日本は資源のない国であり、人の知恵で経済を維持していかなければならない国です。すなわち新しい価値を生み出せる人々が育つようにしていくことが求められています。そのために必要なことは、自主的で個性的な生き方ができ、生き生きと自分の能力を伸ばせる人々が育っていかなければなりません。いわゆる自分の頭で考え、判断し、行動できる人でなければ、新しい価値を生み出す人材は育たないということです。
それではそのような教育が日本で実現しているでしょうか?残念ながら、日本の教育は、主体性を育てず、個性も育たず、意欲の低い、しかし協調性があり、決められたことはきちんとこなす、いわゆる日本人的な特性を持った人間教育がなされてきています。
このことは世界で行われる学力テストの結果に如実に現れています。2012年のOECD国際学力テストで、日本は数学的リテラシー、読解力、科学的リテラシーの分野で順位を上げたとされているのですが、意欲の点では最下位に近い状況にあり、このことは国際学力テストでずっと同じ状況が続いているのです。
このことは何を意味するかと言うと、学ぶことに意欲が持てない、要するに主体的に学んでいないということを示しています。(検索してみると分かりますが、このような見解の記事が見えなくされているように、操作もなされている可能生が高いです)
このことは先にも示した日本という国の教育の在り方として、非常に大事な点が、なしえていないことが継続していることを示しています。主体的に学べずに、意欲も持てないが、点数を取る学力だけはある。その点数を取るテクニックの教育に少し時間を増やした結果、学力が上がったということであり、主体的に学ぶという点は全く改善されていないと言ってよい状況です。
日本人の特性とされる、主体性はないが協調性はあるという性格は、本当に日本人の特性なのでしょうか?
私は40年間の教員生活の中で、この日本人の特性は実は、意図的に官僚や為政者が作り上げてきたものだと考えるようになりました。アマラ・カマラのたとえ話を持ち出すまでもなく、人間は教育でオオカミにもなりえるのですから、協調性はあるが主体性のない、自分の頭で考え、判断し、行動することが不得意な人間は育てられるということです。
要するに国民を自分たちに都合の良い、統御しやすい性格に育てようとする意図が間違いなく働いていると思われます。
なぜなら欧米の国では、国民を強く育てることが、国民の意思として貫かれていて、小さいころから主体性、個性を育てることが意図的になされていることは、欧米の教育の紹介でよく知られていることです。
ところが日本では、そのような教育はなされていません。主体的、個性的な教育の必要性は建前的には言われていますが、実質そのような教育はなされず、国際的な学力テストでも10年以上前からそのことは指摘されてきていますが、主体性や個性を育てる教育は実質回避されたままです。
このような教育によって、日本の国民は、官僚や官僚たちとつながる為政者たちにとって、とても御しやすい国民に育ってくれたのでした。これだけ福島第一原発事故で、国土を放射能で汚染し、人々の生活を破壊し、放射能にまみれた地域に人々を留め置いても、責任官庁が打ち壊しを受けることもなく、誰も責任を問われません。
安保法案も半数以上の国民が反対し、多数の国民が国会に詰めかけて、また全国各地で反対の声をあげても、強行採決で押し通してしまう内閣が40%台の支持率を維持できるという、本当にありがたい国民だと思われます。
教育が人を作るのです。教育を支配する人たちにとって都合の良い人が教育によって作られているのです。その教育が日本の人間力を高めるかどうかは、二の次であり、ともかく人のいうことはよく聞き、言われたことには従う、協調性のある人間教育が優先されてやられてきました。
自主的で個性的な、かつ自分の頭で考え、判断し、行動する自立的な人間はなるべく育たない教育が意図してやられてきたと考えるのが正しいと思います。
人間として基本的に重要な主体性や自立心が備わらずに、意欲を持って学べないという、欠陥教育が何故続くのでしょうか?実はここにも日本の教育の結果が反映しているのです。民主主義の国が正常に機能するには、国民の政治参加が不可欠です。国民が行政の在り方に関心を持ち、その方向性について、意見を言い、それを反映させていくことを求めて行くことで、行政を国民が動かす仕組みが正常に働くのです。
従って教育でも、主体的で自立的な教育の上に、政治参加の必要性や行政に関する知識を学んでいくことが必要ですが、そのような教育が積極的になされているとは言えません。先ほどから見ているように、自主的、自発的教育は封印されてきたと言ってよい状況なのですから。
