、子どもが親とは全く異なる才能や夢を持っている場合には問題となる。子どもの人生が認められないばかりか時には激しく叱責され、その子の存在が認められなくなる場合さえある。「蛙の子は蛙」であることもあれば「鳶が鷹を産む」こともあり、一様ではないのが一般であると心得ながら、いざそれがわが身のことになると受け入れられない。もしかするとそれは赤い花の種なのかも知れないのに親は黄色い花の種であることを要求してやまない。そういうことも起きてくる。それでは子どもとしては立つ瀬がなくなる

▼理屈を超えた親子の繋がりが見えない
市橋達也容疑者の整形手術の話や逮捕のニュースが報じられた時、彼の両親がどのように反応されたかとても気になった。「できれば自分から出頭してほしかった」「捕まってホッとしている」「罪を償ってほしい」「極刑も受け入れる覚悟」(以上、父)「やっと捕まってくれたか」(母)などと言ったことが報じられている。これは極めて主観の領域になるが、取材記者は両親の印象を「淡々とした表情で話した」「悔しそうな表情で」などと評している。一方で「あくまで息子はかわいいと思っているが…」という声も紹介している。そこには犯罪者(容疑者)を子に持った世間一般の親の姿があるとも言える。
しかし、「しかし」である。自分も一人の親として言うのだが、そういう子ではあっても、そこには理屈を超えた親子の繋がりが見えるものである。ダメ親でありダメ息子であること、それであればあるほど、それでもその親の子でありその子の親であるという理不尽とも言える切れない絆が見え隠れするものである。ところが、この親にはそれが見えない。逮捕された後、市橋容疑者が記者に問われて吐いた一言が印象的である。「医者にはなれなかった」と。彼は両親に精神的に捨てられた子どもだったのではないか。

▼気付いた時はもはや変えようのない自分
子どもは基本的に育てられたように育つ。育てられなかったようには育たない。そして、小さな子どもは自らそれを選べない。まだ自分で判断する力もない。子どもはただ与えられた環境の中で受容的に育つしかないのだ。それに、子どもにとっては親の期待に応えることが最大の喜びでありあり励みである。
しかし、大事なことは子どもは親の庇護下で育つが決して親の付属物ではないということである。やがて子どもは自らの独自性を発揮していく。ところが、同時にこれまでに意識的にせよ無意識的にせよ、育ちの中で自分を形作ってきたものを簡単に否定することは出来ない。良いにせよ悪いにせよ、それが今まで承認され良しとされてきた自分なのだから。「しまった、こう生きるんじゃなかった!」と気づいた時には、もはや自分では変えようのない自分が出来上がっていることを知るのだ。
教育の持つ怖さ、恐ろしさの一面である。

▼若者の無念の告発の声を聞け
この一種猟奇的な殺人事件には常人の想像を超えていることがある。だから、この市橋容疑者の事件の場合もどこまで核心に迫れるか分からない。しかし、これを子育て・教育的な側面から考察することも意義がないとは思えない。特に今、高学歴で一見高思考の若者の意外なほど浅はかな犯罪が頻発している。これには子育て・教育に関する共通項があると私は見ている。
もっと子どもたちが一人ひとり独自の個性を認めてもらえるなら、そうして偏狭な枠に閉じ込める教育観から自由にさせてもらえるなら、子どもたちはもっと自由に自分の道を自信を持って歩んで行けるのではないか。
その意味で、子どもたちの悲惨な事件の数々からは、それによって決して正当化は出来ないけれど、それを引き起こした子どもたちの、自分で人生を切り開くことの出来なかった無念の懊悩や呻吟が聞こえてくるように思えてならない。もしかしたら、この社会に居場所を見出せなかった若者の引き起こす事件の数々は、この社会の側に身を置く私たちはへの身を挺しての告発かもしれないのだ。

※「いい子の非行」については、
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/iikonohikoukara.html
を参照してください。

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高校無償化の前に義務教育費無償の徹底を(1)

2009年11月10日 | 教育全般
高校無償化の前に義務教育費無償の徹底を(1)

▼国民は民主党に希望を託した
 民主党が政権を取り、国民の間に「何かが変わるのではないか」という希望や期待感が漂っている。戦後ほぼ独裁的な長期政権にあった自民党の時代にはほとんどなかった空気である。これは日本の将来に向けては好ましい現象だろう。しかし、ノーベル平和賞が米国のオバマ大統領に決まり、実績よりも希望への賞だと評されたように、民主党への国民の支持も民主党が何かを為したからというのではなく飽くまでも希望的観測に基づくものである。
 八つ場ダムをはじめとする全国のダム建設や郵政民営化についても「見直し」であり、高速道路無料化や子ども手当てにしても国民に公約したマニフェストとしての政策での実現が評価されてのことであり(中には反対運動の激しいものもある)まだ何かを為したことが評価されたわけではない。

