難攻不落の名城と言われた熊本城が、熊本地震で大きな被害を受けた。石垣が崩れ、二つの櫓(やぐら)が倒壊、天守閣のしゃちほこが崩落……。目を覆う惨状に「修復できるのか?」と不安が募る。そこで、戦国時代より石垣を築き上げてきたプロ集団「穴太衆(あのうしゅう)」の末裔による建設会社、粟田建設(本社・滋賀県大津市)の代表に復旧へ向けての課題を聞いてみた。



 穴太衆とは?―― 戦国時代以降、石垣のある城が一般的となり、穴太衆は織田信長の安土城をはじめ、 豊臣秀吉、徳川家康ら全国の大名から石垣づくりの要請を受けた。彼らが石の組み方を考える際には、石の集積場に行き、たくさんの石の周りを1、2日かけて周りながら、ひとつひとつ違う石の性質を把握し、頭の中に配置を組み上げるとか。「石の心の声」を聞くことができる職能集団である。

 穴太衆積の技法は今日まで、口伝で継承されている。秘伝というよりは、文字に表現することが難しいから。穴太衆は石の目利きであり、独特の空間認識能力を備えた職人の集まりなのだ。粟田建設は穴太衆の末裔であり、安土城、彦根城、竹田城跡などの石垣修復を手掛けてきた。巧みな技術で、現代建築への応用にも貢献している。 城づくりの名人、加藤清正が17世紀初めに建築した熊本城は今回の痛手から修復できるのか? 第十五代穴太衆頭の粟田純徳社長に、ニュース映像などから、石垣の修復とその難しさを類推してもらった。

* * *

「下の方が緩やかで、上部は垂直に近くなる“武者返し”。あの勾配を再び出すのは相当、難しいでしょう。また、崩れてしまっては、積んであった石の元の配置が分からない。……石ごとに刻印があり番号が分かる場合もあるけれど、すべては無理でしょう」

 清正自慢の「武者返し」が、再建では高いハードルとなるようだ。バラバラに崩れてしまった石は、過去の写真や映像などを手掛かりに、積み直すらしい。3月19日に放送されたNHK「ブラタモリ」の熊本編なども貴重なヒントになるとか。とはいえ、石垣の全ての部分の写真や映像はあるのだろうか? ほかにも課題はある。

「上に建物が載っている石垣は、重機を使えないため、崩れた個所や、傾きを少しずつ直していかねばならない。石垣以外の部分が二次被害を受けないように配慮しながらの難工事となります」(粟田社長) 熊本城は西南戦争(1877年)で一部を残して焼失、1889年に起こった熊本地震でも石垣の一部が崩れた。櫓、城門、塀はいずれも重要文化財。中でも倒壊した櫓は、清正が築城した当初から残る建造物である。

 粟田社長は、「ニュース映像などを見る限りでは」と前置きしたうえで、「石垣は何度も修復を重ね、ある時期に直した箇所がごっそり崩れ落ちた可能性が高いのでは? 穴太衆が関与していない工事もあるはずです」と指摘した。言外には「穴太衆の技なら、一部の石が落ちても石垣は崩壊しない」との自負をのぞかせる。

 しかし、過去の工事の詳細は分からない。一般的に、昭和20年代から30年代、つまり戦中・戦後の混乱期に行われた修復は、どの都道府県でも資料が残っておらず、経緯は不明。再建・改修を重ねて今日の姿になった名城ほど、技術的には“つぎはぎ”なのである。

「費用も期間も、どれくらいかかるか、想像もつかないレベル」と粟田社長。今後、修復を担う業者は決まっていくことになろうが、「複数の企業が携わり、行政が主導する一大プロジェクトとして修復は行われるでしょう。かなりのお金と日数が、かかるはずです」とのこと。

 粟田社長によると、過去に築かれた城のなかには、崩れた石垣を覆うようにして、外側に石垣を積み、上物も大きくした城もあったらしい。しかし、「重要文化財となれば、そうもいかないですからね……」とポツリ。聞けば聞くほど、熊本城復旧の道は険しそうだ。