そういう点で日本では、国民の中から現在の教育では、意欲の持てない、潜在力を引き出すことのできない教育になっているのではないかという批判が高まらなければならないところですが、そういう声はほとんど聞こえてきません。行政にお任せ主義になってしまっています。これもこれまでの教育の結果、そういう問題点があること自体に対する認識も低く、かつ問題点の指摘をしていくことの必要性も認識されていないのだと思います。お上にませれば間違いないという認識です。
また私の経験では、教育関係を担当するマスコミ記者は、先に示した国際学力テストの結果、意欲の点で大きく問題が生じていることを決して大きく報じることはありません。なぜかはお考えください。
このように考えると、日本人は官僚の奴隷として育てられているということができるのではないかと思います。少し極端な言い方に聞こえるでしょうが、最近山本太郎参議院議員が街宣で、国民が奴隷状態に置かれていると、ニュアンスは違いますが、そういうことを言っていたように、客観的にはそういう言葉が当てはまるのかと、山本議員もそういう発言をしているのを聞いて思ったところです。
奴隷にはお上が施す教育の在り方に口をはさむことなどできない。彼らがこのような意識でいることは上級教育官僚に接したことがある人なら、感じ取ることができるはずです。
日本の現状を見る時、官僚にとってこれほど都合の良い状況はないのではないかというくらい見事に、日本人教育がなされていると思います。これまでの教育の結果、物言わぬ、お上にお任せ日本人が育てられ、先に見たように、原発事故でこれだけの被害を受けながら、ストライキの一つも、打ち壊しの一つも生じず、原発の再稼働で日本の滅亡もありうる選択にも、結局従ってしまうということは、これまでの官僚による奴隷化教育の成果だと言えるでしょう。
日本人は自分の命が脅かされていても、お上の言うことには従おうとするところがあります。福島第一原発事故でもそのことが見られますが、汚染地帯に住む人々も生活が懸かっているので、簡単には移住できないという状況があるかと思いますが、命を脅かされていることは間違いないことですから、移住の方向での働きかけをすべきではないかと私は思いますし、そのことは被害者が動き出さなければ、日本では行政には期待できないことは上に述べたことでも明らかでしょう。
さらに国民の多くが発症する癌治療に関しても、医者のほとんどが回避するという抗癌剤治療は結局癌死者数が増加するという結果を見れば効果のほどが明らかでありながら、医者が治療方針として示すからと、唯々諾々と受け入れるというのも主体的な判断力や決断力が不足する日本における教育結果のなせる業と思います。この抗癌剤治療は製薬会社、薬問屋、薬局、医療機関が潤うための、しかし医療費の無駄な膨張を招き、保健料の高騰に結びつくという、結局国民にとってはまったくよい結果にはならないものでありながら、漫然と続けられているのも、殺人に近い医療行為を日本人が受け入れるので成り立っています。
このような教育によって、日本の新たな価値づくり、産業育成がうまくいっているかと言うと、企業は新たな産業分野を探索すれども、なかなか生まれてきていないというのが実態で、後発国の産業レベルの向上の中、競争力を失って、大手企業が失速していっている姿があちこちで見受けられる状況であることはお分かりのことと思います。ベンチャー企業の育成も、旗は振られど発想力ある担い手がなかなか現れず、ネット関係事業でも、根本的な変革は、ほとんどアメリカ発であるなど、ベンチャーも成功しているとは言えません。
自主性、自発性、個性を育てずに、創造力の発揮だ、ベンチャーだと言っても、根っこを育てずに花を咲かせろとわめくに等しいことで、できるはずはないのです。
官僚にとっては、日本の人間力を育て、その人間力の上に新たな産業力を作るという発想はありません。自分たちに従わせることが先であり、その結果日本に新たな産業が育たなくても構わないし、自分たちに責任はないという態度です。
要するに官僚が握る教育方針では、強い日本人は育てずに、奴隷人間を育て、自分たちが生殺与奪権を握る、それが彼らの狙いであり、まさに事柄はその方向に進んでいます。
教育は国の基盤づくりになるという点で、極めて重要なものであり、多くの経費が投入されていることには違いありませんが、自主性、主体性の希薄な、そして学ぶ意欲を見出せない子供、若者が育つという、日本にとって、そして国民にとって、望むべき姿とはかなりかけ離れた教育になっていることに、国民は気づく必要があるのではないでしょうか?