▼国民は教育の変化を期待した
 教育に話を絞れば(民主党の陰に日教組の強力な後押しがあったと言われている)、教員免許の更新制の廃止、全国学力テストの見直し、高校無償化や子ども手当ての実施など、かつて教員たちが自民党政権の方針に反対して打ち出したものや、経済格差が教育格差に連動する中で子育て中の親たちが望んでいた政策であるものが多い。民主党の政策がそういう国民の支持を集めたことはまず間違いはなかろう。

▼教育者の言い訳が正当化されかねない
 ところが…である。自民党との政権交代や民主党主導の政治を待ち望んでいた人たちの願いがこれで十分に叶えられたかというと必ずしもそうとは言えない。今回の政権交代で日教組関係者の力が増したのだとすると、逆に教育分野では今までの国民に対する言い訳がそのまま正当化されてしまうようなことが起こらないとも限らない。つまり、新政権によって他の分野では国民の声に基づく改革が進むのに比して、教育分野では逆に停滞しかねないのである。

▼日本の教育はこれで大丈夫か
 子ども手当てや高校無償化の施策は新政権らしい斬新な政策である。が、これにしてもOECD参加国の教育政策と比較したならば、遅きに失した政策の実現に過ぎない。今までの自民党には、将来に向けた国家の展望も教育が国家百年の大計である認識もあるようにはまるで見えなかった。ただ為政者にとって政権を維持するために都合のいい従順な国民を育てるための教育をしているように見えた。では、民主党の新政権になって、日本の教育はこれで大丈夫だと言えるようになるだろうか。

▼教育行政の不登校対策は疑問だらけ
 何かの縁で、月刊の専門雑誌の発行やフリースクールの設立を通じて、ここ15年ほど不登校問題に接してきたが、その間教育行政でどのような変化があったかというと、平成4年の文部科学省の報告において,不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでもおこりうる」と認めたこと以外、何の進展もなく来たように見える。そして、「不登校対策」と称して見当違いの方向に多額の資金を無駄に湯水のように注いできたという印象が強い。一体、それらの対策でどんな成果が上がったというのか。

▼不登校生が求める場所に支援を
 もし、──これは今のところ全く架空の話だが──それらの資金が行政や学校の不登校対策費に回されるのではなく(その中には、相談室登校や適応指導教室、カウンセリングなどの多くが含まれる──これらの機関は結局は不登校生をダメ人間扱い視する))、不登校の児童生徒が本当に救いを求めている機関(フリースクール等の文部科学省の指導から自由な学び場など)などにその何分の一かでも注がれていたならば、不登校を取り巻く状況は今とはかなり大きく変わっていたのではないかと思えてならない。

▼目先ではなく根幹からの教育の変化を
政権が交代して民主党政権が誕生し、八つ場ダム見直しなど矢継ぎ早に新政策が打ち出されているのは歓迎である。教育に関係する法案も子ども手当てや高校無償化、給付型奨学金など経済格差が教育格差に連動している今、マニフェストに掲げられた幾つかの子どもの教育を支援する法案はぜひ実現してほしいと思う。だが、そういう口当たりのいい目先の変化だけを見て、日本の教育が本当に根幹から変わりつつあるのかというと甚だ疑問である。

▼県教委と市教委の不登校への対応の差
今回、私たちは、県には一昨年訪ねているので、今年度はさいたま市の教育委員会に出向いて、不登校を抱えている家庭の窮状など様々な問題を現場の声として伝えに行こうと思った。一昨年のフリースクールとその親の会の訪問で、県教委の場合は少なくともその時点で出来るだけの対応をしてくれたと思っている。その後、県内の親御さんを招いての不登校問題での協力の要請はその現われでもあったろう。では、さいたま市教委の場合はどうか。そこには呆れるような対応が待っていた。

(その2へ続く)

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同質性を求める学校と個性を尊重するフリースクール

2009年11月02日 | 教育全般
同質性を求める学校と個性を尊重するフリースクール

▼同質性を求める学校という空間
日本の学校という空間は一般に、一斉授業形式が象徴するように、生徒に同質性を求める場所である。今は形式的には追放されているが、元々は偏差値的価値観が大手を振るっていた場所である。これは個性尊重の空気が社会に広がりつつある今も、学校では本質的に変わっていない。成績の評価に絶対評価の物差しを導入したというが、実際は相対評価の変形であるに過ぎない。

▼観点別評価の主観性・恣意性
たとえば、学校での「観点別評価」について、学習指導要領の視点からは次のように述べられている。「実習を評価するときには、実習の成果だけでなく実習の過程における生徒の努力も評価することが大切である。」(学習指導要領解説 情報編)。さらにこういう但し書きもある(別紙第3)。《評定にあたっては、ペーパーテスト等による知識や技能のみの評価など一部の観点に偏した評定が行われることのないように、「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現」、「知識・理解」の4観点による評価を十分踏まえながら評定を行っていくとともに、5段階の各段階の評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くことのないよう学校として留意する。その際、別添3に各教科の評価の観点及びその趣旨を示しているので、この観点を十分踏まえながらそれぞれの科目のねらいや特性を勘案して具体的な評価規準を設定するなど評価の在り方の工夫・改善を図ることが望まれる。》

