「個人の偽装献金」から思うこと
▼マスコミの偽装献金報道
「個人献金とは故人献金のことか」とマスコミが言っている。いわゆる鳩山首相の偽装政治献金のことである。このことについては今朝(12月24日)の読売新聞でも「民主イズム 首相作った鳩山家の富」というタイトルで克明に追っている。この読売新聞は主筆の渡辺恒雄氏の民主支持?(個人的には、中国・韓国・皇室外交に対する小沢一郎氏の一連の行動や発言を支持しているように見える)にかかわらず、マスコミの本能なのか、判官びいきもあるのか、民主党を裸にすることに熱意を燃やしているように見える。その辺が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類か報道の力を笠に着てあることないこと針小棒大に語るあるマスコミとは違って面白くもある。
▼金のかかる伝統的政治からの脱却を
さて、その読売の記事を読んでも改めて政治とは金のかかるものだと考えさせられる。しかし情報の伝達も新聞テレビに代表されるマスコミによる「お墨付きの正しい情報」の一方向の伝達からインターネットに象徴される双方向の時代になった今、こういう金のかかる政治のあり方も変わらねばならないのではないか。それに、日本も一翼を担う「お上の言うことだから」「長いものには巻かれろ」式の政治風土が支配する儒教文化圏においては、まず日本が西欧文化思考の洗礼を受けたとはいえ、民主的な政治形態が根付いているとはとても言えない。
▼国民の側を向いたインターネット時代の政治
しかし、インターネットや携帯電話などの双方向メディアが行き交う時代に、それでいい筈がない。国民の声は現場にあるのだ。もう何年も前になるか、それまでは定職もなくほとんどフリーターに近い生活をしていた若者が一念発起して市議選に挑戦し、期間中自転車に幟を立てて市内を練り歩いていたのを思い出す。そして彼は見事に当選し、その後も再選を果たし、現在は行動・風格ともに見事に市議たりえている。アメリカの大統領選でオバマ氏が知名度においても資金力においても圧倒的に優位であったクリントン氏に勝利したのもインターネットによる草の根民主主義の行動力と「塵も積もれば山となる」資金力によるものだった。もしかすると欧米以上にインターネットや携帯電話に入れ込む日本にもそういう可能性はあるのだろうか。
▼個人献金の集まらぬ日本の政治風土
鳩山氏が政治家として新鮮に映ったことの一つに、日本の政治家には珍しい時には「宇宙人」とも揶揄される明晰な論理的思考力の他に(その分、現実への対応力が育ちからしてもイマイチか)、「政治とカネ」の癒着からの脱却の手段として企業献金に頼らず個人献金に基づく政治を志向したことがあった。鳩山兄弟はいわゆる大資産家の2世3世のボンボンには違いないが、政治に取り組む姿勢が違うと思わせるものがあった。だから、鳩山氏ならその知名度からしてその個人からの集金力も相当なものだろうとも思ったものである。ところが、実際には個人からの献金は限られたもので、個人献金ならぬ故人献金の偽装工作を行い、大部分は彼の母親から援助を受けたものであることが明らかになった。このことには様々な意見があろうが、それは他の人に任せよう。それよりは、そんな鳩山氏にさえ微々たる個人献金しか集まらない日本という国の政治風土の貧しさに想いを馳せる。
▼善意を寄せる市民と完全無視の教育関係者
何を隠そう。私たちNPO法人教育ネットワーク・ニコラの運営するサイト「いきいきニコラ」にも個人献金(寄付金)呼び掛けのコーナーがある。みなさんの「善意と浄財」をお願いしますと。が、残念ながら「ナシのつぶて」である。そういう中で毎年本当の浄財を寄付して下さるのはかつて私どものフリースクールに通い、今はめでたく目的の大学へ入学し学生生活を謳歌している大学生のお祖母ちゃん。その子のお母さんがいつも暮れに持ってきてくれる。その他は地域のメセナ活動に力を入ているある企業の寸志のみ。たぶん、国家保障の無償の義務教育とはいえ学校を離れた子どもたちには一切の教育費援助はなく、フリースクールの活動の窮状も知っているであろう学校教育関係者からの心遣いというものも今まで一度もあったことがない。自分は公立学校で給料を稼ぎ、子どもには「こんな公立学校に来るな。私立学校に入け」と進学塾の勉強に駆り立てていてもである。
▼双方向の情報システムを現実の社会変革に
この国は、政治も教育もどこかおかしい。まともではない。不平を言い、批判はするが、誰も自らやろうとはしない。やろうとする者の足は引っ張るけれども、手を貸そうとはしない。日本の大部分の資産家は自分の財産の目減りには敏感だが、その資産を社会に還元しょうとする発想をまるで持っていない。現在、市場を巡回しているのは貧乏人の哀れなカネである。これでは日本の経済も政治も好転するはずがない。遂にインターネットや携帯電話の双方向社会がやって来た。が、日本の場合は結局のところ軽薄短小の社会に終わってしまうのか。権威をバックにしたマスコミの報道とは違う世論を形成したのはネット族の功績だが、ネットを住処とする限りにおいては現実社会に何の影響力も及ぼさない。せっかく手に入れた双方向の情報システムを現実の社会変革に役立てる手段はないものか。