これは決して子供や若者が悪いのではありません。教育行政を動かす人間たちが、自分たちの都合のために、国や国民のために必要な教育の基本施策を故意にサボっている結果であると言えます。
そしてこの教育の結果、国にとって人間力は極めて大きな要素ですが、意欲を引き出せない教育によって、創造的な人材が生まれていないし、産業創造もできていません。産業が衰退していくのも、それを乗り越える人間を育てられていないことに大きな要因があるのです。
要は官僚にとって、日本という国がどうなろうと、日本人がどうなろうと知ったことではないということです。彼らは自分たちの実権維持と自分たちの財布の維持ができればいいのです。奴隷国民の生殺与奪権を握りしめ、国民の命と生活を搾り取りながら、自分たちが生き延びればそれがベストということです。
すなわち私たち日本人は、初めから官僚権力の奴隷になるべく教育されてきているということに思い至る必要があるということです。そのような視点に立って、政治の世界の出来事をみれば、日本人の政治意識がなかなか発揮されない理由もお分かり頂けるでしょうし、私たちが何をしなければならないかということもお分かりいただけると思います。
安保法案を廃案にするには警察・検察・官僚との戦いが必要とのこと示しましたが、教育におけるこのような状況を見れば、やはり私たちは、官僚権力の頸木から脱出しなければ、国民主権を取戻し、安保法案の廃案を勝ち取れないこともお分かりいただけると思います。
先に示した官僚・警察・検察との戦いの必要性を述べること自体が一種のタブーになっているように、教育が教育官僚に牛耳られ、その批判をマスコミ記者がなかなか触れにくいことを示しましたが、私があえてこのことに触れたのは、私の置かれている状況をご理解いただいている方にはお分かりのように、私は既に初めはX線、そして2月ころからは中性子線を浴びせられ続けていて、放射線を浴びはじめて1年が経過しました。
低線量被曝でも白血病の発病に影響するという調査結果が示され、このことが大きな問題として話題になっていますが、私が浴びている放射線はそのような低いレベルのものではありません。
原発労働者の被曝限界50ミリシーベルト/年とされているわけですが、私が浴びる放射線は数百ミリシーベルトのものを日に何度も浴びています。全然桁が違います。
このような放射線を浴び続けていて1年が経過する中で、私の体も放射線被曝に耐えられなくなりつつあると実感してきています。
そういう中で、自分が果たしておくべきこととして、警察の秘密活動の被害者として、経験してきたことや、考えたことを皆さんに伝えておいて、いずれ官僚権力の不法性を国民の皆さんが追及する場面で、少しでも私の経験が役立つようにしておきたいということで、私の40年の教育経験の中で考えたことを皆さんに伝えておきたいと思います。
ただ私のこのブログやTwitter、Togetter、YouTubeそしてChange.orgにおいても、明らかに妨害攻撃が加えられて私の言説が皆さんに次第に見えなくされています。したがってこの記事を見られる皆さんには、これらの記事の保存と拡散、かつ拡散では貼り付けなどの記事内容そのもの拡散をお願いします。そして一番大事なことは皆さん自身がこの点の発信をしていただくことではないかと思います。またアクセス妨害など感じられたら、ぜひ私に知らせていただくと同時に、自ら公にしてくださることをお願いします。
アリがゾウを倒すのたとえで言えば、私のアリとしての一噛みとして受け取ってください。
追記:
この記事読まれると、日本人にはそれこそ未来はないと受け止められるかと思います。奴隷教育を受けてきて、まさに奴隷状態になっているなと感じられることは多いはずです。ただ私は日本人は大きなポテンシャルを持っていると思っています。たとえばスポーツの世界では若者が世界の中で活躍する人がたくさんいます。一人あげるとすればイチローです。あの小さな体のイチローが大リーグの記録を次々と塗り替えていったのは、それこそ自立心や個性の塊が自分を磨きあげて達成したものです。
また私が務めた高専では、学生の個性や主体性が出てくるような環境を作ると、それこそ次々といろいろなアイデアが出てくることを経験し、特許も40件以上出願しています。環境次第で、若者がアイデア創出のできるポテンシャルを持っていることを実感しています。
それからこれは少し前の私の仕事の結果ですが、環境技術で日本が世界をリードする状態を作り上げたのは、国民がそのような要求を行政や企業に求めた結果でした。これもたとえを言うと、世界一厳しい排ガス規制であったマスキー法(アメリカ)を、世界で最初に達成したのは、ホンダとマツダです。これは国民が、排ガス技術に熱心なホンダとマツダの車を買って応援したという消費活動による成果です。
このように日本人も自主的、自発的、個性的であるポテンシャルは間違いなくあるのです。そしてそれが、発揮できないような環境の中に置かれていると見なすことができます。そして人間は、自分の置かれた環境を変える力も当然持っています。その片鱗はこのたびの安保法案反対運動の中で見えてきていると思いますが、悪権力と化した官僚・警察権力の支配構造に目が向けられていないのが、現在の反対運動の弱点となっていると思います。
そこを乗り越える方向性を見出せば、困難は多いでしょうが、乗り越え可能と私は信じています。