「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「ナンギやけれど」 ⑪

2023年01月08日 13時49分17秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・たいていの、
今までの古典には無常ということが出ておりますけど、
日本文化には仏教思想がおおもとにありますから、
それじゃ、大地震がみな出ているかというと、
もちろん『源氏物語』には、
大地震の話なんかは出てまいりません。

もしそれが出ていて、
光源氏が紫の上を背負って逃げた、
というふうな記述でもあれば(笑)、
もっとドラマチックで、
おもしろかったかもわかりませんけれど、
そのかわりに、
ものすごい衝撃が書かれているといいますのは、
光源氏は一番愛していたと自分では思っていなかったんですが、
死なれてやっとそれがわかるんですけれども、
紫の上を先に死なせてしまいます。

まさか紫の上に先立たれるとは、
彼は思っていなかった。

愛人はたくさんいますが、
一番紫の上が、正妻のように扱った紫の上が好きだった、
愛していたし、それから彼女に守られていた、
ということが死なれてはじめてわかる。

これはやっぱり人生の大地震でございます。

すべての日本の古典は、
やっぱり天変地異と、
それによって起る物事と、
人の心の天変地異というのに、
大変関心を持って書いてあるように思います。

紫の上は、
『源氏物語』の中でヒロインのようでありますけれど、
ずい分いろいろな人が出てきますから、
ヒロインでなく扱われているように思われるむきも、
あるかもわかりません。

でも、少女の日からの人生をずっと書かれているのは、
紫の上だけです。

六条御息所も藤壺も、
そしてのちに源氏の正妻になった女三宮も、
彼女たちの少女時代はわかりません。

でも、私たち読者は、
紫の上が十歳のころから向き合います。

かわいい少女のころに、
<雀の子を犬君が逃がしたの>と、
おばあちゃまのところへ言いつけに行く、
そんなところから見てしまいます。

そして彼女が少女となって、
やがて源氏に引き取られて、
やがては源氏の妻となる。

二十代の彼女、三十代の彼女を、
ずっと見ているわけです。

そういう彼女に子供が出来ない。

思わざることに、
明石の上に子供が出来てしまう。

こういうときの紫の上の絶望感、
そういうのにも私たちはつき合います。

それは紫の上の大地震ですね。

明石の上に対しては、
彼女は大変嫉妬心を持っておりまして、
そのほかの人にはそんなに思わなかったんだけれど、
やっぱり明石の上に対する嫉妬というのは、
彼女の人生の中の大きな一番の関心事でございます。

そんな明石の上のほうに子供が出来た。
彼女は、もうこれからどうして生きていったらいいのか、
わからない。

でも、源氏という男はバランス感覚に富んでおりますので、
明石の上にできた女の子を取り上げて、
紫の上に<育ててくれるかい>と渡します。

それによって、紫の上はやっと生きがいを見つけます。

それからあとのことは、
普通ですと、子供にかまけてしまって、
紫の上は源氏とはもう切れる、
ということになるかもわかりませんけれども、
そうではなくて、紫式部のすごいところは、
やっぱりその後でございます。

紫の上は、できた女の子をとてもかわいがって、
非常によく教育します。

けれど、それによって、
人間の理性を曇らされたりいたしません。

少女がやがて大きくなって、
皇太子妃として入内する日が来たときに、
彼女はさらりと言います。

<これからは、この子の後見役は、
明石の上にお願いしましょう。
やがてだんだんとこの方も、
実のお母さまでないと、
打ち明けにくいことが出てくるでしょうからね>と。

大地震を乗り越えた紫の上の言葉でございます。

どんなにかわいがって育てても、
彼女の理性は曇りません。

<ほんとうのお母さまでないと言えないことが出てくる>

彼女はそう言って、
育てた少女をまた返します。

もちろん明石の上も、
それについては大喜びで、
やっと思うことがかなったという気がして、
宮中へ一緒について入るんです。

紫の上は、それから後も、
それとなく、

<することは終わった、
見るべきほどのことはこの世の中で見たから、
出家させてください>

と源氏に願います。

この出家は、
オウム真理教の出家ではございませんので(笑)。

(阪神淡路大震災の起きた年、オウム真理教の首領・浅原某逮捕でした)


ほんとうに何もかも捨てて、
この世から離脱すること、
この世の愛別離苦と別れることでございます。

もちろん源氏は、
愛している紫の上にそんなことはさせられない、
必死で反対します。

そうしますと、
紫の上もそれを強行するような人柄ではございませんので、
そうですか、と言って、そのまま引き下がります。

でも、さらにさらに大変なことが持ち上がってしまう。
とっても身分の高いお姫さまの女三宮が、
源氏にご降嫁になります。






          


(次回へ)

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