「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「ナンギやけれど」 ⑩

2023年01月07日 09時12分58秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・あの『方丈記』には、皆さまご存じのように、
文治元年(1185)のあの大地震のことがこと細かに出ています。

『平家物語』にもそれは載っております。
山が割けて水が噴き出したそうです。

これも全く今の地震と同じでございます。

雷鳴のような地鳴りがとどろいて、
お寺も見事な大邸宅もありとあらゆるものが覆って、
圧死者が多く出た。

そして火が出ますから、七珍万宝が灰になった。

その前には、
養和元年(1181)の飢饉というのがございました。

鴨長明は、それをつぶさに見ております。

ちょうど八百年前になりますけれども、
そのときには、
京中に食べ物という食べ物がなくなってしまった。

この年は天下の大飢饉で天災の上に、
源平の戦争のため、糧道が断たれてしまったらしい。

源氏も平家もお米を押さえますので、
京へ入ってくるお米がなくなってしまった。

京都の餓死者は道ばたに満ちたといいます。

薪にも困って、仏さまであろうが、仏壇であろうが、
みんな壊して、それを売ってそこばくの米にかえたり、
煮炊きや暖をとった。

それに続いて、大風、つむじ風、
また疫病の流行、それから大地震と続きます。

鴨長明は、この世ならぬ地獄を、
ずっとその目で見続けたわけでございます。

彼はそれによって、
<人と住みか>は無常、人生は常ないこと、
であると知ります。

常ないからこそ、それをいつも考えて、
煩悩を断って遁世すれば心も安楽である。

すべてを捨てて、大きなものを得た。

けれども長明は世を憎んで捨てたのではありません。
世を捨てたから人生のたのしいことを知ったのです。

より大きな広い愛に生きなければいけない。

仏を信ずるということは、
そういうことではないかと、
そういうふうに私は『方丈記』を読んだのですけれど・・・

昔から今まで、
天変地異や人生の悲惨はたくさんあるんですけれど、
現実を見ますと、
これは無常を悟って諦観するというより、
無常の世をどういうふうに生きていったらいいかということが、
まず胸に浮かんできます。

助け合いというのか、
連帯というのか、何か考え方、
人間の今までの発想を変えなければいけない、
それがまず大事ではないかと。

たとえばライフラインを整備するとか、
仮設住宅を建てるというのは、
もちろん喫緊の喫緊事ですけれども、
それと共に私たちは、
いろいろなふうに考え方を変えて、
みんながもっと生きやすい社会というか、
世の中を暮らしやすく、
お互いにこにこして暮らせるには、
どうしたらいいかと、
一見卑近なことですけれども、
これしかもう生き抜く道はないんじゃないかと、
考えるわけでございます。

学者の先生がおっしゃるところによりますと、
活断層の上にものを建てたら、
それはもうどんなに堅固に建ててもだめだそうです。

これはえらいことだなと思いました。

それじゃ、永久に、日本では、
安心できるところに住めないじゃないかと、
どこに住んでも火宅ではないかと、
怖くなります。

でも活断層の上であっても、
また生き直せるというふうな発想を、
私たちは育てなければいけない、
そんなふうに考えたのでございます。

それは自分だけが助かろうというのではなく、
みんなで手をさしのべあって生きてゆく、
という発想です。

震災と空襲のちがうところはもう一つ。

空襲にあった人々は、
煤と泥だらけでまっ黒になりながら、
次から次へと田舎に脱出していきました。

震災では反対に、
外から肉親、友人を案じて、
水と食料を背負った人々が、
続々と阪神間や神戸をさしてやってきました。

寸断された道路を歩きつづけ、
瓦礫を踏み越えて焦土に入ってきました。

知人や身内のいない人も、
「おにぎりあります」と背中に書いて歩きました。

それを思えば人間の原型はここにあると思います。
活断層の上でも生きられる理由です。






          



(次回へ)

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