改めて問う「学力とは何か」
▼読売新聞の「学力考」の連載について
教育界では相変わらず不毛とも言える教育論議が盛んである。とりわけ「ゆとり教育」とか「学力低下」の論議がかまびすしい。最近、読売新聞が「学力」考の連載を始めたのもその流れに沿ったものだろう。連載の最初の記事が代り映えのしない旧態依然の論調に近いものだったので(多分、在り来たりの思考で固まってしまった記者の作文ではないかと思われたが)、期待薄かな…とも思ったが、それを超えた取材記事が載ることもあるだろうと考えてしばらく付き合うことにした。
▼「学力とは何か」を論じることの意味
ところで、いつも不思議に思うことは、教育や学力を論じる際の大前提とも言える事柄「学力とは何か」ということが何も論ぜられぬまま議論が行われていることである。あたかもそれは言わなくても分かることだとでも言うように。しかし、そうだろうか、これは日本人特有の腹芸に似ていて、同じように考えているように見えて実際は全く別のことを考えていたりするものなのだ。そのことはやはり、言葉に出して見て初めてはっきりと分かることである。
▼四人四様の「学力とは」の考え方
実際のところ、読売の連載もずいぶん力こぶを入れて書いているのは分かるけれども、そんな思いを拭えないままチラチラと目を通していた。するとようやく2010年1月15日の朝刊に「学力」考第一部の番外編として「学力とは 私の見方」というタイトルの記事が載っていた。登場者は東京大学長・浜田純一さん、昭和女子大学長・坂東眞理子さん、ノーベル物理学賞受賞者・益川敏英さん、作家・鈴木光司さんの四人である。(これは私の経験からの勝手な判断だが、これらの記事はご本人が筆を取ったものではなく、電話取材のようなものを取材記者がまとめたものではないか?)面白いことにここでも「学力とは 私の見方」とあるように、はじめから「学力」というものの統一的な見方考え方を求めていないということである。だから、四人四様の意見であり、それぞれに個性があって面白いが、一つの集合で括れるようなまとまりはどこにもない。
▼共感出来る3者の教育・学力観
その中で、浜田純一さんの「学力は、知識だけではなく、知識を身につける力と使いこなす力を合わせたものだ」と言い、使いこなす力には表現や創造が含まれるとする点で、私が日頃考えている論点に一番近いかなと感じた。益川敏英さんは「大切なのは、知識で遊ぶ、勉強で遊ぶことだ」といい「必要なのは、子供が夢中になれる、面白いと感じられる学習内容に変えていく努力だ」と言い、これも「遊びの教育学」というモットーを掲げ、フリースクールで日々子どもたちと接していて感じる実感と符号する言葉である。鈴木光司さんは自身が塾を経営していたことがあるようで、「大切なのは知識や経験を再構築して、自分の答えを出せることだ」と言い、『『過去問』や人の意見に従っているだけではいつか前に進めなくなる」と言っている。学校の教育観に洗脳されている生徒や親には分かりにくいことかもしれないが、「世界の歩みに貢献する」と自負する作家ならではの正鵠を射た言であるように思えた。
▼日本の学校教育は小中の義務教育から破綻している
その点、あえて正直に言うが、坂東真理子さんの言葉が一番つまらなかった。全く感性を刺激されないのだ。しかし、その中でただ一つ注目したのは──これも私が日頃から言っていることの一つだが──国家試験型の高卒認定試験へ言及していることである。実は私は日本の教育システムを破綻に導いたのは文科省を頂点とする学校教育システムであり、「学力低下」の問題もここから生まれていると思っている。そのための処方箋として国家認定の高卒試験を導入しようというのである(現在、高卒認定試験はかつての大検に代わり、学校を離れた子どもたちの救済システムとして機能している)。ただし、坂東さんのように高卒認定試験を行えばいいというものではなくて、今日の学校教育はすでに小中学の義務教育から破綻しているのである。高校教育の破綻はその延長線上にあるに過ぎない。ここが肝要だ。
▼義務教育は子どもを学校に収容するためのシステム
日本の義務教育は依然として学校神話と学力神話で成り立っているが、それらがとうに破綻してしまっていることは、公立学校の現場で仕事をしている教員であるならば先刻承知のことであろう。だから、小中高の学校の教員たちは我が子にはなるべく公立学校に進まないで済むように、進学塾に通わせることに熱心なのだ。実際のところ、日本の学校というところは子どもたちに学力を付けさせたり社会性を身に付けさせたりするところではなくなっている。ただ義務教育の年限の間、子どもたちを収容するための施設として機能しているだけである。だから、その年限が過ぎれば子どもたちは学力を習得したか否かにかかわらず卒業ということになる。「『学力がついていないので卒業させるわけにはいかない』と言いたいが親御さんが認めてくれない」という声も一部にある(不登校の家庭の場合にこういう事例がある)が、ほとんどは単なる学校長の逃げ口上に過ぎない。実際のところは、「学力がないから」と学校に居残ってもらっては困るのである。
▼何々学校卒をやめて国家認定の卒業試験の導入を
そのように破綻した日本の学校教育を立て直す処方箋は何か?その一つは何々学校卒という学校のステイタスとかブランド志向を捨て、小学卒業認定試験、中学卒業認定試験、高校卒業認定試験を国家試験として導入することである。あの全国学力テストなどという調査に莫大な税金を無駄に投入するくらいなら、こういうシステムを確立するために用いる方がよっぽど日本の教育の再建に貢献することだろう。それに懸案でもある全国に十数万人にも上る不登校の減少にも貢献するはずである。思うに、現在の不登校生の多くは今の学校教育への違和、異議申し立てから生まれているからである。だから、教育のシステムが変われば不登校生を生み出す土壌もまた変わるはずである。
▼教育を国家の手から民の手へ返そう
近代国家が生まれ近代教育が成立したことで、教育の機会均等・義務教育制度が普及し、教育権や学習権の考え方が定着しつつあることの意義は大きい。しかし、国民の教育が国家の専権事項のようになったことで失われたことも少なくない。とりわけ、教育が民の手を離れ、国家の維持推進と為政者の都合によって左右されるようになったことによる損失は数限りない。そろそろ「民のものは民へ返す」ことが必要なのではないか。どの国の歴史を紐解いても似たような結果になると思うが、もともと教育は民のものであったのだ。国家の教育が存在する前から、民による教育活動は脈々と続いていたのである。日本においても民の手から奪うようにして始まった日本の国家教育は高々百数十年の歴史を持つに過ぎない。
▼子どもと向き合い、子どもの声を聞くこと
再び最初に戻ろう。改めて問う。「学力とは何か」。教育を受けるのは誰なのか。教育の目的は何か。──一見馬鹿らしい問い掛けと思うかも知れないけれど、もう一度こういう根幹の部分に立ち返って日本の教育を考え直すことが必要なのではないか。百家争鳴、大山鳴動はすれども、成果らしい成果がどこにもないのが近年の教育の現状である。教育関係者も他の大人も、子どもに向き合うこと、子どもの声に耳を傾けることを忘れて、互いに口角泡を飛ばし合っている。とても不思議な日本の教育状況である。
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