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・たいていの、
今までの古典には無常ということが出ておりますけど、
日本文化には仏教思想がおおもとにありますから、
それじゃ、大地震がみな出ているかというと、
もちろん『源氏物語』には、
大地震の話なんかは出てまいりません。
もしそれが出ていて、
光源氏が紫の上を背負って逃げた、
というふうな記述でもあれば(笑)、
もっとドラマチックで、
おもしろかったかもわかりませんけれど、
そのかわりに、
ものすごい衝撃が書かれているといいますのは、
光源氏は一番愛していたと自分では思っていなかったんですが、
死なれてやっとそれがわかるんですけれども、
紫の上を先に死なせてしまいます。
まさか紫の上に先立たれるとは、
彼は思っていなかった。
愛人はたくさんいますが、
一番紫の上が、正妻のように扱った紫の上が好きだった、
愛していたし、それから彼女に守られていた、
ということが死なれてはじめてわかる。
これはやっぱり人生の大地震でございます。
すべての日本の古典は、
やっぱり天変地異と、
それによって起る物事と、
人の心の天変地異というのに、
大変関心を持って書いてあるように思います。
紫の上は、
『源氏物語』の中でヒロインのようでありますけれど、
ずい分いろいろな人が出てきますから、
ヒロインでなく扱われているように思われるむきも、
あるかもわかりません。
でも、少女の日からの人生をずっと書かれているのは、
紫の上だけです。
六条御息所も藤壺も、
そしてのちに源氏の正妻になった女三宮も、
彼女たちの少女時代はわかりません。
でも、私たち読者は、
紫の上が十歳のころから向き合います。
かわいい少女のころに、
<雀の子を犬君が逃がしたの>と、
おばあちゃまのところへ言いつけに行く、
そんなところから見てしまいます。
そして彼女が少女となって、
やがて源氏に引き取られて、
やがては源氏の妻となる。
二十代の彼女、三十代の彼女を、
ずっと見ているわけです。
そういう彼女に子供が出来ない。
思わざることに、
明石の上に子供が出来てしまう。
こういうときの紫の上の絶望感、
そういうのにも私たちはつき合います。
それは紫の上の大地震ですね。
明石の上に対しては、
彼女は大変嫉妬心を持っておりまして、
そのほかの人にはそんなに思わなかったんだけれど、
やっぱり明石の上に対する嫉妬というのは、
彼女の人生の中の大きな一番の関心事でございます。
そんな明石の上のほうに子供が出来た。
彼女は、もうこれからどうして生きていったらいいのか、
わからない。
でも、源氏という男はバランス感覚に富んでおりますので、
明石の上にできた女の子を取り上げて、
紫の上に<育ててくれるかい>と渡します。
それによって、紫の上はやっと生きがいを見つけます。
それからあとのことは、
普通ですと、子供にかまけてしまって、
紫の上は源氏とはもう切れる、
ということになるかもわかりませんけれども、
そうではなくて、紫式部のすごいところは、
やっぱりその後でございます。
紫の上は、できた女の子をとてもかわいがって、
非常によく教育します。
けれど、それによって、
人間の理性を曇らされたりいたしません。
少女がやがて大きくなって、
皇太子妃として入内する日が来たときに、
彼女はさらりと言います。
<これからは、この子の後見役は、
明石の上にお願いしましょう。
やがてだんだんとこの方も、
実のお母さまでないと、
打ち明けにくいことが出てくるでしょうからね>と。
大地震を乗り越えた紫の上の言葉でございます。
どんなにかわいがって育てても、
彼女の理性は曇りません。
<ほんとうのお母さまでないと言えないことが出てくる>
彼女はそう言って、
育てた少女をまた返します。
もちろん明石の上も、
それについては大喜びで、
やっと思うことがかなったという気がして、
宮中へ一緒について入るんです。
紫の上は、それから後も、
それとなく、
<することは終わった、
見るべきほどのことはこの世の中で見たから、
出家させてください>
と源氏に願います。
この出家は、
オウム真理教の出家ではございませんので(笑)。
(阪神淡路大震災の起きた年、オウム真理教の首領・浅原某逮捕でした)
ほんとうに何もかも捨てて、
この世から離脱すること、
この世の愛別離苦と別れることでございます。
もちろん源氏は、
愛している紫の上にそんなことはさせられない、
必死で反対します。
そうしますと、
紫の上もそれを強行するような人柄ではございませんので、
そうですか、と言って、そのまま引き下がります。
でも、さらにさらに大変なことが持ち上がってしまう。
とっても身分の高いお姫さまの女三宮が、
源氏にご降嫁になります。
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(次回へ)