▼学校は教師が主役で生徒の評価権を握る
ここからも察せられるが、学校という場は、一見個性を尊重するような姿勢を見せながら、最終的にはそれを発揮する行為を認めない場である。それが上記の「観点別評価」に基づくところの悪名高い「内申書」の評価に繋がっている。では、100歩譲って、それが正確で客観的な評価になっているだろうと認めたいとしても、なんのなんの上記の表現にもあるように、「評定が個々の教師の主観に流れて客観性や信頼性を欠くこと」が十分にあり得るし、実際にそう運用されているシステムなのだ。「生徒にとって都合悪いことは書かない」というのは言い訳に過ぎない。第一、言うまでもなく、公文書に恣意的なことを書いていい筈がない。こうして、学校は教師が主役であり、場合によっては生徒をいか様にも料理できる生殺与奪の権を握っている場なのだ。

▼「いい子」は学校教育でつくられる
だから、生徒やその保護者は学校で「よい子」を演じることに汲々としている。こういう空間では、教師に好感を持たれる振る舞いを出来る者がよい評価を得る。そのためには、本来の自分を殺さねばならないことも出てくるのだ。今問題なのは、昔からいるどう見ても不良であるいわゆる「悪い子」ではなく、学校でもどこでもいい印象を与えるように振舞おうとするいわゆる「いい子」なのだ。「いい子」であろうとして、結果的に自分づくりにお留守になる。そして、ある時暴発する!今、そういう子どもが増えている。学校で教師からいい子の評価を得ようとする行為がそういうことに行き着く。こうして問題児になる「いい子」は学校で作られるのだ。
(私たちのNPO法人の理事を務める佐々木光郎氏(現静岡英和学院大学教授)が『いい子の非行』というタイトルの本を出版されたのも、そういう学校教育の下で生まれた子どもたちが対象である。佐々木氏は長年家庭裁判所調査官として家庭問題や子どもの非行の問題に関わってこられた方)
そもそも成長段階の途上にある義務教育下の子どもたちに「いい子」か否かの評価を下すことが必要なのだろうか。

▼習熟度別クラス編成は教師のため
それだけではない。学校は生徒のためではなく、教師にとって都合のいいことを次々と決め事とし、成文化したり不文律かしたりする。どう処理するかは教師のさじ加減一つである。たとえば、「習熟度別クラス編成」。もしかするとこの方式は子弟を進学塾に通わせている教師が思いついた発想かも知れないが(独創的な発想を教師が思いつき実行するとは思えない)、これは有名進学校受験を目的とする進学塾で教師が最も効率的に生徒を指導しやすいシステムなのだ。

▼習熟度別指導は教育に有害
若い時に受験進学塾で御三家目標の進学指導をした経験からもよく分かっているが、これは上位クラスには入れないいわゆる「できない子」にとっては最悪のシステムなのである。出来が悪かった生徒は必然的に上から落ちてくる(そうならないために生徒は頑張る)が、そもそも出来ない生徒が頭が良くなって上に行くというシステムではない。下位の生徒は上位の生徒の勉強をしていないのだから。それでも上に上がることがあるのは、成績によって循環させなければならないシステムであり、上位クラスに空きが出来たからに過ぎない。(習熟度別クラス指導が学校教育の場では有害であり破綻しているのは、フィンランドメソッドなどと比較してみれば良くわかる)習熟度別指導を叫ぶ教師は学校を収容所のような施設と考えており、官吏ではあっても教育者ではない。

▼個性のある子が尊重される教育を
このように、学校では現場を統括する教師が主役を演じ、指導しやすいシステムが組まれている。だが、それは決して生徒のためではない。まして生徒の個性を尊重するためでは決してない。生徒の個性は学校教育の場ではむしろ疎んじられる悪であり、決められた枠を超えて発露すべきものとは看做されていないのである。だから、そういう個性のある子には学校という場はとても住みにくい。息苦しい。そして、場合によっては、「何らかのきっかけ」で学校に行けなくなってしまう。「何らかのきっかけ」と言ったが、それは往々にして同質性を良しとする教師やそれに従うことを良しとする生徒によってもたらされる。

▼学校は体裁・面子で登校刺激をする
生徒が不登校となったりフリースクールに行くとなったりすると、学校側は慌てて登校刺激を活発にし(そうなるまでは放って置いたのに)、あたかもその生徒を大事に思っているような素振りを見せるが、それは不登校の存在を認めたくないという学校の都合や面子のためであって、その生徒自身を思ってのことではない。学校というところは、何かの事件でも起きない限り「何もないいい学校」「いい生徒」ということになる。そして、生徒が学校に来ないのは、その生徒に問題があるからということになる。それが今の学校の現状である。しかし、それを問題と考えるか発達課題と考えるか、その差はとても大きい。今の教師に子どもの個性を尊重する教育を期待する方がどだい無理なのかもしれない

▼「コンクリートから人へ」の教育の実現を
政権交代によって民主党政権が誕生したが、この図式がはたして民主党の「コンクリートから人へ」の政策転換によって変わるのだろうか。
私たちフリースクールの親たちは、今月、教委に「不登校生の親たちの声」を届けに行く。

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