ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

フッと一息

2007-05-24 09:07:09 | カトリックの信仰
 日々が忙しく感じるのに、それじゃぁ何をやっているの?って改めて聞かれると応えに窮するような気もする。

 家を留守にすることが多い。昨日携帯にかけてきた友達
「今話していい?」
「ウン、出先だけど大丈夫」
「貴女が出先じゃないときある?(笑)」と。
『日曜の「主の日」を過ごすことが中心!』『日々教会中心の生活』といえば信仰者としてはカッコイイ(?!)かもしれないけれど、現実は断りきれない用事に追われているという状態かもしれない。

 入門クラスを持って7年目、わが教会には司祭二人、助祭それぞれがクラスをひとこまずつ持っている。彼らはプロ。そして私は火曜の夜と水曜の昼にクラスがある。このふた駒の準備を気持ちの片隅にいつもおいている事になる。そして、日曜の晩から火曜の午前中にかけては具体的にまとめ始める。最初は聖書を引っかかるところに心をおきながら、繰り返し読む。その週のテーマのようなものが浮かび上がってきたら、具体的にまとめ始める。水曜のクラスが終わると一時解放されたくなる。ホ~っとできる少ない時間である。

 事務スタッフ7人集の一人。ポランティアで当番制で事務仕事をお手伝いし恥じ笑めて二年半、主な仕事は『留守番』のはずだったのにやりだすと細々あるもの。その当番を土曜にやると、土・日・月(会計事務)・火・水と続く。教会漬けは良くないなぁと思いながら、この頃孫が生まれたり、孫が来たり、上京したり積み残しの気になっていたPC作業を昨日のクラスのあとにした。結局、午後の半分は使ってしまった。それでも気になってしたことが片付くのは気持ちがいい。昨日の当番の友人とどうでもいいような話をしながらくつろいだ時間になった。

 信徒養成講座が月1回開かれて、そのメンバーでもある。ゼミ形式ということで発表するときは勿論、参加するときは自分なりに読んでいかないと身にならない。昨日の夜はテキストに対峙した。途中で眠くなって転寝、明日にしようかと思ったけれどシャワーを浴びたあと気分は一新、結局日付が変わる頃まで準備。

 そしてもう一つ、毎日のように教会に行くことになっている大きな理由は修道院(住人4人)の夕食作りの仕事。できるときにだけでこちらの都合が悪いときには作らなくてもいいということでお手伝いを始めたのはかれこれ9年?8年?でしょうか。はじめは週に一回か二回、家で作ったものをお弁当形式で持っていっていた。いつの頃からか長野にいるときは毎日になり、修道院の台所で作ることが多くなっていた。料理を作ることそのものは全然苦にならないのだが、教会にこない日が一日もないというのは私にとっては異常事態ということで今は週二回は作らない日を設けている。それでもいろいろなことをこなしながら献立を考えて材料を買って、料理の段取りをして…、最後に『フゥ~一日終わり』と帰路に着く。(たまにその後夜の自分のクラス、神父様のクラスに出席することもありますが)夕食作りの間に夕ミサにでる時、出ない時、それは体調と気分によるのですが、夕ミサを優先するべきか迷うところです。でも、できるときにというのは気持ちが楽です。上京時も来客時も失礼して、皆様それぞれのお食事をしてくださっていますので。(長期にお休みしたあと、嬉しそうになさるお顔に負けます(^^ゞ、もう少し手伝わせていただこうと思える顔です)

 料理教室は月に1回、上京が原則月に一回10日ぐらい、他にも教会の会議にでなくてはいけないときもあり、気掛かりな友人を訪問することもある。ちょっと一息は気を許せる友人とのティータイム、一人ぶらぶら貴重な家での時間。意識してそういう時間をとらないと身体に澱の様に積もる『なまりの塊』。いい季節、一息を一杯とろうっと。